第54話
京香が昭子から解放されたのは、日付が変わった頃だった。
翌日の朝早くから『婚約者』とのデートがあると嘘をつき、一晩過ごすことも飲酒も免れた。
まともに自動車を運転できる精神状態ではなかった。京香は何度かコンビニの駐車場で、涙を流した。
人肌の不快な感触と温もりが、手から離れない。腕を切り落としたいとすら思う。頭がどうにかなりそうだった。
京香は帰路を走っているつもりだった。だが実際は――古びたアパートへ向かっていた。無意識下で、ただ求めたのであった。
時刻は午前一時。蒸し暑く、しかし静かな夜更けだった。二階の一室は灯りがついているのが、外からわかった。京香は階段を上がり、ブザーを鳴らした。
少しの間を置き、二度目を鳴らす。さらに三度目を鳴らそうとしたところで、扉が少し開いた。
隙間から、瑠璃が顔を覗かせ――驚いた表情を見せた。そして、すぐにチェーンが外れ、京香は部屋へと招き入れられた。
脱力気味に項垂れる京香を、瑠璃は心配そうに見上げる。
「ごめん……。シャワー貸してくれない?」
京香はそれだけを漏らすと、瑠璃から浴室へと続く洗面所に案内された。
「タオルと着替え置いとくんで、使ってください」
洗面所の扉が閉まり、狭い空間でひとりきりになると、京香は衣服を脱いで全裸になった。
狭い浴室は蒸しているが、シャンプーやボディソープ等――覚えのある『瑠璃の匂い』に、安心感を覚えた。
京香は頭から、ぬるいシャワーを浴びる。置かれているシャンプーを使うも『あの女の匂い』が消えなかった。頭を掻きむしり、涙を流した。
「うう……」
屈辱を感じる余裕など無いほどの、絶望だった。
逆らうことが出来ずに、好きでも無い人間から好きに弄ばられることが――脅迫されることがこれほど苦しいとは、思わなかった。まさに、蹂躙されたのだ。
どれほど身体を洗っても『汚れ』は落ちない。仕方なく、シャワーの栓を閉じた。
京香はタオルで身体を拭き、洗面所に出る。鏡台に、泣きはらした自分の顔が見えた。実に無様な姿だった。
鏡台には、瑠璃のピアスがいくつか置かれていた。どうしてか、それらの鈍い輝きに見入った。
用意されていた新品のショーツと、ウサギがプリントされたTシャツを着る。髪は半乾きだが、日々のケアも含めどうでもよかった。
冷房の効いたリビングに入ると、瑠璃が立ち上がった。狭いキッチンの冷蔵庫から飲料缶をふたつ取り出し、ひとつを京香に手渡した。アルコール度数九パーセントの、レモンチューハイだった。
京香はベッドに腰掛け、缶を開けた。このような酒を、初めて飲んだ。アルコールの味しかしない、不味い酒だった。
瑠璃も隣に座り、ちびちびと飲んでいる。
彼女の心配と怯えが、京香には伝わった。何にせよ、居心地が悪そうだった。
テレビが点いていた。深夜のくだらないバラエティ番組が雑音として、京香の耳に触れていた。
「ねぇ……私に、ピアス開けてくれない?」
どれだけアルコール度数が高くとも、不味い酒では酔えない。
京香は瑠璃を見下ろし――はっきりとした思考で、確かな意思を伝えた。指先で、耳たぶを弾いた。
「え……」
驚いた表情で、瑠璃は顔を上げる。
製菓会社で働くうえでピアスは厳禁だと、京香はこれまで散々言ってきた。一変してそれを肯定するような言動を見せたのだから、困惑するのも無理がないと思った。
こちらの意図を理解して貰うためには、あまりにも言葉足らずだ。
「私、両川から脅迫されてるの。あんたとのこと、あいつに知られたわ。弱み握られて……好き勝手にされてきたってわけ」
打ち明けざるを得なかった。
可能ならば、瑠璃に知られたくなかった。だが、今夜ずっと瑠璃を警戒していたことから――目撃のうえ誤解される方が嫌だと考えた。
さらに、たった一度で精神状態がここまでやられた。これから先、隠し通せる自信が無い。
「そんな……」
「全部、私の責任よ。あんたの方は興味無いみたいだから、安心なさい」
せき止めていることは、とても言えなかった。こうして事情を話しても、瑠璃を巻き込みたくない。
「これからも、私はあいつに支配されるわ。だから――あんたとの『証』が欲しいの。あんたの手で、私に穴を開けてくれない?」
京香にピアスを付ける気は無かった。ただ、瑠璃からの『痛み』や『傷跡』を求めた。
これから先も、昭子に身体を嬲られるだろう。心と同じく、身体も昭子に支配されるつもりは無いが、それでも瑠璃との確かな『証』が欲しかった。
「無理です……。わたしには、出来ません……」
「そんなこと言わないで! どうしてよ!?」
どこか怯えている瑠璃に、京香は涙を流して問い詰めた。
他人の身体に穴を開けた経験が、無いのかもしれない。それでも、これまで自分の身体に何箇所も開けた実績から、失敗はしないだろう。いや、たとえ失敗しても構わない。不格好であるほど、求める効果はより強まる。
「アナタがわたしの大切な人だからですよ! 傷つけたくありません!」
瑠璃もまた、声を荒げる。力強く訴える瞳には、涙が浮かんでいた。
「わたしがどんな気持ちで、こんなバカな真似したと思ってるんですか! 今なら絶対にしませんよ! それぐらい、充実してるんですから――アナタのお陰で!」
京香が初めて瑠璃の素顔を見た際、無数のピアスから『底辺』の象徴だと感じた。
視覚だけで、そのように印象付いたのではない。
――他にやることありませんし、ピアスホール開けなきゃ、みたいな使命感……部長さんにわかるわけないじゃないですか。
かつて瑠璃が、不貞腐れながらそう漏らしたことを、京香は今でも覚えている。
きっと、怠惰な日々を過ごしていたのだろう。暇潰しの延長といった意味合いを、本人から聞いていたのであった。
正社員になってから、瑠璃はピアスを外すようになった。
穴だらけの耳に、京香は違和感があったものの――活き活きとした姿を含め、いつの間にか見慣れていた。今ではすっかり、自然な姿だ。
だから、ピアスホールを必要以上に開けたことを、もしかすれば後悔しているのかもしれない。瑠璃の瞳から、京香はふと思った。何にせよ、同じ目に遭わせたくないようだ。
そのような優しさが、京香の罪悪感を掻き立てた。
「私、あんたに非道いことをしたわ……。ごめんなさい……」
かつて『ぁぉU』の身元を特定した際、それを弱みとして瑠璃を脅迫した。有無を言わさず、肉体関係を迫った。この女性を蹂躙したことは、紛れもない事実だ。
あの時は『奪う側』としての圧倒的な優越感、そして快感を味わった。瑠璃のことなど、どうでもよかった。
だが『奪われる側』に立たされ、瑠璃の気持ちをようやく知った。謝罪だけでは済まないことを、しでかしていたのだ。
「あんたには、私を罰する権利がある。だから――」
罪悪感を鎮めるための『証』としてもピアスホールを開けて欲しいのだと、京香は気づいた。
「そんなもの、ありませんよ! わたしがアナタから、どれだけのモノを貰ったと思ってるんですか!?」
瑠璃の訴えに、京香は首を横に振る。
最低の出会いから『ママ活』を通じ、現在でこそ良好な関係だ。あくまでも、結果論ではだ。
それでも、瑠璃に行った脅迫行為は、無かったことにならない。京香はこの女性に、どうしようもない絶望感を与えたのだ。
「あんたに辛い思いをさせたわ。お願いだから……私のことを、罰して」
京香は懇願して俯き――左頬に衝撃と熱が伝わったのを感じた。一瞬の出来事の後、じんわりと痛みが広がる。
顔を上げると、瑠璃が腕を振り下ろしていた。平手打ちをされたのだと、京香は察した。
涙を流す瑠璃の瞳は、怒りに満ち溢れていた。京香の見る、初めての表情だった。
「だったら、この一発で許します。その代わり――しっかりしろ、妙泉京香!」
瑠璃にTシャツの胸ぐらを掴まれた。何度か揺すられた後、瑠璃が脱力気味に胸元へもたれ掛かった。
彼女の小さな肩が震えている。
京香にどれだけ余裕が無くとも――自然と抱きしめ、そして泣いた。
格好いいところが好きだと、これまで何度か言われてきた。情けない姿を曝け出しても励まされることから、より説得力がある。
瑠璃の希望通り、格好いい大人でありたいと、京香は願う。
しかし、無理だった。どれほど励まされても、格好良く振る舞える自信が無い。
「ごめんなさい……」
京香は申し訳なく、謝罪した。
蒸し暑い夜が更けていく中、ふたりで泣いた。
どれだけの涙を流しても、現実は変わらない。それでも、いずれ夜明けは訪れるだろう。だが、世界が明るくなっても――頭上に光が見えないのだと、京香は思った。
腕の中の小さな存在だけは、守りたい。その気持ちすら、闇に飲まれてしまいそうな予感があった。
第18章『証』 完
次回 第19章『夜明け』
フィナンシェの新しいフレーバーが決定する。




