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アナタはわたしの手の中  作者: 未田
第20章『青色』
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第59話

 九月十日、火曜日。

 午後八時過ぎ、円香は自宅で携帯電話の通話着信に応えた。


『もしもし……夜分にすいません。小柴です』


 小柴瑠璃からの電話が、円香には意外だった。京香の自宅で初めて会った日の夜――そういえば冗談で名刺を渡したことを、思い出した。

 興信所を利用して瑠璃の素性を探ったものの、円香自身としては面識がほとんど無い。工場に訪れた際、挨拶をする程度だ。

 円香の知る中で、小柴瑠璃という女性は感情の起伏が少なかった。だから、電話越しの落ち着いた声から、どのような表情をしているのか読み取れなかった。

 ただ、電話の用件として――思い当たる節が、円香にはひとつだけあった。


「姉さん……京香部長のことだね?」

『……はい』


 昼間に京香と会った際、様子が明らかにおかしかった。京香本人から理由を聞き出せなかったが、瑠璃は知っているのだろうと円香は思った。

 円香としては、今すぐにでも知りたかった。しかし、落ち着いて踏みとどまった。


「明日、適当に体調不良とでも言って、会社を休むといい。私が近くまで行くから……ゆっくりと話そう」


 京香の様子から、事はとても深刻な予感がしていた。電話で済ませる内容ではないと、円香は思った。


『ありがとうございます』


 待ち合わせ場所と時間を決め、通話を終えた。対処はさて置き――ひとまず真実を知ることが出来るという意味では、円香は安心した。

 そして、明日の午前は急な商談が入ったことにして誤魔化そうと、考えた。



   *



 九月十一日、水曜日。

 午前十時半に、円香は瑠璃に指定された、とあるチェーン店のカフェに居た。瑠璃の住所を知っていることから、彼女のアパートが近いことも把握している。

 アイスコーヒーを飲んでいると、瑠璃が表れた。手に持ったトレイには、アイスカフェラテのグラスが置かれている。


「おはようございます」

「やあ」


 ふたりがけのテーブルで、瑠璃が正面に座った。

 この時間帯は、店内はまだ空いていた。それに、窓の外は明るい。神妙な表情の瑠璃と――これから深刻な話をするとは、円香はとても思えなかった。


「えっと、その……。京香部長……両川さんに脅されて、言いなりになってるんですよ」


 念のため両隣の席に誰も居ないことを確かめた後、瑠璃が小声で話を切り出した。

 円香が思いもしなかった内容だった。だが、京香の――精神的に疲弊した様子に、納得する。

 両川昭子。現場実習中であるため円香はあまり顔を見ないが、開発一課の新入社員だ。京香に憧れて、営業部から商品開発部に鞍替えしたことも、覚えている。新入社員らしい明るく元気でフレッシュな印象を、円香は持っていた。

 しかし、瑠璃の言うことが事実なら、それに反して非道い行いをしていることになる。


「脅されてるって……姉さんがどんな弱みを握られてるのか、わかる?」


 訊ねるが、瑠璃がそこまで知っていることを、円香はわかっていた。でなければ、このような相談を持ちかけない。

 問題は、どうして瑠璃が知っているかだ。新入社員に脅迫されているなど、京香が誰にも話すはずがない。もしかすれば、瑠璃にだけ話したのか――或いは、瑠璃が偶然知ったのか。


「あまり言いたくはないですけど……残業してた時、オフィスで京香部長と卑猥なことをしてたの……見られてたみたいで……」


 全く驚かないわけではない。しかし、瑠璃が口ごもりながらも話した内容を、円香は冷静に受け止めることが出来た。

 興信所からの報告として、瑠璃が京香の自宅に一泊しているとあった。事実としてはそれまでだが、瑠璃と京香がただならぬ関係であることは、嫌でも推察できた。そして、瑠璃自身の言葉から、確信へと変わった。


「キミ達の行為について思うところはあるけど、ひとまず置いといて……キミも脅されてるの?」


 瑠璃が首を横に振る。

 おそらくは、京香が庇っているのだろう。いや、昭子の興味は京香だけなのかもしれない。どちらにせよ、瑠璃が偶然知ったのではなく、京香或いは昭子から知らされたようだ。

 およその事情を、円香は理解した。


「それで……キミはどうしたいの? 姉さんを助けたい?」


 意地悪な質問をしている自覚が、円香にはあった。

 これは報告ではなく、相談だ。瑠璃にどのような意図があるのかは、明白だった。

 円香がこの場でざっと考えただけでも、問題を解決する術はいくつかある。いや、自分ひとりだけで充分に解決可能だ。瑠璃が相談を持ちかけてきたことは、結果的に正しい。

 それでも、敢えて瑠璃の意思を知りたかった。京香に対しどのような気持ちを持っているのか、確かめたかった。


「これを、京香部長に渡してくれませんか?」


 瑠璃が鞄から、ひとつの封筒を取り出す。『退職届』と書かれたそれが、テーブルに置かれた。

 円香は静かに驚く。改めて瑠璃と向き合うと、彼女の今にでも泣き出しそうな瞳から――覚悟を感じた。


「なるほど……。キミが妙泉製菓(ウチ)から消えたら、少なくとも姉さんの『弱み』も消えるよね」


 瑠璃としては、面倒事から逃げるためではないだろう。円香の考えた中にこの案は無かったが、これも確かな解決策だ。自分を犠牲にしてまで京香を救おうとしていると、円香は瑠璃の意思を受け取った。

 瑠璃が京香に直接渡したところで、京香は受理しないに違いない。瑠璃がいつこの策を思いついたのか円香はわからないが、少なくとも昨晩の時点で用意していたはずだ。そのうえでの相談だった。


「キミは本当に、これでいいの?」


 やはりこれも、意地悪な質問だった。

 瑠璃は妙泉製菓から立ち去った後、京香との関係を続けようと思っていないはずだ。京香の前から姿を消すつもりだ。

 確かに、これで問題は解決する。しかし、失うモノがあまりにも大きすぎる――円香にとっても。

 京香のやる気を引き立てるために、彼女の傍に瑠璃を置いた。もしも瑠璃が居なくなれば京香がどうなるのか、今の様子から、円香は安易に想像できる。

 そう。この質問は、円香が自分自身に対するものでもあった。少なくとも現時点で、円香は瑠璃を引き留めようとした。


「これでいいわけ無いじゃないですか……。でも、京香さんのためです。あの人が苦しむところを、わたしは見たくありません」


 キミが消えても苦しむんだけどね――円香はそう言いかけて、口を閉じた。

 瑠璃の強い意思を曲げられないと思っただけではない。円香の中で、ある考えが浮かんだのであった。


「あの人、家族も会社全部捨てて、わたしと一緒に失踪しようとしています。お願いします――助けてください」


 正面に座る瑠璃から、円香は頭を下げられた。

 円香が今回知った中で、最も衝撃的な内容だった。京香がそこまで追い詰められているようだった。だが知った以上は、身内として絶対に阻止しなければならない。

 そう考える一方で――ふと、引っかかった。


「ごめん。こういうの訊くの、凄い失礼だけど……どうして姉さんに乗らないの? 念のため言っておくと、私はふたりに失踪して欲しくないよ。なんとなく、気になってね」


 円香はこれでも言葉を選んだつもりだった。

 本音としては、瑠璃にとって悪くない提案(はなし)だと思ったまでだ。確かに多くを失うが、大切な人と一緒に居られることが――円香は『幸せ』だと捉えた。それを捨ててまで自身を犠牲にする瑠璃の気持ちが、わからない。


「京香さんには、カッコよく居て欲しいからです……。あんな風に逃げ出すぐらいカッコ悪いのは……嫌です」


 少し恥じらいながらも、瑠璃が気持ちを口にする。

 このような場にも関わらず、円香は口元に笑みを浮かべた。瑠璃の京香に対する気持ちは、偶然にも自分と同じだったのだ。

 そして、先程浮かんだ考えを『計画』として実行することにした。


「わかったよ。これは私から、姉さんに渡そう」


 円香は、テーブルに置かれていた退職届を受け取った。今の時点で瑠璃には敢えて言わないが、瑠璃の退職後、両川昭子を京香から必ず引き離すつもりでもあった。

 このようなかたちであれ、ひとまずは片付く見込みだと思っているのだろう。瑠璃は改めて頭を下げた後、どこか浮かない表情でアイスカフェラテを飲んだ。


「それで……次の就職先(いきさき)あるの?」


 さり気なくも、円香は重要な内容を確かめた。

 瑠璃が決心してから現在まで、おそらく短時間のはずだ。転職先を探すのは二の次だったと、円香は思う。


「いいえ。またどこかで、適当に派遣でもやります」


 やはり、瑠璃は首を横に振る。

 それは円香が実行する『計画』の条件が満たされたことになる。


「よかったらさ、今から私とドライブしない?」

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