第62話
京香が凉との休憩からオフィスに戻り、間もなく――午前十一時過ぎ、京香は自動車で本社へと向かった。途中、昼食を摂り、午前十二時半に到着した。
工場と同様、本社もこの時間は昼休憩だった。社員が自由に出歩き、少し騒がしい。
京香は、本社に居るはずの両川昭子との接触を警戒した。次期社長ともあろう人間が挙動不審な態度を見せるのは、おかしいと思う。それでも、必ず避けたいのだ。
「やあ、姉さん。久しぶり……でもないか」
そんな京香の前に、ベリーショートヘアの人物――妹の妙泉京香が現れた。にこやかな様子だった。
京香はタイミングが『出来すぎ』だと思ったが、安心したのは確かだ。
会議までは、まだ時間がある。円香に連れられて、他に誰も居ない応接室へ向かった。テーブルを挟み、ソファーに向かい合って座った。
京香が円香と会うのは、正月に帰省して以来だった。もっとも、その際は他の親族に囲まれ、姉妹ふたりでゆっくり話す機会は無かった。
ひとつだけ――円香に改めて訊ねたいことがある。
「ねぇ。あんた……あの子の行き先、本当に知らないの?」
「あの子って? えっと、名前忘れたけど……派遣だった子? もうやめた」
実にわざとらしいとぼけ方だと、京香は思った。半眼を向けながら、頷く。
「だから、知らないって言ってるじゃん。去る人間も、普通言わないよね」
あの日の明け方、小柴瑠璃が住んでいたアパートの前で同じことを訊ね――同じ答えが返ってきた。事実として、円香は瑠璃から退職届を預かっただけということになる。
だが、京香はとても信じられなかった。
「それに、私が他人に興味あると思う? 本質的なところは、姉妹そっくりだよ」
円香が笑いながら話す内容はもっともだと、京香は思う。
しかし、なんだか腑に落ちなかった。自分以上に瑠璃を買っていた節があったのだから、無関心ではないはずだ。行き先を訊ねるほうが自然だと感じた。
もしも円香が知っているならば、話せない理由はふたつあるだろう。
ひとつは、何らかの理由で円香が敢えて隠しているから。瑠璃の存在が身内にとって有益ではないと考えている可能性がある。
もうひとつは、瑠璃から口止めされているから。つまり、拒絶の意思を円香が汲んだことになる。
なんとなく――京香は後者だと、以前から思っていた。
「派遣のことなんて、もう忘れなよ。新しい派遣、頑張ってるんでしょ?」
「そうだけど……」
確かに瑠璃は派遣社員だったが、正社員へと引き上げた。そう提案したのは、紛れもなく円香自身だった。
だから、京香は円香の言葉に大きな違和感を覚えた。ここまで露骨であることからも『後者』の説得力があった。
「もしかして……まだ元気無いの、そのせい?」
笑顔で円香から訊ねられ、嘲笑われているように京香は感じた。流石に苛立ったが表に出せないため、ぐっと堪えた。
「引きずってるところ悪いんだけどさ……悠長にしてる余裕あるの? 新しいモールのオープンまで、あっという間だよ?」
舐めるような態度だが、痛いところを突かれた。京香は内心でさらに苛立った。
今年の十一月、ショッピングモールが開店する。妙泉製菓の店舗も入っているため、それに合わせて新商品を用意しなければならない。
パッケージデザインや製造ラインの確立など、量産の準備に約半年を要する。つまり、五月までに企画案を取りまとめ、社内の稟議を通さなければいけない。
残された時間は、約四ヶ月しかなかった。昨年の九月に案件として受けたものの、進捗状況は今ひとつだった。今日の会議でも、その点を突かれることを京香は覚悟していた。
「まあ、何とかなるわよ……」
適当に相槌を打つ。
瑠璃が居たならば、彼女はどのような案を出してくるだろうか。虚しいことはわかっているが、京香はつい、そう考えてしまう。そして、想像できなかった。
「ふーん……。あっ、そうだ。モールの工事もぼちぼち進んでるみたいで、建物の中に入れるらしいよ。工事中のお店、ちょっと見てみたら? どんなところに商品が並ぶのか想像するの、良いと思うけど」
「えー。嫌よ……絶対寒いし」
円香の提案がわからなくもなかったが、京香は気分が乗らなかった。性格上、面倒くさかった。
「そんなこと言わないでさ。私と一緒に行こうよ」
「なんでよ。あんたひとりで行けばいいじゃない。ていうか……あんたが見たいだけでしょ」
「あれ? バレた? いやー、超気になってさー」
「私を巻き込まないで。どんなお店かだなんて、私は割とどうでもいいから」
ショッピングモールのテナントを確保することに円香がどれほど関与しているのか、京香は知らない。以前の言動から、割と大きく関わっているように思う。
だからこそ、面倒事を押し付けられて腹が立った。
*
新年の経営会議ではやはり、新商品開発の進捗を突かれた。
京香は疲労感を引きずりながら、本社から直帰した。
午後七時過ぎ、自宅に到着する。冷えたリビングに暖房を点け、ソファーに鞄を投げた。
精神的に参っているからか、空腹感は無かった。風呂を沸かすのも、なんだか面倒だった。
仕事始めを迎えたというのに、京香はやる気が全く無かった。何もかもが、どうでもよくなった。
いっそ、何もかもを捨てて逃げ出したいところだが――『失踪』に一度失敗している人間は、それすらも億劫になっていた。
家業と向き合うことが出来なければ、逃げ出すことも出来ない。
行き場の無い気持ちを、京香は酒で誤魔化すしかなかった。ウイスキーを飲むためのグラスを求め、キッチンに向かった。
設備が揃ったキッチンは、もう何年も使用されていないように京香は感じた。事実、京香が料理をすることは滅多に無い。
それなのに――ウサギを模した黒いエプロンが、隅にあった。京香のものではない。
「なんで置いていったのよ……」
京香はうろ覚えだが、持ち主がここに通うようになった頃は持参し、持ち帰っていたはずだ。いつの間にか、まるで自分の部屋であるかのように、置きっ放しにしていた。
ふと、それを手にする。
京香は何度もこのエプロンを捨てようとした。しかし、捨てられなかった。
そっとエプロンを抱きしめた。持ち主の温もりも匂いも、今なお覚えている。記憶が蘇ると共に、瞳の奥が熱くなる。
腕の中にあるものは、所詮は擬物に過ぎない。決して満たされることは無い。
京香はグラスを手に、リビングへ戻る。スーツ姿のままソファーに腰を下ろし、ウイスキーを飲む。
どれだけ空腹感が無くとも、健康面から何かを腹に納めないといけない。宅配で何を取り寄せようかと、携帯電話を手にした。
だが、京香はウーバーのウェブサイトではなく――なんとなく、とあるプライベートSNSサイトを開いた。
かつては毎月一万円の支援を行っていたクリエイターは、もう存在しない。『ヨシピ』のフォローはゼロ人だった。
京香はそれを確かめると、次はSNSアプリを立ち上げた。アカウントを『ヨシピ』に切り替える。
昨年の八月の終わりに『独占契約』を交わした後『ぁぉU』を除く『裏垢女子』のフォローを全て解除した。しばらくフォローは『ぁぉU』ひとりだけだったが、彼女のアカウントは消滅した。
京香は今なお『独占契約』を守っていた。
「はぁ……」
溜め息を漏らし、京香はふと携帯電話のカメラロールを開く。スクロールして少しさかのぼると――半裸の女性の写真がずらりと並んでいた。
特定のひとりだった。長い黒髪に紫のインナーカラーが入った彼女は、ほとんどが顔を隠した自撮りだ。だが、中には恥ずかしそうな表情が露わになっている写真もあった。それらは世界で京香ひとりしか所有していない。京香が『独占権』で入手したものだ。
さらに、ある一枚の写真が京香の目に留まった。
空に並んだカラフルなビニール傘に、小柄な女性が手を伸ばしている。全く卑猥な写真ではないが――子供のように無邪気な様子が印象的でシャッターを切ったことを、京香は思い出した。
思い出は、この部屋にもあった。共に笑い、共に涙を流したこともあった。京香にとっては、かけがえのない時間だった。
「どこ行ったのよ……ばか」
京香はグラスのウイスキーを一気に飲み干した。アルコールの強い刺激に、頭が一瞬真っ白になる。
しかし、以前からどれほど酒を煽ろうと、忘れられなかった。
大切にしていた『所有物』が二度とこの手に帰ってこないことを、京香は理解している。ならばこちらも愛想を尽かして突き放そうとするも――切なさと虚しさに、胸が苦しめられるのだった。




