第66話
京香は瑠璃に、ソファーへと押し倒された。
瑠璃のツインテールが垂れ下がり――逆光の中、瑠璃が黒いマスクを外した。
素顔を京香は見慣れているはずだった。だが、なんだか違和感を覚えた。その正体に、すぐ気づいた。
「ピアス……付けてないのね」
露わになっている両耳、そして艶めかしい唇にそれぞれ、ピアスホールが見えた。
かつて、京香はこの衣服を『瑠璃がピアスを付けている』前提で用意したのであった。もう、あの時とは――違っていた。
「お菓子作りの仕事に関わるなら外すよう言ったの、アナタじゃないですか」
瑠璃が自嘲気味に笑って見せた。
だから、京香には当てつけのように聞こえた。食品製造業者としては当然の内容だとしても、瑠璃にとって『呪いの言葉』になったように思った。
今は、少しだけ不憫だった。
「仕事外なら、付ければいいじゃない」
「やですよ、面倒くさい。それに――」
馬乗りになったまま、瑠璃が何かを言いかけて詰まらせる。
代わりに、ニヤリと笑った。
「して欲しいですか?」
何をと、京香は訊くまでもなく答えが決まっていた。
「ええ」
「ふふっ。やっぱり、変態さんですねぇ。どんだけ欲しいんですか。もうちょっとしたら、ピザ来るのに……」
瑠璃を欲するのは本心だ。だから、どれだけ貶されても京香は構わなかった。
それに、この状況には、少なからず興奮を覚えていた。
物欲しそうに見上げる京香に、瑠璃が顔を近づける。
「お預けです――と言いたいところですけど、せっかくのお誕生日にコレだと、三十路のザコ●●●は寂しいですよね?」
耳元で囁かれ、自身の背筋がゾクゾクと震えたのを、京香は感じた。
その直後、エントランスのインターホンが鳴り響いた。
「さっ、ディナーにしましょう」
瑠璃が笑顔で立ち上がると、ソファーからパタパタと立ち去り、ピザを受け取る対応にあたった。
手慣れた様子だと京香は思う一方で――切ない気持ちに焦がれた。ソファーから身体を起こし、乱れた衣服を整えた。
「はーい。カロリーの塊がやって来ましたよー」
やがて、ジャンクフード特有の匂いが部屋に立ち込めた。
京香は帰宅後に食欲が無かったが、今は腹が疼いた。なんだか、久々の感覚だった。
瑠璃がリビングのテーブルにピザの箱を置くと同時、京香は立ち上がった。
「あんたも飲むでしょ?」
「当たり前じゃないですか」
京香はキッチンに向かい、二杯のハイボールを作った。
その際、キッチンの隅で――畳まれた黒いウサギのエプロンが見えた。
先ほど、瑠璃がキッチンを訪れたはずだ。見られなかっただろうかと、焦る。リビングの瑠璃を伺いながら、エプロンをそっと隠した。
京香はハイボールのグラスをふたつ持ち、リビングに戻った。ソファーで、瑠璃の隣に座る。
「三十三歳の誕生日、おめでとうございまーす。わたしと十一も離れてるなんて、ヤバくないですか!?」
「はいはい。ありがとう」
くだらない音頭で乾杯し、京香はハイボールを一口飲む。
その後、温かいピザの――溶けたチーズにまみれた身体に悪い味が、とても美味しかった。
京香は毎日の夕飯に、宅配を利用することが多い。しかし、ひとり身である以上、量の都合からピザの選択肢は無かった。
おそらく、昨年に瑠璃と食べて以来だ。
そのように振り返っていると――ふと、瑠璃の音頭が引っかかった。
「ちょっと待って。あんた、誕生日過ぎたの?」
十一歳差ということは、京香の知らないところで瑠璃もひとつ年を取ったことになる。
瑠璃が退職してから現在までの『空白期間』か、或いは『ママ活』の最中だったのか。せめて前者であって欲しいと、京香は思う。
「何言ってるんですか……。人間誰しも、誕生日はあるでしょ?」
「だから、いつなのよ?」
「知ってますか? 瑠璃の誕生石は、九月です」
つまり、昨年の九月――瑠璃が退職してすぐということになる。結果として前者だったにしろ、辛い思い出が蘇り、京香は複雑な気持ちだった。
「次の誕生日は……私がお祝いしてあげるわ」
「えー。京香さんなんかに誰かの誕生日のお祝い、出来るんですかぁ? なーんて……言ってくれたからには、期待してあげます」
言葉の割に瑠璃がなんだか嬉しそうだと、京香は感じた。
ハイボールを飲みながら、ピザを食べる。誕生日の夕飯にしては質素だが、ここ最近では最も充実した食事だった。
京香としては、瑠璃の存在が嬉しいから――だけではない。このメニューと瑠璃の衣服が、とても懐かしくもあったのだ。
やがて、ピザの箱が空になる。
「さてと……」
瑠璃がソファーを立ち上がり、キッチンへ向かう。
何やら準備をしているようだが、コーヒーの良い匂いが京香の鼻に届いた。キッチンの扱いはお手の物だと、京香は思った。
しばらくして、キッチンから瑠璃がトレイを持って現れる。キッチンナイフ、ふたつのマグカップ、そしてふたつの小皿とフォークが載っていた。
トレイをリビングのテーブルに置き、瑠璃はキッチンに引き換えした。
「お待たせしました。これが……わたしからの、誕生日プレゼントです」
再び現れた瑠璃は、ニヤニヤと笑いながら――両手でパステルブルーの箱を抱えていた。
京香の隣に座り、箱を横から開ける。
「何が入ってるでしょーか? じゃじゃーん」
箱から出てきたものに、京香は驚いた。否、衝撃的だった。
青いホールケーキだった。
俯瞰からでは、青いゼリーだった。側面から、白いケーキの上に青いゼリーが載り、二層構造になっていることがわかった。
「なによ、これ……」
一般的に、青色は飲食物に向かない。着色料が露骨に添加物を連想させ、不健康な印象を与えるからである。
だが、このケーキは白色も含まれているからか――青と白のコントラストが、京香は素直に綺麗だと感じた。そして、白いケーキはおそらくレアチーズケーキだろうと思った。
「ラズワード――お店と同じ名前の、主力商品です。ぶっちゃけ、これオンリーの専門店でも全然やっていけますよ」
瑠璃がキッチンナイフでケーキを切り分ける。五号ほどの大きさであるため、六等分にされた。
一ピースを小皿に盛り、京香に渡した。
箱から、きっと何かケーキを持ってきたと京香は思っていた。だが、まさかこのようなケーキが出てくるとは思いもしなかった。
初めて見るケーキだった。
どのような味か、まだわからずとも――近い未来でショッピングモールの開店後、瑠璃の店が大いに賑わう様子が、嫌でも想像できた。
畑違いの生菓子だが、それだけの将来性を秘めている。商品開発業務の経験と勘から、京香はそう察した。
「パッケージ、まだなんですよねぇ。お店のかわいいロゴと、黒いウサギを描こうと思います」
瑠璃が無地の空箱を取り、側面を撫でた。
商品開発として、最終段階のようだ。まだ未完成ながらも、あまりの完成度の高さに、京香は打ちのめされていた。三ヶ月の短時間で、瑠璃がここまで仕上げてくると思わなかった。
「あれー、どうしたんですかー? ひとりで食べられないんですかー? もー、しょうがないですねぇ」
京香は小皿を受け取ったまま食べずにいると、にんまりと笑った瑠璃がフォークで一口分を切り分けた。
「今日だけ、特別ですからね? ハッピーバースデー」
フォークを向けられ、京香は恥ずかしいながらも口を開けた。
想像通り、青いゼリーからは柑橘系の爽やかな酸味がした。それがレアチーズケーキのなめらかな味わいを邪魔するどころか、むしろ引き立てている。
見た目だけではない。味も、とても優れている。
「美味しいわね……」
京香は、忌憚ない感想を漏らした。
それがとても嬉しいのか、瑠璃が笑った。京香が久々に見た、幼い子供のように無邪気な笑みだった。
「これを『部外者』に食べさせたのは、京香さんが初めてです。お客さん第一号になれたこと、光栄に思ってください」
「ええ。ありがとう……」
もしも、瑠璃がまだ自分の部下であったなら――かつてないほどの誇りだったと、京香は思う。
複雑な気持ちだった。実際の商品と瑠璃の口振りから、対峙していることが現実味を帯びてきた。
否、どこか楽観視していたと、ようやく気づいた。
「わかりましたか? これがわたしの本気です」
瑠璃に一切の慈悲は無い。容赦なく妙泉製菓を叩きのめそうとしていると、京香は痛感した。
そもそも、今夜にしても誕生日を祝う気は一切無いのだ。これを振る舞うためのきっかけに過ぎなかった。
「わたしが欲しいなら――いい加減、アナタも本気出さないと、ガチのマジでヤバいですよ?」
このうえないほど下卑た笑みを、瑠璃が浮かべる。
このうえないほどわかりやすい宣戦布告を、京香は受け取った。そして、ただ戦慄した。
第22章『宣戦布告(前)』 完
次回 第23章『宣戦布告(後)』
バレンタインに京香は瑠璃に会う。




