第65話
一月十七日、金曜日。
今週は月曜日が祝日だったため、京香はあっという間に週末を迎えたように感じた。
小柴瑠璃と再会するも、素直に喜ぶことが出来ず、複雑な気持ちが続いていた。
寒い朝――今日もどこか浮かないまま、午前八時過ぎに出社した。
「京香部長、お誕生日おめでとうございます」
開発一課のオフィスで、満面の笑みを浮かべた三上凉から、挨拶ではなく祝いの言葉で京香は出迎えられた。
既に出社している他の課員達も、朗らかな様子だった。
「あ、ありがとうございます……」
京香はきょとんとしながらも、感謝した。
当然ながら、自分の誕生日を把握している。今日で三十三歳になるため、本音としては嬉しくないが。
同僚達から毎年、このように祝われていた。だが、今は頭が瑠璃のことで一杯であり『恒例行事』をすっかり忘れていた。不意打ちを食らったかのようだった。
「これ、私らからのプレゼントです。素敵な一年を過ごしてください」
凉が差し出した小さなショップバッグを、京香は受け取る。
ショップバッグに書かれたブランド名から、中身は『高級コスメ』だと察した。後で知るが、保湿能力の高いリキッドタイプのファンデーションだ。
開発一課では、課員の誕生日を贈り物まで添えて祝う風習は無い。京香にだけ毎年、特別な行事だった。
「皆、ありがとう。この歳にもなると、正直憂鬱だけど……とっても嬉しいわ」
京香はオフィス内を見渡しながら、感謝した。
いつもであれば『ゴマすり』と感じていた。凉の集金に嫌々付き合わされている課員も居るのではないかと、思うほどだった。
だが今年は精神面が弱り気味であるため、純粋に皆の善意だと受け止めた。素直に感謝した。
「そういうことは、私ぐらい歳取ってから言ってください」
凉の苦笑に、周りが笑った。
京香も思わず連れられた。朝から『良いこと』があり、少しだけ気分が和らいだ。
親睦会の際は部長として多めに参加費を出しているが――それとは別に、何か高級スイーツを買ってこようと思った。いつもは苦痛な『お返し』も、今年は前向きに考えることが出来た。
*
午後七時半に、京香は帰宅した。
本来であれば今夜は『婚約者』から、誕生日のディナーに誘われていた。しかし、体調不良を理由に昨晩断った。
精神面から――体調があまり優れないのは事実だ。
日中は割と心地良かったが、ひとりきりの部屋に帰った途端、孤独を感じた。鞄と共に、誕生日の贈り物であるショップバッグもソファーに置き、リビングの暖房を点けた。
今日は誕生日だけでなく、週末でもある。
だから、嫌でも連想してしまう。この三ヶ月、孤独な週末には慣れたはずだったが――瑠璃との再会が、なお掻き立てた。
もしも瑠璃が退職していなければ、今でも関係が続いていたならば、今夜はどのように祝ってくれただろうか。京香はふと、そのように考える。
いや、そもそも誕生日がいつであるのか伝えていない。話す機会が無かったが、あのまま続いていたとしても、機会が訪れることは思えない。
それに――京香もまた、瑠璃の誕生日がいつであるのか知らなかった。きっと『ママ活』の期間であった四月から九月ではないだろうが。
京香はスーツのジャケットを脱ぐことなく、ソファーに腰掛けた。そして、携帯電話の電話帳から『小柴瑠璃』を開いた。
電話をしたところで現在は『存在しない番号』であると、知っている。それでも、登録を削除することが出来なかった。
「はぁ……」
京香は溜め息を漏らし、携帯電話で宅配のウェブサイトを開いた。
食欲はあまり無いが、今夜は少し奮発しよう。ケーキも注文しよう。京香はそう思いながら、画面をスクロールしていると――ふと、インターホンが鳴った。
一体、こんな時間に誰だろう。贈物だけでも渡しに訪れた、婚約者だろうか。それとも、ひとりきりであることを見計らった、妹の円香だろうか。前者の場合、居留守を使いにくい。京香は仕方なくソファーから立ち上がると、インターホンの画面に向かった。
「え……」
画面に映る人物に、言葉を失う。
ツインテールだから、紫のインナーカラーが映えていた。そして、黒いマスクを着用していても、ニヤニヤした笑みを浮かべているのがわかった。
『もしもーし。京香さん、画面見てますよね? 居留守だけはガチのマジでナシですよ?』
こちらの行動を見透かす人物など、限られている。
そう。どういうわけか、小柴瑠璃がマンションのエントランスまで訪れていた。
「は、入りなさい」
京香はそれだけを告げ、エントランスの扉を解錠した。インターホンの通話を切った。
もうしばらくすると、瑠璃がこの部屋まで上がってくる。願ってもいない出来事だ。
しかし、胸の鼓動が高まり、落ち着かなかった。この部屋でいざふたりきりになると思うと、とても緊張した。
京香はリビングを見渡す。整理されているというより、そもそも物が少ない。だから、テーブルに散乱しているウイスキーの瓶が、際立った。
とはいえ、この部屋を瑠璃は知っている。
少し恥ずかしいが、京香は何も手をつけずに瑠璃の到着を待った。
エントランスのインターホンから約三分、玄関のインターホンが鳴った。
京香はやはり緊張しながら、玄関の扉を開ける。
「こんばんは、京香さん」
ツインテールの瑠璃が、ケープコートとでも言うのだろうか――オーバーサイズの黒い外套に身を包み、佇んでいた。両手で、何やらパステルブルーの箱を抱えている。
「い、いらっしゃい……」
京香は瑠璃の格好に驚くも、部屋に上げた。リビングへと連れて行く。
「うわー、ちっとも変わってませんねー。なんていうか、いかにも独身三十路の部屋って感じですね」
瑠璃から、ここ最近の調子でケラケラと笑われ、京香は少し苛立った。
まさか、昨年の『ママ活』から内心ではそのように思っていたのだろうかと、疑いたくなる。
「あんたね、そんなこと言いにわざわざ来たの?」
「違いますよ。お誕生日、おめでとうございまーす」
ニヤニヤした笑みを浮かべた瑠璃から、パステルブルーの箱を向けられる。
「どうして知ってるのよ……」
祝いの言葉に京香は驚くも――『背後』の人物が瑠璃に告げたとしか考えられない。
この場で瑠璃を問い詰めたところで、正直に話すとは思えなかった。京香としても、確証が欲しいわけではなかった。
「ザコ三十路の京香さんのことなんて、何でもお見通しですよ。せっかくのお誕生日なのに、誰からもお祝いされてないと思ってー、かわいそうだから来てあげました」
「うっさいわね……余計なお世話よ。ていうか、それ何よ?」
パステルブルーの箱は無地だった。両手で抱えるほどの大きさだが、何が入っているのか京香は見当がつかない。
「わたしからの、お誕生日プレゼントですよ。後で食べましょう」
瑠璃が冷蔵庫に向かい、勝手に箱を仕舞った。
実に図々しいと京香は感じるも、なんだか嬉しかった。そして、ようやく中身を察し――瑠璃の言葉に気づいた。
「後でって言うけど……生憎、他に食べるものなんて無いわよ」
「だと思ってました。だから、ピザのデリバリー頼んでます。もちろん、わたしの奢りで」
「は?」
京香は驚くも、この生活を知っている瑠璃だからこそ出来ることだと納得した。
いや――たかが宅配ピザであろうと、瑠璃の『奢り』に驚いたのだった。瑠璃のどこか誇らしげな表情に、彼女の確かな成長と、微笑ましさを感じた。
「なに笑ってるんですか。気持ち悪いですねー」
「素敵な誕生日を、ありがとう」
「ふ、ふんっ。三十三のくせに、生意気です!」
瑠璃は照れた様子を見せるも、何かを思いついたのか、にんまりと笑った。
わざわざ京香に向き合い、外套を脱ぐ。
現れた瑠璃の服装に――京香は自分の目が見開いたのを感じた。
襟と袖に黒いレースが装飾された、暗いピンクのブラウス。三連バックルベルトの付いた、丈の短い黒色のプリーツスカート。
そう。京香が見覚えのある衣服だったのだ。『あの時』と違うのは、今は厚い黒色のタイツを履いているぐらいだ。
「ざぁこ。ぼっち。変態さん。うふふ……こういうの、好きなんですよねぇ?」
ニヤニヤ笑いながら、瑠璃がスカートの裾を指先で摘んで見せた。
かつて、京香が用意したこの衣服を着せた時は――あまりの恥ずかしさから、とてもぎこちなかった。だが今は恥じらいなど無く、むしろ自然に着こなしている。
「えいっ」
京香は悔しいが見惚れていると、瑠璃からソファーへと押し倒された。




