第55話
九月九日、月曜日。
午後二時過ぎの第二会議室は、甘い匂いに包まれていた。
テーブルに、たくさんのフィナンシェが置かれている。瑠璃が試作したものだ。
コストカットという名の『リニューアル』に際し、新しいフレーバーを決定する会議が開かれていた。
提出された案を一通り、開発一課の全員で試食した。昼食を控え目にしたものの、京香は腹が苦しかった。
まだ皆の最終的な意見を聞いたわけではない。だが、会議室の空気から、京香はおよその評価を察した。
サツマイモと濃厚チーズ。思っていた通り、瑠璃と昭子の案におよそ二分された。
京香の感触では、前者がやや優勢だ。味だけでなく地元と関わる企画であることも、課長である三上凉をはじめ、支持者達から評価されている。
一方で濃厚チーズは、コンセプトである『ワインと楽しむ』ことが売れるだろうという意見が挙がっている。京香も一度は思ったことだ。
だが今は、一度たりとも肯定したことが情けなかった。京香はもう、ひとつの案として見られない。どうしても『両川昭子の印象』が重なってしまう。
京香は上座から、騒がしい会議室を見渡した。
自分が劣勢であると、昭子本人も感じているはずだ。しかし、余裕の笑みを浮かべていた。一度は味わった敗北を、今度は味わうことが無い――己の勝利を確信しているのだ。
京香は昭子を睨むように見ていると、視線に気づいたのか、目が合った。微笑みを向けられ、吐き気がした。
視線をずらし、瑠璃に向ける。
周りから今も讃えられ、照れくさそうな様子だった。京香は、まるで自分のことのように誇りたかった。
だが――息を大きく吸い込み、溜め息のように吐いた後、立ち上がる。
「皆、ごめんなさい。思うところはあると思うけど……今回は、濃厚チーズでいくわ。特定の客層を開拓しましょう」
京香は部長としての結果を伝えた。
会議室が一度静まり返る。納得の有無というより、驚いたといった様子だった。
空気が少し淀むが、凉が昭子に拍手を送った。皆もそれに続いた。
「ありがとうございます! これからも、頑張ります!」
昭子が立ち上がり、周りに感謝した。
新入社員らしい態度も、京香には茶番にしか見えなかった。
いや、この会議自体が茶番だ。たとえ昭子の案が全く評価を得られなくとも、結果は同じだった。
瑠璃には事前に結果を伝えていた。それでも、残念そうに苦笑しながら拍手している姿を見ると、京香は心苦しかった。
そう。本来、このコンペティションの勝者は瑠璃だ。彼女こそ、称賛されるべきなのだ。
「小柴さんのサツマイモの案、ボツにするの勿体ないから……すぐじゃないけど、頃合い見て企画の稟議出すよ。こっちもいつか、盛り上げていこう」
凉が擁護した後、京香へ視線を送る。
残ったもう片方はこのように扱うと、事前に話していたことを京香は思い出す。突然の提案ではなかった。
瑠璃への擁護は純粋に有り難い。彼女が報われるだけでなく、将来的にはチーズ案に勝利する可能性も秘めている。
「え、ええ……」
だが、凉に悪意が無いにしろ――この場で多少なりとも瑠璃の案が目立ってしまうことが、良くなかった。京香は戸惑い気味に、頷いた。
昭子からの視線を感じる。にこやかな表情だろうが、とても冷ややかなものだった。
*
午後六時半になり、京香は工場を出た。
朝は晴れていたが、この時間は雨が降っていた。まだ暑い日が続いている。なんだかより蒸し暑いと感じながら、自動車の冷房を点けた。
フロントガラスのワイパーを動かしながら、憂鬱な気持ちで運転した。まだ今週の初日を終えたばかりだが、週末のように疲れていた。
京香は先週末、あまりの辛さから瑠璃を求めた。昭子からの脅迫は何も解決しないが、精神面が少しだけ持ち直した。
結果的に瑠璃を巻き込んでしまい、申し訳なく感じる。しかし、昭子が瑠璃にまで手を出さないことが、唯一の救いだった。瑠璃としても、責任は一切無い。
いつまでも、昭子の言いなりになるわけにはいかない。どうにかして解決策を見つけなければいけないと思いながら――昭子から指定されたコンビニへ向かった。
「お疲れさまです、妙泉部長」
駐車場で昭子を拾う。行き先は聞いていないが、京香は昭子の自宅へと自動車を走らせた。
「フィナンシェの会議……あれ、何ですか?」
雨音に混じり、助手席から低い抑揚の声が届く。
「何って……あんたのアイデア採用してあげたじゃない」
京香は思い出しただけで腹立たしかった。
瑠璃のサツマイモ案を採用すべきだったと、今でも思う。昭子の脅迫に屈し、不本意な選択をしてしまった。
「それは当然ですけど、どうして採用する時、皆に謝ったんですか? 何が悪いんですか?」
昭子の言葉を理解できなかったが、確かに断りを入れたうえで採用したことを思い出した。
京香に深い意図は無かった。自然にこぼれたまでだ。というのも――
「会議の流れは、サツマイモだったわ。敢えて逆らったんだから、しょうがないじゃない」
無意識に、それを汲んでの言動だった。
昭子が怒るのを、今だから理解できる。彼女の神経を逆撫でするように、嫌味として告げた。
「いいえ。もし多数決を取っていたとしても、あたしに票が集まってました。京香さんが謝る必要なんて、無かったんです」
「そうかしら? あんたじゃ、あの子に勝てないわよ……たぶん、これからもずっとね」
苛立ちを隠せない様子の昭子が、京香は愉快だった。ここぞとばかりに、畳み掛ける。
脅迫から逃げる術が無ければ、解決の見通しも無い。こうして苛立たせたところで、結局は自分が不利になるのだと、京香は理解している。それでも、服従しないという気持ちの問題なのだ。
「……あたし、言いましたよね? あのバカに目障りなことさせないように、って」
もっと気を立てると京香は思っていたが、昭子の様子は意外と冷静だった。
「あの子は与えられた仕事をこなしてるんだけなんだから、しょうがないでしょ? 私がいくら管理職でも、あの子の働きっぷりまでコントロールできないわ」
不可抗力を言い訳にすれば、昭子としてはどうしようもないはずだ。
もしも、再びコンペティションの機会があるなら、昭子からまだ脅されているなら――京香はやはり、昭子の案を採用せざるを得ない。
だが、昭子は今回のように『試合』に勝てたとしても『勝負』には勝てないだろう。これからもずっと『敗北者』だ。
彼女が惨めな気持ちを味わうなら、京香は従うことに厭わなかった。
「なるほど。そういうことなら……しょうがないですけど、手を打ちましょう」
微かな笑みを含む声に、京香はなんだか嫌な予感がした。
信号が赤に変わり、フットブレーキを踏む。自動車のエンジン音が静かになる代わり、天井の雨音がより大きく聞こえた。
「あの目障りな派遣を、どこか違う部署に飛ばしてください」
雨音が響く中、京香は昭子の言葉に耳を疑った。思わず、助手席に振り向く。
「は?」
「聞こえませんでしたか? 本当なら、クビにしたいところですけど……開発一課から消すだけで許してあげます」
あんたね、あの子には手を出さないって約束でしょ――京香はそう言いかけるも、昭子が瑠璃に直接手を出していないことに気づく。あくまでも間接的な提案だ。
満面の笑みで見上げる昭子に、京香は言葉を詰まらせた。
背後からクラクションが聞こえる。信号が青に変わっていたことに気づき、アクセルペダルを踏んだ。
「へぇ。勝てないからって、そうするの? ほんっと情けないわね」
ただの虚勢であった。心臓の鼓動が高まるのを、京香は感じる。動揺を隠したまでだ。
瑠璃が職場から居なくなる。想像しただけで、頭がどうにかなりそうだった。
「何とでも言ってください」
「なら言わせて貰うけどね――異動させるだけの理由なんて、どこにあるのよ? あの子は特に、お菓子作りしか能が無くて、かつ優秀な人材なんだから」
「それを探すのが、部長の仕事じゃないですか。頑張ってくださいよ」
昭子のへらへらとした口調が、京香の気に障る。
本来であれば、とても自動車を運転できる精神状態ではなかった。京香はなるべく速度を落とし、縋るようにハンドルを握った。
「従わないと――わかってますよね? それとも、ふたり仲良く一緒に消えますか?」
拒否権は無い。どうであれ、昭子の提案には従わなければならない。
京香の思考に、瑠璃を異動させる理由作りは無かった。むしろ逆――昭子を納得させるだけの、異動させずに済む理由を考えた。それと並行して、脅迫自体の解決策も考えなければならない。
だが、どれだけ小さな光も見えなかった。目の前は真っ暗だ。
頭上では容赦なく、雨が降り続いていた。




