第56話
九月十日、火曜日。
昨晩の雨は上がり、フロントガラス越しに強い日差しが照りつけていた。
「いやー、今日も暑いねー」
「そうね……」
京香は自動車の助手席で、エアコンの風向きを、直接あたらないよう調整した。運転席に座る――妹の妙泉円香に、素っ気ない態度を取った。
時刻は午前十時過ぎ。工場に突然訪れた円香から連れ出され、もう十五分ほど走っている。
ドライブの目的を京香は聞かされていないが、一応は『仕事』に関することらしい。
「フィナンシェのフレーバーの方は、濃厚チーズに決まったって? お疲れさま。絶対に売れるよ、それ。良いアイデアじゃん」
本社に稟議をまだ提出していないが、営業部の耳にはもう届いているようだった。
「ありがとう……」
「今からプロモーションどうしようか、楽しみだなぁ。ちなみに、小柴さんのアイデアなの?」
「違うわ……」
「へー。まあ、他にも頑張った子が居るんだね」
京香は昨日の会議を思い出す。
課員の反応としても、瑠璃の考えたサツマイモ案の方が優れていた。出来ることならば、そちらを選びたかった。不本意な結果だった。
昨日はまだ悔しかったが――今はもう、どうでもよかった。
「姉さん? だいじょうぶ? 暑さにやられた?」
円香は前方を眺めて運転しながらも、心配した。
素っ気ないというより、生気が無いのだろうと京香は思う。まるで、生きた屍だ。
昨晩の、昭子からの『命令』で――生きている心地がしないのは確かだった。解決策を一晩考えたが、何も浮かばなかった。絶望だけが、目の前に広がっている。
京香は脅迫を受けている身として、誰にも相談できなかった。
もしも、ここで円香に相談すれば、どうなるだろう。妹はクズな姉を助けてくれるだろうか。それとも、自業自得で片付けられるだろうか。
自動車に揺られながら、ふと思う。
「夏バテ気味だけど……大丈夫よ」
とても相談できる内容ではない。京香は適当に、話を合わせた。
「車の中でも、普通に熱中症になるからね。あ……そこにコンビニあるから、ちょっと入ろうか」
コンビニで円香が、ペットボトルのミネラルウォーターを買ってきた。
京香が精神面で体調が優れないのは事実だった。ゆっくりと水分を摂取する行為だけでも、気分が少しだけ和らいだような気がした。
その後も、円香の運転する自動車はしばらく走った。
高速道路には上がらなかった。やがて、工場から自動車で三十分ほどの距離にある――まだ『地元』に位置するが、住宅地でも商業地でもない区域で、円香は停車させた。
「着いたよ。ここを、姉さんに見せたかったんだ」
京香は円香と共に、自動車を降りた。日傘を持ってきていなかったが、円香から自分のを渡された。
強い日差しの下――目の前には、一面の更地が広がっていた。視界に収まらないほどの広さだ。
陽炎が揺らめく中、工事の作業者らしき人物が数名居た。まだ工事が始まったばかりだと、京香は察した。
住宅街から外れた地であること、そして広さから、新たな工業地かと思った。
「ここに工場作るの? それとも、移転?」
京香の予想はそれだった。いつも通り、円香が『経営陣』の言付け役なのだと考えた。
「まさか、違うよ……。来年の十一月、ここにショッピングモールが出来る。割と大きめのね」
自宅からも工場からもまだ『地元』にあたるが、京香は初耳だった。
本当だとしても、電車の駅が近くに無いため、交通の便が最悪だとまずは思った。
いや、違う。電車で足を運ぶような客は、そもそも相手にしていない。自動車を利用する客層に絞る代わりに、これだけの広さを手に入れたのだと、京香は理解した。
敷地の半分を駐車場に使用したとしても、建物を置けるだけの広さは充分に残っている。おそらく、駅前のショッピングモールの二倍にはなるだろう。ひとりの客として訪れてみたいと、京香は少しだけ思った。
だが、円香が客として連れてきたわけではないと、京香は察した。
「一階スイーツフロアのテナントを、押さえたよ。これで、妙泉製菓は九店舗目……地元とも親睦を深めなくちゃね」
冗談のように、円香が笑う。
実際の意図を、京香はわからない。それでも、もしもサツマイモのフィナンシェを採用していたなら――店舗の姿形を知らなくとも、盛り上がる様子が安易に想像できた。
だが、それは絶対に叶わない夢だ。京香は自嘲気味に、小さく笑った。
「それで――開店に合わせて、とびっきりの新商品を用意して貰いたいってわけ」
フィナンシェが片付いた今、間髪入れずに新しいプロジェクトが与えられた。そのためにわざわざここまで連れてきたのだと、京香は理解した。
猶予は一年以上ある。だが、悠長に構えるのではなく――それだけの期待に応えなければいけない。事情としても、なおさらだ。それほどの大きなプロジェクトだ。
京香は責任者として、本来ならば重圧を感じるところだった。円香に対して露骨に嫌な態度を示し、小言を漏らすはずだった。
現に、円香としても満面の笑みを浮かべ、その反応を期待しているようだった。
「わかったわ……」
しかし、京香は素っ気なく頷いた。
たとえ瑠璃がどれほど素晴らしい案を出しても、採用出来ない。昭子の案を必ず採用し、あの小娘を持ち上げないといけない。結果は確定している。
それどころか、瑠璃は――商品開発業務に携われなくなる。
だから、京香としてはどうでもよかった。このプロジェクトに気だるさや嫌悪感すら湧かなかった。
「え? 本当に?」
予想外の反応だったのだろう。円香はあからさまに驚いた。
「姉さん……私の話、聞いてたよね? ていうか、夏バテだいじょうぶ?」
京香は円香から体調を心配された。意識が朦朧としていると思われているようだ。
そんな妹に対し、申し訳なかった。いつもの振る舞いはとても出来ないが、せめてきちんと返事をしなければいけないと思った。
「ええ。頑張るわ」
改めて頷くが――京香は、自分がこのプロジェクトに翻弄されている姿が、想像できなかった。
まるで他人事のように感じる。無責任な返事をした自覚がある。しかし、それすらもどうでもよかった。商品開発業務に長年携わってきた中で、ここまでやる気が出ないのは初めてだった。
「余計なお世話かもしれないけど……何かあった?」
円香から、心配そうに顔を覗き込まれた。
たとえいけ好かない妹でも、このように手を差し出されると、京香は縋りたくなる。涙が溢れそうになる。
「何もないわよ……」
しかし、縋ってはいけない。
京香は無理やり微笑んで見せた。
*
円香の運転で、ショッピングモール建設予定地を後にした。
帰りの車内では、終始無言だった。円香は釈然としない様子だった。
京香はぬるくなったペットボトルのミネラルウォーターを手にぼんやりと、ある考えに耽けていた。一大プロジェクトのことなど、頭に無かった。
やがて、午前十一時過ぎに工場へ到着した。
「大変な案件振っておいてだけど、休むことも考えた方がいいよ。結局、無理すると部下に迷惑かけるからね」
「心配してくれて、ありがとう。あんたこそ、気をつけて帰りなさい」
最後まで心配してくれた円香を、京香は見送った。
妹と――まるで、今生の別れのような気分だった。
京香は帰社するとすぐ、開発一課のオフィスよりも試作室へ向かった。正午前だが、全くと言っていいほど腹が減っていなかった。それよりも、焦燥が込み上げる。
試作室では、相変わらず瑠璃がひとりで居た。
「京香部長……おかえりなさい」
瑠璃が顔を上げるも、円香と同様に心配の表情を浮かべた。どのような仕事の用件で出かけていたのか、訊ねる素振りは無かった。
そんな瑠璃を、京香は背後から抱きしめた。大切な存在の温もりに安堵し――これからのことを思うと、心細くなった。
昭子との昨晩のやり取りを、まだ話していない。話すつもりはない。この手で商品開発部から追い出すなど、あり得ない。
しかし、どうしようもない現実だった。
どれほど考えても、解決策は存在しない。だから、京香は帰りの自動車で、この『選択』に至った。
「私とふたりで、どこか遠くに逃げましょう……」




