第57話
「私とふたりで、どこか遠くに逃げましょう……」
京香は瑠璃へ縋るように背後から抱きしめ――耳元で囁いた。
瑠璃の弱みを握っている身として、脅迫からの『命令』として下すことも可能だった。だが、もはや瑠璃を『所有物』と認知していなかった。
つまり、ただの提案に過ぎない。
それでも、断るわけが無いと、京香は確信していた。
「……」
瑠璃が黙って振り返る。白い帽子とマスクの隙間から、とても驚いた様子の瞳を見せた。
まだ『冗談』で済ませることが出来ると、京香は思った。しかし、もう引き返せない。腹に決めたことだ。
それに、瑠璃もまた『冗談』ではないと察しているはずだ。
「私もう、疲れちゃった……。どこか遠くの街で、ふたりで静かに生きていきましょうよ」
この工場から、この街から、失踪するしかないと京香は考えた。
昭子に対し、事実上の『敗北』となる。彼女の前から黙って姿を消せば、腹いせに瑠璃とのことを公にされるかもしれない。
だが、逃げ出すことも含め、京香は恥だと感じなかった。この選択肢しか存在しないのだから、仕方ないと割り切った。
「会社のこと、どうするんですか? ご家族、心配しますよ?」
「どうだっていいわよ。元々、やる気なんて無かったし……。全部投げ出すだけの覚悟は、あるわ」
京香に未練など無かった。言葉通り、固く決心していた。
瑠璃には以前から、家族との事情を話している。今さら疑われないだろう。
「ママが辛いのは、わかります。両川さんのことが解決すれば、それでいいんですよね?」
素直に頷かない瑠璃に、京香は違和感を覚える。しかし、深くは考えず――いきなりの大それた話に戸惑っているだけだと思った。
「それも……どうでもいいわよ。良いように考えれば、きっかけね」
背負わされた妙泉一族の『重荷』を投げ捨てたい気持ちは、以前からあった。昭子に脅迫される以前から、許容範囲は限界間近だったのだ。
実に無責任だと、京香は自覚している。それでも、これ以上は無理をして向き合えなかった。
「本当に、いいんですか?」
瑠璃が心配の眼差しで訴えかける。
否定へ促されていると、京香は思わなかった。ただの最終確認にしか、聞こえなかった。
「ええ。もう決めたもの」
京香は躊躇なく頷いた。
妙泉一族と縁を切ることで、現在のような裕福な暮らしは送れないだろう。京香にとって、未知の領域だ。だが、瑠璃とふたりなら、どれほど貧しくとも構わないと思った。
「ふたりで小さなお菓子屋さんやるのも、いいかもね……」
何も、悲壮感だけではない。パティシエの娘である瑠璃との、そのような夢を描くことが、唯一の希望だった。
「わかりました。わたしは、アナタに従います」
不安げな表情から一変し、瑠璃は力強く頷いた。
しかし、瑠璃自身の『意思』を、京香は感じなかった。夢を語るも、触れられない。瑠璃の『意見』は存在しない。
再び違和感を覚えるが、それ以上に――衰弱しきった京香にとっては、肯定されたことが、とても嬉しかった。
「ありがとう……」
京香は改めて、瑠璃を抱きしめる。
「土曜の朝、この街を出ましょう。迎えに行くから……金曜の仕事終わったら、一旦帰って準備して、休んでおいて」
立てた計画はここまでだった。行き先すら考えていないが、却って面白いと思った。それに――世間のカレンダーなど最早関係無いのかもしれないが、今週末は三連休だ。新たな旅立ちには、丁度いいだろう。
現在の自宅については、無視する。二度と帰らないのだから、引っ越しではない。最低限の必要な荷物のみを準備するよう、京香は瑠璃に伝えた。
ここで初めて、瑠璃にも人生があることに気づいた。自分に付き合わせて、彼女の人生を乱すことに、京香は抵抗が無いわけではない。しかし、瑠璃に対し『天涯孤独』と『派遣上がり』の印象が強いため、さほど気にならなかった。
「もうちょっとだけ、ここで頑張りましょう」
まるで自分に言い聞かせているようだと、京香は思った。
瑠璃は素っ気なく、黙って頷いた。
*
九月十一日、水曜日。
この日、瑠璃が初めて会社を休んだ。体調が優れないと、三上凉が連絡を受けた。
とても珍しいが『準備』をしているのだと、京香はひとりで納得した。
その件と、用事があるからと凉が定時で上がったことは、おそらく無関係だろう。
だから、オフィスでひとりきりで残業しているところに両川昭子が表れたことも、京香は無関係だと思った。瑠璃が不在であるのを、見計らったわけではない。
「お疲れさまでーす、妙泉部長」
にやにやと不快な笑みを浮かべた昭子に、京香は近づかれる。
だが構うことなく、ノートパソコンに向かっていた。今週でここを離れるため、今抱えている案件に一区切りをつけておきたい。せめてもの責任感が働いていた。可能であれば、凉にきちんとした引き継ぎをしたいところだが、彼女なら上手くやると信じた。
「あの派遣、とうとう追い出したんですか?」
「ええ……。そんなところよ」
京香は躊躇なく嘘をつき、適当に話を合わせた。
この小娘とも、もうしばらくだ。今日もこの後、脅迫のうえで求められるだろう。だが今は『終わり』が見えているからこそ、まだ耐えられる。
「へー、早いじゃないですか。あたしのために頑張ってくれて、嬉しいです」
隣に立つ昭子から、京香は頭を撫でられた。とても不快だが、やはり構うことなく仕事に集中した。
ふと、昭子に抱きつかれる。
「あたしが京香さんを……世界で一番愛しています。貴方はあたしだけのものです。他の誰にも、渡しません」
かつて瑠璃を脅迫した身として、京香は自身がこの小娘と『同類』であることを自覚している。とても責める立場ではない。
しかし、弱みを握って従わせておきながら、そのような戯言をほざくのが――実に愚かだと思ったのだ。もしかすれば、冗談のつもりなのだろうか。つい、笑うのを堪えた。
「私もよ」
京香はようやく、キーボードを叩く手を止めた。そして、ノートパソコンの画面から顔を上げると、微笑んで見せた。
伝わらないだろうが、京香なりに最高の皮肉であった。
「京香さん……」
他に誰も居ないオフィスで、京香は昭子から唇を重ねられた。さらに、昭子の手が京香のブラウスへと伸びた。
京香は今にでも崩れそうな精神状態で――ただ、吐き気が込み上げるのを堪えた。
*
九月十三日、金曜日。
午後六時半になり、京香は仕事を終えた。入社して十年――妙泉製菓の会社員としても、終わりを迎えたことになる。
狭いオフィスを見渡す。なんだか広く感じるのは、感傷に浸っているからだろうか。いざこの時を迎えると、少し物寂しかった。
「お世話になったわね……」
ぽつりと漏らし、オフィスの灯りを消した。もう二度とここへは足を踏み入れない予感を抱え、後にした。
工場を出るとすぐ、携帯電話の電源を切った。
本来であれば、今からコンビニで昭子を拾わなければいけない。だが、京香は自動車で自宅へ走った。
陽が暮れ、午後七時前に帰宅した。空腹感はあるが、何も食べずにスーツ姿のままベッドで横になった。夜が明けると長距離を運転しなければいけないため、身体を休ませることに専念した。
高速道路のサービスエリアで、瑠璃と朝食にしよう。そう考えていると、意識は途切れた。
携帯電話が鳴らないことを認識しているからか。京香は久々にぐっすりと眠ることが出来た。
次に目を覚ましたのは、午前四時過ぎだった。
京香はシャワーを浴びて、汗を洗い落とした。ウールシャツとジョガーパンツを着用し、化粧を済ませる。たったそれだけの身支度だった。
ウイスキーの瓶がいくつか並んだリビングのテーブルに、電源を落としたままの携帯電話を置いた。
貴重品の入ったハンドバッグを持つと、京香は寂しさを振り切るように、玄関の扉を開けた。
時刻は午前五時。
自動車のフロントガラスから眺める夜空は、ほんのり青みを帯びている。夜明けが近い。この時間帯は、道が空いていた。
午前五時半に迎えに行くと、瑠璃と約束していた。
コインパーキングに自動車を置き、京香は古びたアパートへと歩いた。
最近の日中ほど暑くはないが、生ぬるい風が頬に触れる。世界は静まり返るも――遠くで朝日が昇りかけているのが、アパートの階段を上がりながら見えた。
夜が明けようとしている。京香に希望を彷彿とさせた。
瑠璃の部屋の前に、ひとつの人影があった。
ベリーショートヘアの人物に、京香は立ち止まって目を見開いた。
「なんで、あんたが……」
妹の妙泉円香がブラウスとスラックスの格好で、瑠璃の部屋の前に立っていた。
どう考えても意図的だった。待ち構えていたのだと、京香はかろうじて理解する。
だが、どうして? 瑠璃に何かあったのか? 頭はひどく混乱した。
円香から、いつもの穏やかな雰囲気を感じなかった。こわばった顔の――哀憐の眼差しを、京香は向けられた。
「小柴さんなら引っ越して、ここには居ないよ。これを姉さんに渡して欲しいって、頼まれたんだ」
円香が京香に近づき、尻ポケットからひとつの封筒を取り出した。
京香は『退職届』と書かれた封筒を突きつけられた。
頭が真っ白になる中、ただ『自己犠牲』とだけ理解する。
あの時、瑠璃は京香の言葉に頷いたが、自分ひとりで京香の望まない『解決方法』を選んだのであった。もう二度と会えなくとも、京香を救うために――
夜は明け、終わりを迎えた。
朝日に照らされ、眩しかった。しかし、その光は希望どころか、圧倒的な絶望だった。
もう、何も考えることが出来ない。京香は踏み留まることすら出来ず、泣き崩れた。
明け方の、古びたアパートに――京香の溢れ出した感情がこだました。
第19章『夜明け』 完
第2部 完
次回 【幕間】第20章『青色』
妙泉円香は、姉への思いを小柴瑠璃に託す。




