第61話
一月六日、月曜日。
午前七時半、妙泉京香は自宅を出た。
自動車を出すが、暖房が効くまで時間を要する。冬の寒い朝、長期休暇明けの気だるい気分で運転した。
いや、一体いつから気だるかったのだろうと、京香は思う。この感覚は、すっかり染み付いていた。
いつの間にか、年が明けていた。時間の流れが、異様に早く感じる。
しかし、京香にとって――蒸し暑かったあの日々は、遠い過去の出来事だった。
午前八時過ぎ、京香は妙泉製菓の工場へ到着した。
開発一課のオフィスへと向かう。
「皆、あけましておめでとう。今年もよろしく」
京香は課員達と、新年の挨拶を交わした。
始業前のオフィスは、課員達がそれぞれ長期休暇中の出来事を話していた。皆の浮ついた様子が、京香はなんだか羨ましかった。
京香は、机の引き出しを開けた。『退職届』と書かれた封筒が、未開封のまま置かれていた。どのような文章が記されているのか、未だ知らない。
この封筒の存在が現実であることを確かめるように、京香は封筒をそっと撫でた。
「京香部長、あけましておめでとうございます」
ふと正面から声をかけられ、京香は引き出しから顔を上げた。
「今年もよろしくお願いします」
帽子、マスク、作業着――全身白色の格好をした従業員から、頭を下げられていた。
工場内では珍しくない格好だが、このオフィスでは特定の一名だけだった。
そう。昨年の十月から雇用している、派遣社員の栄養管理士だ。彼女の名字と、二十代前半という情報ぐらいしか、京香は知らない。勤務態度も、悪い話を聞かない。無難な仕事ぶりのようだ。
昨年末に一度目の契約更新を行ったが、派遣社員など興味が無かった。
「こちらこそ……よろしくお願いします」
礼儀が良いと思いながら、京香は挨拶を返した。
部下や被雇用者というより、客人のように扱っていた。派遣社員への接し方としては、何もおかしくない。
やがて午前八時半になり、工場内に始業のチャイムが鳴り響く。
長期休暇明けである今日、従業員達の様子から、工場全体が本調子に乗らないだろうと京香は思った。日割りの生産計画を達成することは、早々に諦めている。ならばいっそ、従業員達が通常の感覚を取り戻すことに専念して欲しかった。
それに、京香としても今日は午後から本社での経営会議に出席しなければならない。とても憂鬱だった。明日から頑張ろうと思った。
「京香部長、ちょっと休憩いきませんか?」
午前十時半、三上凉からそのように誘われ、京香は共に席を立った。
途中、自動販売機で温かい缶コーヒーを二本購入する。そして、工場内の冷えた喫煙場へと向かった。
「はぁ。開発一課もすっかり寂しくなったけど……まだ慣れないや」
ふたりきりの喫煙場で、凉は電子タバコを吸いながら、溜め息を漏らした。
彼女にしては珍しいと、京香は感じる。とはいえ、新入社員ふたりが居なくなった現在、仕方ないと思った。
昨年の九月、小柴瑠璃が失踪したことになっている。開発一課の誰も、その理由を探ろうとしなかった。『やはり派遣上がりだった』や『急な退社は無責任すぎる』等の声が、京香の耳に届いた。
京香としても、そのように去った人間を擁護する気になれなかった。瑠璃を正社員に引き上げることを推薦した手前、周りから責められたが――どうでもよかった。
やがて瑠璃の存在はオフィス内で腫れ物のようになり、誰も氏名を挙げなくなった。そして時間と共に、自然と風化していった。
「両川さん、元気でやってるかなー」
凉が何気なく口にしていることを京香はわかっているが、彼女の顔が思い浮かぶと、未だ不快になる。
瑠璃が退社して間もなく――昨年十月の人事異動で、両川昭子は営業二課に配属された。
京香の知る限り、そのような予兆は全く無かった。強いて言えば、採用選考時点で昭子が営業志望だったぐらいだ。
そのように考えればおかしくないのかもしれないが、営業部が――あの日の早朝、瑠璃のアパートで待ち構えていた妙泉円香の存在が、京香の脳裏を過った。
営業二課は水菓子担当であるため、焼き菓子製造の開発一課やこの工場と関わることは無い。京香にとって、願ってもない異動だった。
いや、都合よく『消えた』と言えよう。
さらに、営業二課は本社で一課と同じオフィスであるため、昭子が円香の目の届く範囲に置かれたとも言える。つまり、円香の監視下にあると捉えることも出来る。
退職届を預かった円香が、京香の知らないところで瑠璃と接触したことは確かだ。その際、瑠璃から何らかの事情を聞いた可能性が考えられる。
京香はその件について、円香に直接触れたわけではない。しかし、限りなく自分に都合良く考えると、円香が異動させたとしか思えなかった。
「いやー、どうなんでしょうねー」
異動後の昭子の話は、何ひとつ京香の耳に届かなかった――不自然なほどに。本当に営業二課に在籍しているのかすら、怪しくなる。
何はともあれ『偶然にも』京香は、昭子の脅迫から解放された。
嬉しくないわけではない。だが、同時に失ったものがあまりにも大きいため、複雑な気持ちだった。
「四月の新入社員の話は、無いの?」
「新入社員は他所の部署で……商品開発部には残念ながら」
「そっか」
京香は凉に言えないが、瑠璃の正社員になってすぐの退社を、人事部は重く捉えている。ペナルティーとして、おそらく来年は新入社員が回ってこないだろう。
「ていうか、新入社員要ります? 今のところ、何とかなってませんか?」
「まあ、そうなんだけど……エースクラスを育てておきたいなーって。あのふたりには、素質あったからねぇ」
瑠璃の実力に関しては、京香が誰よりも理解していた。間違いなく、商品開発部で目まぐるしい活躍を出来た人材だ。
次の世代として凉が気にかけていたことも、納得する。
「それに……京香だっていつまで居られるのか、不安だよ」
凉が電子タバコを吹かせ、苦笑した。
本社に居たくないという理由で、京香は商品開発部にしがみついていた。しかし、その気持ちは過去に比べて薄れていた。
この工場には、瑠璃と昭子――良い思い出と悪い思い出のふたつが混在していた。ふたつに対し、現在は居心地が良くない。
瑠璃と昭子が居なくなっても、かつての退屈な日々には戻れなかった。胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感が――あの蒸し暑かった日から、ずっと続いている。もう二度と満たされることは無いのだと、諦めていた。
だから『猶予期間』を切り上げるには、丁度いい機会だと京香は思っていた。たとえ母親に従うことになろうとも、結局は辛い出来事から逃げるしかないのだ。
「私はまだ、ここに居ますよ」
京香は心苦しいながらも、嘘をついた。実際は、次の四月に本社の経営側へ移ろうと考えている。
「それなら、安心だね。モール向け新商品も、ほら……難航しそうじゃん」
「はい。弾除けなら、任せてください」
開発一課は現在、十一月のショッピングモールオープンに合わせた新商品開発を軸に――従来商品のリニューアルにも手をつけていた。
区切りをつけるとすれば、新商品完成後だろう。だが、京香は商品開発業務への熱意が過去よりもさらに、全く無かった。無責任だと自覚するよりも、凉達の足を引っ張りたくないと考えることにした。
「とりあえず……午後から、その件でも突かれてきます」
「ありがとう。いつも嫌な役を押し付けて、悪いね」
「何言ってるんですか。私、部長なのに……それぐらいしか出来ませんよ」
かつては憂鬱だった『経営陣からの小言』も、今は最早どうでもよかった。どれだけ怒られても響かないだろうと、京香は思う。
「三上さんこそ、いきなり寿退社――なんてこと、やめてくださいよ?」
「あはは、ナイナイ。私にそんな相手居ないの、京香知ってるでしょ?」
「えー。ホントですかー?」
京香は無理に緩い雰囲気を作り、凉とふざけあった。そして不味い缶コーヒーを飲み干すと、ふたりで喫煙室を出た。
凉を先にオフィスへと向かわせ、京香は自動販売機へと向かう。缶専用のゴミ箱に、空き缶を捨てた。
「はぁ……」
他に誰も居ない廊下で、溜め息を漏らす。
いくら精神的に参っていたとはいえ、かつて家族も仕事も――全部を捨てようとしたのは事実だ。
だが、京香は捨てられなかった。
そして、一度傾いた気持ちを再び引き上げることは不可能だと、わかっていた。




