第63話
一月九日、木曜日。
午後二時過ぎ、開発一課のオフィスに妙泉円香が現れた。
「やっほー。姉さん、ちょっとドライブ行かない? 前にも言ったけど、モールの中に入れるみたいだからさ」
そういえば、本社を訪れた際にそのようなことを言っていたと、京香は思い出した。
満面の笑みを浮かべている妹が、はしゃいでいる子供のように見えた。半眼を向けた。
「いいじゃないですか。様子見てきたら、どうですか?」
京香はどうにか逃げ口を探したが、三上凉に防がれた。凉が円香に加担しているわけでもなければ、悪意も無い。純粋な気遣いだと、京香は感じた。
だからこそ、素直に降参するしかなかった。
「すいません……ちょっと留守番お願いします」
「りょーかい。写真撮れるなら、撮ってきてください」
京香は部長席から渋々立ち上がり、コートを羽織った。
駐車場へ向かい、円香の自動車の助手席に座る。
「ていうか、あんた仕事は? 油売ってていいの?」
動き出した車内で――サイドウィンドウをぼんやり眺めながら、京香は訊ねる。いつものように、営業としての仕事ついでに立ち寄ったのだろうと思っていた。
「やだなぁ。これが私の仕事だよ」
「良いご身分ね……」
「人間、適当に息抜きするぐらいが、ちょうどいいのさ。姉さんだって、たまには気分転換した方がいいよ」
本社でも、円香から元気が無いことを心配された。彼女なりに気遣って外に連れ出したのだろうかと、ふと思った。
「大きなお世話よ」
だが、妹が仕事を怠ける理由に使われているだけだと、思うことにした。
そう。どれほどの気分転換でも、気持ちが浮くことは無いのだから。
しばらくして、ショッピングモールの工事現場へ到着した。
京香がここを訪れたのは、九月以来二度目だった。たった三ヶ月で――更地だったこの地に、視界に納められないほどの巨大な建物が構えていた。
「わぁ。もうこんなに進んでるよ」
「そうね……」
運転席ではしゃぐ円香に相槌を打つが、京香としてもあまりの早さに驚いた。
まだ外装こそ無いものの、建物の原型は完成している。本当に、十一月に開店するのだろうか。このままでは春には開店しそうな勢いだと、京香は感じた。
そして、開店と共に推す新商品の姿形が全く見えないことに、焦りを覚えた。工事の様子を実際に確かめなければ、こうはならなかっただろう。気分転換というより、この意図で円香に連れてこられたように思った。
工事現場の隅にある、関係者向け仮説駐車場に自動車を置いた。
自動車を降りてふたりで建物に近づくと、建設作業員と思われる人物から黄色いヘルメットを渡された。京香は嫌だったが――工事現場に入るためには必要な装備であるため、仕方なく被った。
「中はまだ、あんまりだね」
広い建物内は、かろうじてテナントが区画されている程度だった。外観よりもさらに無骨であり、確かに工事の完成までは遠いと、京香は少し安心した。
注意しながら建物内を歩くと、疎らだが人は確かに居る。建設作業員と『関係者』の違いを京香は、格好から大体わかった。およそ半々だった。
一括りに『関係者』と呼べど、中には建築デザイナーも居るのだろう。建設作業員に指示を出している人物も、京香の目についた。工事の進捗は、テナントごとにバラバラだった。
「ここが、妙泉製菓の店――になるところ」
やがて、一階のとある一角にたどり着く。スイーツフロアのはずだが、京香の目には、きらびやかさなどまだ皆無だった。
円香が指さしたテナントには、誰も居なかった。店のデザインがまだ決まっていないのだろうか。工事としては、まだほとんど手がつけられていない。ガランとしていて、物寂しい。
だから、対称的に――工事が割と進んでいる隣のテナントに、自然と視線が向いた。
スイーツフロアだが何の店であるのか、京香はまだわからない。奥に小さな厨房があり、かつ手前の店頭で商品の受け渡しをする形式であることから、何かの生菓子店のようだが。
今もまさに、工事が行われていた。
この店の関係者だろうか。店の前で、黄色いヘルメットを被った小柄な女性が、建設作業員に何やら指示を出している。
黒いダウンジャケットと、黒いパンツ、そして長い黒髪――全身黒色の格好をした女性の、後ろ姿だった。
きっと、ショッピングモールの工事現場では、何でもない光景のひとつなのだろう。
だが、京香はなんだか既視感を覚えた。ドクンと胸が高鳴り、ある予感が込み上げる。
「ちょっと、姉さん? そっちじゃないよ? 隣だからね?」
京香は小柄な女性に近づく。円香の声は、耳に届かなかった。
ふと、女性が振り返った。紫色のインナーカラーの入った長い髪が、揺れる。
女性の素顔に、京香は目が見開いた。
「あんた……」
いや、黄色いヘルメットと黒いマスクを着用した素顔は、瞳しか見えない。それでも、京香にとっては『素顔』だった。
瞳が――にんまりと笑った。
「これはこれは……京香さんじゃないですか。お久しぶりです」
彼女の嘲笑う姿を、京香はこれまで全く見ていないわけではない。しかし、突然このような態度を取られ、少し戸惑った。
それよりも――
「ここで何やってるのよ……」
目の前に、小柴瑠璃が居る。
目の前からいきなり姿を消した、小柴瑠璃が居る。
あの日どうして一緒に失踪してくれなかったのか、京香は問い詰めたかった。怒りたかった。
頭はそう働くも、今はただ、再会の喜びを静かに噛み締めるだけで充分だった。まさか、このような場所で再会するなど、思いもしなかった。
「何って……ここ、わたしのお店なんですけど?」
クスクスと小さく笑いながら、瑠璃はテナントを指さした。
京香には、何かの冗談のように聞こえた。この女性に『開発一課の有能な課員』としての印象を、京香は未だに持っていたのであった。
だが、建設作業員に指示を出している姿をたった今目撃した。冗談を言っていないと理解すると同時、未開封の退職届が頭を過った。
「Lazwardて言います。どうです? オシャレでしょ? わたし、ちょっとケーキ屋さんをやってみようかなー、なんて」
そういえばパティシエの娘だったと、京香は思い出す。
彼女がケーキ屋を営むことは、おかしいことではない。本来のあるべき姿に戻ったとも言える。
京香はそう感じるも――やはり、悪い冗談のようだった。
「ケーキ屋? あんたが?」
引きつった笑みを浮かべ、確かめる。
ヘラヘラした様子で喋る瑠璃の言葉と、現実の光景に、京香は理解が追いつかない。驚く余裕すら無かった。
「あれ? えーっと……小柴さんじゃん。いやー、久しぶりだね。元気してた?」
「はい、お陰様で。あの時は、お世話になりました」
京香の背後から近づいてきた円香に、瑠璃は礼儀正しく頭を下げる。
瑠璃の言う『あの時』が何を指すのか、京香は嫌でもわかった。
「それで、ケーキ屋だって? おめでとう――て言いたいところだけど、今回は素直に祝えないなぁ」
苦笑する円香に、瑠璃は隣のテナントを覗き込んだ。
「あれれー? もしかして、お隣さんですかぁ?」
「うん。偶然だけど……お互い、商売敵になったみたいだね」
事実として、妙泉製菓に隣接するテナントが瑠璃の店であるLazwardになる。店主として今日この場で、偶然再会したことになる。
京香はこの時、何かを疑う余裕など無かった。
「商売敵? いやいや……それはおかしいでしょ」
瑠璃がニヤニヤした笑みを浮かべながら、京香に近づく。そして、京香の顔を覗き込んだ。
「ざぁこ」
片手を口に添え、瑠璃はそっと囁いた。
変わったイントネーションだった。『雑魚』と言われたのだと理解するまで、京香は少しの時間を要した。
「すいませんけど、わたしは妙泉製菓なんてハナっから眼中にありませんよ。お客さん奪われまくっても、文句はナシですからねー」
「あんたね……」
満面の笑みで真っ向から煽ってくる瑠璃に、京香は流石に苛立った。
少なくとも、大切にしていた『所有物』はこのような無礼を働かなかった。だから、まるで別人のようだった。
「あれー? 怒っちゃいましたぁ? もしかして、わたしに勝てるだなんて、本気で思ってるんですかぁ?」
おかしそうにケラケラと笑った後、瑠璃は京香を真っ直ぐ見つめた。
「逃げようとした負け犬のくせに……。ねぇ、三十路のオバサン」
何に対して逃げようとしたのかは明白だった。
京香は我慢の限界を迎え、一歩踏み出す。
「ちょっと、姉さん――揉め事はマズいって」
円香から肩を掴まれ、京香はかろうじて感情を抑えた。どれだけ挑発されようとも、手を出した時点で『敗北』になる。歳の離れた『子供』相手なら、なおさらだ。
「小柴さんも、後悔しても知らないよ? キミこそ、客を取られないか心配しておくといいさ」
捨て台詞を残した円香に連れられ、京香は建物内の来た道を引き返す。
約三ヶ月振りに再会した瑠璃が別人と化したことに、驚きはあった。だが今は、純粋に瑠璃が憎たらしかった。
第21章『ざぁこ』 完
次回 第22章『宣戦布告(前)』
京香は三十三歳の誕生日を迎える。




