第51話
九月二日、月曜日。
週明けと同時に、九月度が始まった。まだ残暑が厳しい中、京香はいつも通り午前八時に出社した。
真っ先に取り掛からければならない仕事は――フィナンシェの新しいフレーバーについてだった。先週末で、案の募集を締め切った。
午前十時半、京香は三上凉と喫煙室に居た。ふたりきりの狭い空間で、A4サイズの紙に出力した、それぞれの案を眺めていた。いわば、ふたりだけの会議だ。
「今回は割と自由だから、多いですね」
妙泉円香から言われた通り、リニューアルに合わせた話題性重視であるため『攻めた味』でも構わない。そのような趣旨である以上、カジュアルな雰囲気のコンペティションだった。京香がざっと眺めた中にふざけたものもあるが、珍しく開発一課全員が提出した。
「普段から、これぐらい気楽だといいのにねぇ」
凉が加熱式の煙草を一度置き、紙の束をペラペラと捲った。
「私が気になったのは……とりあえず、これかな」
一枚を取り出し、京香に手渡す。
両川昭子の案である『濃厚チーズ』だった。ワインに合うフィナンシェをコンセプトとして――ゴルゴンゾーラ、カマンベール、チェダーの三つが試作に挙がっている。
「面白いアイデアじゃないですか。私も、良いと思いますよ」
凉の手前、彼女の『お気に入り』である昭子を持ち上げているのではない。京香は個人的に昭子を嫌っているが、先入観を抜きにして、純粋に評価した。
フィナンシェのしっとりとした食感は、確かにチーズのフレーバー、そしてワインと合うことだろう。ターゲット層である『成人女性』に受けやすいことが、安易に想像できる。はっきりとしたコンセプトで売り込むことに、説得力を感じた。
妙泉製菓はこれまで、アルコールと合う焼き菓子を考えていなかった。初めての試みとしても、いわば実験的な枠組みである今回に採用したい気持ちが、京香にはあった。
「あの子のこと、まだまだお子様だと思ってたのに……オトナなアイデアぶっこんでくるなんてね。京香に憧れて、背伸びしたんじゃない?」
「あはは。まさか……」
京香は苦笑して誤魔化す。
そういえば、そのようなことを昭子から言われたような気がするが――これとの因果があると思いたくなかった。
「濃厚チーズ、良いアイデアなんだけどねぇ……。めっちゃ惜しいよ。これが無かったら、迷わず採用してたのに……」
凉が悔しそうに取り出した紙を、京香は受け取った。
彼女をここまで唸らせる案は、ひとつしかないだろう。やはり思っていた通り、瑠璃の『サツマイモ』だった。
「へぇ、農家とコラボですか。地元の特産品って、意外と盲点でしたね」
京香は事前に知っていたが、初見を装った。さらに、瑠璃個人を褒めないことを意識した。
もう凉に知られているにしろ、彼女の前で瑠璃を贔屓したくなかった。
「小柴さん、やるねぇ。もうマジで、ムカつくぐらい……」
言葉とは裏腹に、凉はなんだか嬉しそうな表情だった。昭子に仇成す存在だとしても、上司として部下の実力を認めているようだ。
単純なアイデアだけでなく、この書類が企画書としてきちんと仕上げられていることも大きいと、京香は思った。読んでいて、少なからず『派遣上がり』のぎこちなさは無い。他の課員達と遜色無い位置に居ることを感じた。
京香は書類の作成方法を、瑠璃に教えていない。独学か、或いは――彼女が『先輩達』に指導を仰いだとしても、それもまた確かな意思だ。彼女なりに社会人としての努力を行っているには違いない。
立派になったと、改めて感慨深かった。
「まあ、この二択ですけど……優劣つけられませんね」
京香は他のもざっと目を通したうえ、凉に告げた。チーズ案も挙げたのは、瑠璃を贔屓していることの謙遜ではなく、本音だった。
自分以外の大勢がチーズ案を選んだとしても、きっと納得するだろう。それほどまでの接戦だと感じた。
いや、昭子の案であるので悔しいが、京香個人はチーズ側に傾こうとしていた。
「うーん……。私はこっちかな」
悩んだ末に凉が掲げたのは――京香としては意外にも、サツマイモ案だった。
「こっちの方が盛り上がるよね。私はさ、今さらだけど……地元巻き込んで、地盤を固めておきたい」
妙泉製菓が地元との繋がりが弱いことは、京香も痛いほど感じている。リニューアルということからも、補強するには絶好の機会だろう。
「私はどっちかというと、こっちですかねぇ」
凉の意見に納得したうえで、京香はチーズ案を指さした。
裏切りとも言える行為は、瑠璃にとても見せられない。この場が凉とふたりきりである前提だ。
「京香、お酒好きだもんね。まんま、コンセプト通りじゃん」
「そうかもしれません……」
図星であるため、京香は苦笑した。惹かれた理由は、まさにそれだ。普段はウイスキーばかり飲んでいる京香でも、ワインを飲んでみたくなった。
何はともあれ、京香と凉、瑠璃と昭子が――今回は偶然にも、ひとまずは交差した。
「片方だけ採用だなんて、酷だね。いっそ、枠がふたつあればなー」
「残りの片方も、いずれは使いますよ。流石に、勿体ないです」
詳しい時期は未定だが、いつかは京香から稟議を出すつもりだ。今回どちらが残るにせよ、次回で評価されるに違いない。
そのような意味では『保身のネタ』として持っておける安心感があった。
「まあ、私はああ言ったけど……最終的には京香に任せるよ」
凉が席を立った。
難しい決定権を委ねられ、京香は凉を狡いと思った。どこか清々しい様子の凉から圧を感じないのは、まだ救いだが――ひとりで取捨選択することの、責任の重さが圧し掛かった。
「ありがとうございます。とりあえず、試作して皆で評価してみましょう」
何にせよ、京香は皆の意見を聞くつもりだ。必ずしも多数決の結果に従う必要は無いが。
瑠璃に対する後ろめたさがあるものの――確かな手応えに満足しながら、凉と喫煙室を後にした。
*
午後五時半になり、終業のチャイムが工場内に鳴り響いた。
開発一課の課員達が退勤するのを、京香はオフィスの部長席から眺めた。月曜だが、今日は用事があるようで、凉も定時で上がった。
適当な理由で瑠璃を巻き添えにすればよかったと思いながら、京香はひとりきりで残業していると――ふと、オフィスの扉が開いた。
まさか瑠璃だろうかと、顔を上げる。
「お疲れさまです」
だが、姿を現したのは、私服姿の両川昭子だった。ロッカーで着替えてから引き返してきたのだと、京香は察する。
「お疲れさま。何かあった?」
にこやかな表情でこちらに近づいてくることから、昭子の意図が全くわからなかった。
以前、折り畳み傘を取りに戻ってきたことを思い出す。今回は少なくとも、その類では無いだろう。
告白されたがために――京香としてはまだ、昭子と接したくなかった。ふたりきりになるなど、もってのほかだ。
だから、ふたりきりになることを見越して昭子が訪れたのではないかと、つい疑ってしまう。
「フィナンシェのアイデア、見てくれましたか?」
京香は『告白』絡みに対して身構えていたが、意外にも仕事について触れられた。
「ええ。濃厚チーズ……よく出来てると思うわよ」
「ですよねー。あたし、頑張りました!」
上司と部下の何気ない会話だと、京香は思った。
昭子としても、会心の出来だったのだろう。手応えを確かめたくてソワソワしていたのだと、察する。
「それで……ぶっちゃけ、どうですか? あたしのアイデア、いけますよね?」
笑顔で詰められ、京香は鬱陶しさを覚えた。
昭子のチーズ案が優れていると、一度は感じた。だが、時間が経って落ち着くにつれ――やはり、瑠璃を裏切られなかった。
おそらく、課員達の評価はチーズとサツマイモで五分になる。たとえサツマイモが若干劣ったとしても、京香は凉から与えられた権限で、サツマイモを採用するつもりだ。
管理職として、平等で客観的な判断を下せないことに、改めて『クズ』だと自覚した。
「まあ、いいところにはいくんじゃない?」
もう腹は決まっているが、とても口にはできない。当たり障りなく躱したつもりだった。逆だったとしても、同じだろう。
「え……。また派遣のを選ぶんですか?」
低い抑揚の声が、正面から聞こえる。
京香は思わず昭子を見上げると、にこやかな様子から一変――昭子の瞳は笑っていなかった。
「ちょっと待って。どうして、そうなるのよ?」
図星であるため、京香はなんとか動揺を抑えた。
昭子が瑠璃を目の敵にしているのは、以前から知っている。冷静に考えれば、何らおかしくない。
だが、なんだか嫌な予感がした。昭子の案を否定したわけではない。肯定しなかっただけで、ここまで逆上するだろうか。それほど自信があったにせよ、この反応は異常だと、京香は思った。
そう。まるで何か確信を得て、吹っ切れたかのようだった。
「あたし、知ってるんですからね!」
昭子が声を荒げる。
そして、戸惑う様子を一瞬見せるも――言葉を続けた。
「妙泉部長とあの派遣、ここでやらしいことしてたでしょ!?」
第17章『独占契約』 完
次回 第18章『証』
京香は昭子から問い詰められる。




