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アナタはわたしの手の中  作者: 未田
第18章『証』
54/90

第54話

 京香が昭子から解放されたのは、日付が変わった頃だった。

 翌日の朝早くから『婚約者』とのデートがあると嘘をつき、一晩過ごすことも飲酒も免れた。

 まともに自動車を運転できる精神状態ではなかった。京香は何度かコンビニの駐車場で、涙を流した。

 人肌の不快な感触と温もりが、手から離れない。腕を切り落としたいとすら思う。頭がどうにかなりそうだった。


 京香は帰路を走っているつもりだった。だが実際は――古びたアパートへ向かっていた。無意識下で、ただ求めたのであった。

 時刻は午前一時。蒸し暑く、しかし静かな夜更けだった。二階の一室は灯りがついているのが、外からわかった。京香は階段を上がり、ブザーを鳴らした。

 少しの間を置き、二度目を鳴らす。さらに三度目を鳴らそうとしたところで、扉が少し開いた。

 隙間から、瑠璃が顔を覗かせ――驚いた表情を見せた。そして、すぐにチェーンが外れ、京香は部屋へと招き入れられた。

 脱力気味に項垂れる京香を、瑠璃は心配そうに見上げる。


「ごめん……。シャワー貸してくれない?」


 京香はそれだけを漏らすと、瑠璃から浴室へと続く洗面所に案内された。


「タオルと着替え置いとくんで、使ってください」


 洗面所の扉が閉まり、狭い空間でひとりきりになると、京香は衣服を脱いで全裸になった。

 狭い浴室は蒸しているが、シャンプーやボディソープ等――覚えのある『瑠璃の匂い』に、安心感を覚えた。

 京香は頭から、ぬるいシャワーを浴びる。置かれているシャンプーを使うも『あの女の匂い』が消えなかった。頭を掻きむしり、涙を流した。


「うう……」


 屈辱を感じる余裕など無いほどの、絶望だった。

 逆らうことが出来ずに、好きでも無い人間から好きに弄ばられることが――脅迫されることがこれほど苦しいとは、思わなかった。まさに、蹂躙されたのだ。

 どれほど身体を洗っても『汚れ』は落ちない。仕方なく、シャワーの栓を閉じた。


 京香はタオルで身体を拭き、洗面所に出る。鏡台に、泣きはらした自分の顔が見えた。実に無様な姿だった。

 鏡台には、瑠璃のピアスがいくつか置かれていた。どうしてか、それらの鈍い輝きに見入った。

 用意されていた新品のショーツと、ウサギがプリントされたTシャツを着る。髪は半乾きだが、日々のケアも含めどうでもよかった。

 冷房の効いたリビングに入ると、瑠璃が立ち上がった。狭いキッチンの冷蔵庫から飲料缶をふたつ取り出し、ひとつを京香に手渡した。アルコール度数九パーセントの、レモンチューハイだった。

 京香はベッドに腰掛け、缶を開けた。このような酒を、初めて飲んだ。アルコールの味しかしない、不味い酒だった。

 瑠璃も隣に座り、ちびちびと飲んでいる。

 彼女の心配と怯えが、京香には伝わった。何にせよ、居心地が悪そうだった。

 テレビが点いていた。深夜のくだらないバラエティ番組が雑音として、京香の耳に触れていた。


「ねぇ……私に、ピアス開けてくれない?」


 どれだけアルコール度数が高くとも、不味い酒では酔えない。

 京香は瑠璃を見下ろし――はっきりとした思考で、確かな意思を伝えた。指先で、耳たぶを弾いた。


「え……」


 驚いた表情で、瑠璃は顔を上げる。

 製菓会社で働くうえでピアスは厳禁だと、京香はこれまで散々言ってきた。一変してそれを肯定するような言動を見せたのだから、困惑するのも無理がないと思った。

 こちらの意図を理解して貰うためには、あまりにも言葉足らずだ。


「私、両川から脅迫されてるの。あんたとのこと、あいつに知られたわ。弱み握られて……好き勝手にされてきたってわけ」


 打ち明けざるを得なかった。

 可能ならば、瑠璃に知られたくなかった。だが、今夜ずっと瑠璃を警戒していたことから――目撃のうえ誤解される方が嫌だと考えた。

 さらに、たった一度で精神状態がここまでやられた。これから先、隠し通せる自信が無い。


「そんな……」

「全部、私の責任よ。あんたの方は興味無いみたいだから、安心なさい」


 せき止めていることは、とても言えなかった。こうして事情を話しても、瑠璃を巻き込みたくない。


「これからも、私はあいつに支配されるわ。だから――あんたとの『証』が欲しいの。あんたの手で、私に穴を開けてくれない?」


 京香にピアスを付ける気は無かった。ただ、瑠璃からの『痛み』や『傷跡』を求めた。

 これから先も、昭子に身体を嬲られるだろう。心と同じく、身体も昭子に支配されるつもりは無いが、それでも瑠璃との確かな『(きずな)』が欲しかった。


「無理です……。わたしには、出来ません……」

「そんなこと言わないで! どうしてよ!?」


 どこか怯えている瑠璃に、京香は涙を流して問い詰めた。

 他人の身体に穴を開けた経験が、無いのかもしれない。それでも、これまで自分の身体に何箇所も開けた実績から、失敗はしないだろう。いや、たとえ失敗しても構わない。不格好であるほど、求める効果はより強まる。


「アナタがわたしの大切な人だからですよ! 傷つけたくありません!」


 瑠璃もまた、声を荒げる。力強く訴える瞳には、涙が浮かんでいた。


「わたしがどんな気持ちで、こんなバカな真似したと思ってるんですか! 今なら絶対にしませんよ! それぐらい、充実してるんですから――アナタのお陰で!」


 京香が初めて瑠璃の素顔を見た際、無数のピアスから『底辺』の象徴だと感じた。

 視覚だけで、そのように印象付いたのではない。


 ――他にやることありませんし、ピアスホール開けなきゃ、みたいな使命感……部長さんにわかるわけないじゃないですか。


 かつて瑠璃が、不貞腐れながらそう漏らしたことを、京香は今でも覚えている。

 きっと、怠惰な日々を過ごしていたのだろう。暇潰しの延長といった意味合いを、本人から聞いていたのであった。

 正社員になってから、瑠璃はピアスを外すようになった。

 穴だらけの耳に、京香は違和感があったものの――活き活きとした姿を含め、いつの間にか見慣れていた。今ではすっかり、自然な姿だ。

 だから、ピアスホールを必要以上に開けたことを、もしかすれば後悔しているのかもしれない。瑠璃の瞳から、京香はふと思った。何にせよ、同じ目に遭わせたくないようだ。

 そのような優しさが、京香の罪悪感を掻き立てた。


「私、あんたに非道いことをしたわ……。ごめんなさい……」


 かつて『ぁぉU』の身元を特定した際、それを弱みとして瑠璃を脅迫した。有無を言わさず、肉体関係を迫った。この女性を蹂躙したことは、紛れもない事実だ。

 あの時は『奪う側』としての圧倒的な優越感、そして快感を味わった。瑠璃のことなど、どうでもよかった。

 だが『奪われる側』に立たされ、瑠璃の気持ちをようやく知った。謝罪だけでは済まないことを、しでかしていたのだ。


「あんたには、私を罰する権利がある。だから――」


 罪悪感を鎮めるための『(ばつ)』としてもピアスホールを開けて欲しいのだと、京香は気づいた。


「そんなもの、ありませんよ! わたしがアナタから、どれだけのモノを貰ったと思ってるんですか!?」


 瑠璃の訴えに、京香は首を横に振る。

 最低の出会いから『ママ活』を通じ、現在でこそ良好な関係だ。あくまでも、結果論ではだ。

 それでも、瑠璃に行った脅迫行為は、無かったことにならない。京香はこの女性に、どうしようもない絶望感を与えたのだ。


「あんたに辛い思いをさせたわ。お願いだから……私のことを、罰して」


 京香は懇願して俯き――左頬に衝撃と熱が伝わったのを感じた。一瞬の出来事の後、じんわりと痛みが広がる。

 顔を上げると、瑠璃が腕を振り下ろしていた。平手打ちをされたのだと、京香は察した。

 涙を流す瑠璃の瞳は、怒りに満ち溢れていた。京香の見る、初めての表情だった。


「だったら、この一発で許します。その代わり――しっかりしろ、妙泉京香!」


 瑠璃にTシャツの胸ぐらを掴まれた。何度か揺すられた後、瑠璃が脱力気味に胸元へもたれ掛かった。

 彼女の小さな肩が震えている。

 京香にどれだけ余裕が無くとも――自然と抱きしめ、そして泣いた。

 格好いいところが好きだと、これまで何度か言われてきた。情けない姿を曝け出しても励まされることから、より説得力がある。

 瑠璃の希望通り、格好いい大人でありたいと、京香は願う。

 しかし、無理だった。どれほど励まされても、格好良く振る舞える自信が無い。


「ごめんなさい……」


 京香は申し訳なく、謝罪した。

 蒸し暑い夜が更けていく中、ふたりで泣いた。

 どれだけの涙を流しても、現実は変わらない。それでも、いずれ夜明けは訪れるだろう。だが、世界が明るくなっても――頭上に光が見えないのだと、京香は思った。

 腕の中の小さな存在だけは、守りたい。その気持ちすら、闇に飲まれてしまいそうな予感があった。

第18章『証』 完


次回 第19章『夜明け』

フィナンシェの新しいフレーバーが決定する。

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