第52話
「妙泉部長とあの派遣、ここでやらしいことしてたでしょ!?」
戸惑う様子を一瞬見せた昭子から、京香は問い詰められる。
あまりに突然であるため、言葉の意味がすぐに理解できなかった。
しかし、昭子が折り畳み傘を取りに戻ったことがあったと、つい先程思い出していた。そして、今はオフィスに他に誰も居ない。
そのふたつが『あの日』を彷彿とさせる。決して特別な日ではなかった。京香にとって、何気ない怠惰な日々の、ひとつだった。
瑠璃との企業秩序違反行為とでも言うべき姿を、見られていたのだ。昭子の目撃を『未遂』と捉えて現在まで流していたが、実際は違ったようだ。
京香はようやく理解し――頭の中が真っ白になった。
「な、何言ってるのよ……」
たとえ事実だとしても、認めるわけにはいかない。京香はかろうじて、反射的に否定した。
しかし――心臓が今にも張り裂けそうなほどの速さで動いている。胃のあたりがキリキリと痛む。全身の水分が、汗や尿で一気に流れ落ちるような錯覚を覚える。
そのような状態で、冷静を装うのは無理だった。京香は、半笑いを浮かべることが精一杯だった。
明らかに動揺していた。全く隠せていない自覚があった。
「え……。本当だったんですか?」
昭子が引きつった笑みで後退り――やられたと、京香は後悔した。
やはり、目撃されていなかった。昭子からは所詮、疑惑止まりだった。
だが、これ以上無いほどわかりやすい『答え』を昭子に与えてしまった。
まさか、ここでブラフを吹っ掛けられるなど、誰が想像できたであろう。京香はまんまと、昭子の罠に陥った。
「……」
今さら否定したところで、もう遅い。
いや、京香は否定する気にもなれなかった。部長席に座ったまま、ただ黙って俯いた。
「へー。あたしには全然構ってくれなかったのに……あんな派遣と、よろしくやってたんですか」
ヘラヘラした笑い声が聞こえる。入社数ヶ月の『小娘』から嘲笑われるのは、とても不愉快だった。
それから逃れるように、一連のやり取りを冷静に振り返った。どうして、昭子がブラフを吹っ掛けてきたのか。どうして、昭子がオフィスに戻ってきたのか。
「望みはなに? コンペで、あんたのアイデア採用しろって?」
京香は、そもそもの発端を思い出す。昭子のチーズ案を採用することに、肯定も否定もしなかった結果、こうなったのだ。
本来の管理職であれば、このような状況であれ――新入社員のふざけた要求など、とても飲まないだろう。だが京香には、部長としての矜持など無い。これで解決するならば、容易く飲むことが出来る。
昭子のことは心底憎いが、対処を見誤ってはいけない。まずは『この事実』が昭子から誰かの耳に入ることを、絶対に阻止しなければならない。
「いやいや……妙泉部長、自分の立場わかってます? 黙っていて欲しいんですよね?」
昭子が京香の机に腰を下ろす。
京香は昭子から指先で頬を撫でられ、そして顎を持ち上げられた。にんまりとした、下卑た笑みが見えた。
初めて見る昭子の表情――のはずだった。しかし、なんだか既視感を覚えた。
「これから、あたしの言うことは絶対になるんですよ? あたしには逆らえないんですよ?」
要求を一回飲んだきりで、終わるわけがない。きっと、これから何度もぶざけた要求を押し付けられる。他の誰にも知られてはいけない『弱み』を握られているのだから、当然だ。
京香はようやくそれを理解すると同時、握る側はさぞ気持ち良いだろうと思った。恍惚に口元が歪むのは、仕方ないのだ。
「安心してください。妙泉部長が『良い子』で居てくれるなら、ちゃーんと黙ってますから」
決して逆らえない状況を作られ、良いように弄ばれる。どれほど嫌でも拒否権は無く、従うしか無い。
そう。京香は昭子から脅迫されているのだった。瑠璃に対して行ってきたことを、次は被る立場になった。
絶望感に包まれるが、それよりも――瑠璃はこのように不安だったのだろうと思った。自分が瑠璃に対し、どれほど非道いことをしてきたのか、罪悪感が込み上げた。
「ふざけないで! あんたのアイデアは採用するし、可能な限りの昇給に役職に、待遇も良くする。個人的に『口止め料』も出すわ」
京香は頭の中を切り替え、昭子を睨みつけた。
瑠璃を脅迫できたのは、彼女が派遣社員という『弱者』だったからだ。
だが、自分は違う。金銭も地位も持っている身として、一方的な要求に従うだけでなく、他にも選択肢を用意することが出来る。もっとも――
「別に、そんなのどうでもいいですよ。あたしが何を欲しいのか……わかってますよね?」
こちらの提案に乗った方が明らかに得だと、京香は思う。いや、京香にとって都合が良かった。
交渉の余地が全く無いから、厄介なのだ。
昭子の目的がはっきりしている以上、予感はあった。実際に突っぱねられ、京香は下唇を軽く噛んだ。
あの時、ふたりきりの会議室で、こちらの要求を瑠璃は素直に受け止めた。
だが、もしも他の選択肢を提示されていたならどうだっただろうと、京香はふと思った。
きっと自分も、昭子と似たようなことを言っていたに違いない。悔しいが、思考や言動は同じなのだ。
「あんたね、自分が何やろうとしてるのか、わかってんの? 私も無傷じゃ済まないけど、少なくともあんたを道連れに出来るわ」
京香は直ぐに道筋を切り替える。
だがかつて、瑠璃からこのように言われていた場合どう返すのかを、想定したことがあった。
「やればいいじゃないですか。あなたと一緒に破滅するなんて、ある意味で本望ですよ」
やはり、想定通りの回答が返ってきた。
開き直る心理としては、相手が実際に行動へ移さない『脅し』だと捉えている節があると、京香は考える。
確かに、そうであった。道連れ――即ち『自滅』は、考えられる可能性の中で最悪だ。金銭も地位も持っている身ならば、なおさらだ。
こちらが両刃の剣を振るう覚悟が無いことを、昭子に見透かされている。
「で、他に何かあります?」
にこやかな表情を浮かべる昭子から、京香は煽られる。
一通りは試したが、覆らない。他に策が見つからず、昭子を強く睨んだ。
「それじゃあ――とりあえず、デートしましょうか」
昭子は優しく微笑む。
口調としても、提案ではなく命令だと、京香は察した。
「本当は今すぐ行きたいところですけど、ちゃんとオシャレしたいんで……そうですね、金曜日の仕事終わりに行きましょう」
このような思考まで同じであることが、なんだか皮肉だと、京香は感じた。小さく自嘲する。
週末は『ママ活』の日だが、その言い訳が通じるはずがない。そもそも、瑠璃との具体的な関係を知られたくない。
他に選択肢は無かった。どれほど嫌でも、従うしかないのだと――京香は割り切った。
瑠璃の顔が、頭にぼんやりと浮かぶ。
「わかったわ。あんたの言うことには従う。その代わり――あの子には、何も手を出さないで」
せめてもの譲歩を持ちかけた。
脅迫されている側として、本来であれば言えた義理ではない。しかし不思議と、頷く代わりとしてなら、まだ受け入れられる可能性がある。
「うーん……いいでしょう。その代わり、あたしを裏切らないでくださいね。あと、目障りな真似はするなって、あのゴミクズに言い聞かせておいてください」
昭子側としても、より強制力が働くと踏んだようだ。
それは仕方ないと京香は思うと同時――たとえ誰かの『所有物』に成り下がっても、自分の大切な『所有物』を守れたことに、少し安心した。
このような目に遭うのは、自分ひとりで構わない。瑠璃にはもう、怖い思いをさせたくない。
「じゃあ、覚悟を見せてください」
机に腰かけた昭子から、手の甲を差し出される。
何を意味するのか、京香はすぐに理解した。戸惑うが、昭子の手を持ち――甲にそっとキスをした。
これはもう『所有物』ではない。ただの『奴隷』だ。京香は三十二年生きてきた中で、今この瞬間が最も屈辱的だった。
顔を上げなくとも、昭子の表情が恍惚に歪んでいるのがわかった。ゾクゾクしている様子が伝わった。
あまりの不快感に京香は吐き気が込み上げるが、ぐっと我慢した。瑠璃もこうだったのだと、嫌でも頭に思い浮かぶ。きっと、これは何かの罰なのだ。
それでも、京香は解放されたかった。だが、解決策はやはり何ひとつ浮かばなかった。自分ひとりで行使できる範囲で、果たしてそのようなものが存在するのか、疑問だった。
光は見えない。文字通り、目の前が真っ暗になった気分だった。




