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アナタはわたしの手の中  作者: 未田
第18章『証』
53/90

第53話

 九月六日、金曜日。

 普段であれば、京香は週末が待ち遠しかった。瑠璃との『ママ活』をモチベーションに、あと一息を頑張ることができた。

 まるで悪い夢を見たと思いたかった。

 しかし、社内で両川昭子と顔を合わせる度――無邪気な笑みを向けられる度、ふたりきりのオフィスでの出来事がフラッシュバックした。紛れもない現実だったと、思い知らされた。

 現実だったとして、もしかすれば昭子が『無かったこと』にするのではないかと、微かに期待していた。飽きて解放する可能性が、無いとも言えない。

 だから京香は瑠璃に『ママ活』は中止だと告げなかった。

 だが、そのような期待(ねがい)が叶うはずもなく――午後二時過ぎ、京香は試作室を訪れた。


「お疲れさまです」


 狭い部屋にはやはり、瑠璃ひとりしか居なかった。振り返って会釈する瑠璃の表情が、京香にはとても明るく見えた。

 まるで、瑠璃もまた今夜を楽しみにしているかのように。京香は、瞳の奥から熱いものが込み上げるのを感じた。


「ごめんなさい……今日の夜、ちょっと予定入っちゃって……」


 しかし堪え、苦笑する。

 瑠璃は残念そうというよりも――突然のキャンセルに驚いたのか、きょとんとした表情を見せた。


「そうですか……。わかりました」


 たったそれだけの相槌だった。

 きっと、今夜の料理を考えていただろう。きっと、納得などしないだろう。『ぁぉU』の投稿を抑止されて『ママ活』の独占契約を結んだが、これなら文句も言いたくなるだろう。

 だが、曖昧な内容にも関わらず瑠璃から問い詰められなかったのが、京香には幸いだった。

 その代わり、罪悪感が込み上げた。瑠璃と顔を合わせることすら辛いため、早く部屋を出ようと扉に振り返る。

 そして向かおうとするも――座ったままの瑠璃から、腕を掴まれた。


「大丈夫ですか?」


 そう訊ねられ、京香は振り返った。


「わたしの勘違いだったら、すいません……。今もそうですけど……なんかここ最近、元気無いみたいなんで」


 何があったのかは、訊ねない。瑠璃はただ、心配そうな瞳で見上げていた。

 京香はあの日からずっと絶望感に包まれていたが、表には出さないよう努めていた。実際、他の同僚から気遣われることは無かった。

 瑠璃が初めてだった。彼女だけが何かに気づいていたのだと、京香は察する。

 なんとか保っていた緊張感が、緩みそうになった。


「ありがとう。でも、そんなことはないわよ」


 京香は精一杯の笑顔を作った。『所有者』として『所有物』の前では、どれほど辛くとも、強がらなくてはならない。

 今度こそ部屋を出る。ひとりきりになった途端、大きく息を吸った。

 悪いのは、全て自分だ。瑠璃の残業に付き合った際、ふざけた真似を行わなければ、咄嗟の動作を見せなければ、昭子に疑われなかった。自分が招いたことだ。自業自得だと言える。

 だから、瑠璃を巻き込めなかった。頼るどころか、知られてすらいけない。

 京香は改めて確かめると、強引に気持ちを切り替えた。



   *



 午後六時半、京香は仕事を終えて工場を出た。

 自動車で――昭子から指定されたコンビニへと向かう。工場からそれほど離れていないため、周りの目が心配だった。


「お疲れさまです!」


 駐車場に入るとすぐ、昭子が明るい笑みで助手席へと乗り込んだ。

 ベイクドブラウンの半袖ワンピースを着ていた。無地の明るい色だが、昭子は違和感無く着こなしていた。

 ややカジュアルな雰囲気だからだろう。京香には、なんだか普段と違う印象に見えた。それでも素直に、似合うと思った。


「それで……どこに行くの?」


 だが、感想を述べることなく、気だるげに訊ねる。


「駅前のモールに行きましょう。ショッピングとご飯です」


 けろりと答える昭子の言葉に、京香は耳を疑った。

 確かに、利便性がある。このあたりでは無難なデートスポットだ。週末のこの時間帯は、特に混んでいることだろう。

 だからこそ、大きな問題点があった。


「あんたね、誰かに見られたらどうすんのよ!?」


 そう。それだけ、同僚の目につく可能性が高い。

 京香が瑠璃との『ママ活』に於いて、最も注意していたことだった。まさか昭子が、その可能性に気づいていないとは思えない。


「別に……誰かに見られたって、いいじゃないですか」


 気にする様子も無く微笑む昭子に、意図的だと京香は確信した。全くの逆だった。


「見られて困るものでもないですよね?」


 同僚の目を避けるどころか、むしろ触れられたいがために、ショッピングモールを選んだ。

 第三者に見られなくても構わないのだろう。誰かに目撃さえされたなら『仕事後(アフター)に、昭子が京香と一緒に居た』という噂が、瞬く間に社内へ広がる。

 ひとまずは既成事実を作り出し、外堀を埋めることが昭子の狙いだと、京香は察した。


「困るのよ……私は」


 誰とも一定の距離を保っているという印象を社内で持たれていると、自覚している。だからこそ、そのような噂は――工場という閉鎖的な職場では、絶好のゴシップとして扱われる。

 仕事外のことで目立つなど、京香は嫌だった。


「そうですよねー。あんな派遣なんかと、コソコソしてましたもんねー」


 混じり気の無い笑顔を、昭子から向けられる。


「早く行きましょう。行ってくれないと……わかりますよね?」


 昭子が言葉を選んでいるのかわからないが『命令』や『従え』等は出てこない。それでも、間違いなくそのような意図だ。

 京香は下唇を軽く噛むと、自動車を走らせた。


 十五分ほどで駅前のショッピングモールに到着した。

 京香は昭子に、ファッションフロアへ連れて行かれた。


「どうですか、京香さん。似合ってますか?」


 適当なアパレルショップで、昭子が試着する。

 感想を求められるが、京香はそれどころではなかった。ただひたすら、周りを警戒していた。


「ねぇ。ちゃんと見てます?」

「ええ……」

「もー、連れないですね」


 そこが良いんですけど――昭子が笑いながら付け足すも、京香の耳には届かなかった。

 昭子から手を引かれ、京香は他の店も連れ回された。

 瑠璃の時とは、全く違った。興味の無い人間が何を着ようと、興味が湧かなかった。

 それよりも、やはり周囲の視線に怯えていた。

 今夜の『ママ活』をキャンセルされた瑠璃がどこで何をしているのか、京香は知らない。おそらく工場から真っ直ぐ帰宅しただろうが、このショッピングモールに居ないとは限らない。

 悪い可能性を考えるほど――瑠璃の目につくことを、最も恐れた。そして『最悪』のケースだけは回避したいと、祈った。


 一時間ほどの買い物を楽しみ、午後八時前になった。

 この時間帯でも、ショッピングモールは割と客が居るように、京香は感じた。だから、警戒を怠らなかった。

 次に昭子から連れて来られたのは、グルメフロアだった。

 気分の問題だろう。京香は全くと言っていいほど腹が減っていなかった。

 それでも、昭子が主にパスタを取り扱っているレストランを選んだ。二十分ほど待った末、ふたりで入店した。

 よりにもよって、窓側の席へと通された。ふたりがけのテーブルで、昭子と向き合って座る。

 気持ちは休まらない。全く楽しくない時間を過ごしている。


 京香は適当に注文した後――昭子から露骨に目を反らし、窓をぼんやりと眺めた。一般客が歩いている。

 昭子との姿が周りにどのように見えているのだろうと、ふと思った。年齢が離れているとはいえ、まだ同僚に見えないことはないだろう。

 少なくとも、瑠璃と一緒に居る時よりは『まとも』だ。周りの目を考えれば、傍に置く者として、昭子の方がまだ相応しいと言える。

 しかし、京香は瑠璃が傍に居て欲しかった。自分の隣に立つのは、彼女こそが圧倒的に相応しいと思う。


「あたしだって、こんな真似したくないですよ……」


 昭子がぽつりと漏らす。

 今夜はずっと明るい声を聞いていたので、落ち着いた抑揚が、京香は珍しく感じた。


「あたしはただ、京香さんと気持ちを寄り添いたいだけです」


 続く台詞に、京香は小さく嘲笑う。


「脅して無理やり従わせて……寄り添うなんて、出来るわけないでしょ」


 今後たとえ昭子からどれだけ優しくされても、脅迫されたという事実は消えない。気持ちがなびくことなど、あり得ない。

 京香はそう考えるが――瑠璃との事例がある以上、それは間違っていると思った。

 いや、昭子と瑠璃のどちらが『間違い』なのか、わからなかった。


「それなら、とことん躾けるしかないですね」


 再び、他人の神経を逆撫でするほどの、明るい声が聞こえる。


「やってみなさいよ」


 京香は敢えて昭子に向き直り、不敵に笑ってみせた。

 脅迫されている以上、どれだけの要求には従うしかない。

 しかし、心までは決して屈しないとの姿勢を見せたつもりだった。たとえ何があろうと、気持ちは抗い続けるつもりだ。

 自分自身のため――そして、瑠璃のためにも。

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