第50話
八月三十日、金曜日。
八月の締め日である今日、京香は午後から本社に出向いた。商品開発部の部長として、そして工場の責任者として、経営会議に出席した。妙泉の人間としてではない。
大型連休があった都合で今月は稼働日が少なかったが、工場の生産計画は無事に達成した。フィナンシェのリニューアルは、近日中に片付く見込みだ。よって、京香が経営陣から責められることはなかった。
販売実績が計画に対し、若干下振れていることから、営業の人間が突かれていた。京香は妙泉の人間でありながら、他部署や会社全体のことは心底どうでもよかった。
本来であれば今夜は、会議参加者で『会食』のはずだった。しかし、京香は実績から堂々と断り、自動車で帰路を走った。後ろめたさが無いどころか、むしろ清々しい気分だった。
自動車を運転しながら、ハンズフリーの携帯電話で三上凉と通話する。開発一課の方は午後からも特に問題が無かったと、報告を受ける。
通話を終え――そういえば、フィナンシェの案は今日が締め切りだったと、京香は思い出した。その件について、凉からの報告は無かった。だが、今の京香としては割とどうでもよかった。週明けに確かめようと、軽く流した。
京香は浮かれながらも安全運転を心がけ、帰路を走った。
やがて、時刻は午後七時過ぎ。
駅前のロータリーで、京香は瑠璃を拾った。『週末』にしては、いつもより少し遅い時間だった。
「お待たせ」
「お疲れさまです。なんか、ご機嫌ですね」
「えー、そう見える? ちょっと良いことあったし……『お楽しみ』もあるもの」
「……」
警戒する瑠璃を助手席に乗せ、帰宅した。
リビングに上がると、京香はエアコンを動かすよりも先に――ソファーに置いていた段ボール箱を持ち、満面の笑みで瑠璃に渡した。
「とりあえず、これに着替えなさい。命令よ」
「嫌な予感しかしないんですけど……」
瑠璃が段ボール箱を開ける。
中には、京香が通信販売で購入した『女子高生の制服』が入っていた。
「え……本当に買ったんですか? バカなんですか?」
ネイビーのブレザーを広げながら、瑠璃は呆れた。先週のやり取りを、冗談だと思っていたのだろう。
京香は『これ』をモチベーションに、本社での会議を乗り切ったのであった。
「ほら。早く早く」
寝室を指差すと、瑠璃は溜め息を漏らし、トボトボと歩いていった。
京香はハイボールを二杯作り、リビングのソファーでひとつを飲んでいた。やがて、寝室から人影が姿を現した。
「なんですか……これ」
「いいじゃない。超似合ってるわよ」
瑠璃の気だるい様子を、京香は久々に見たような気がした。それも相まり、まさに想像通りだった。
ブレザーを着ていないのは、夏場なので仕方ない。ブラウスにはスクールリボンが付き、チェック柄のスカートが揺れていた。
「二十一にもなって、何やってるんですかね……わたし」
年齢がまだ『現役』に近いだけではない。小柄で童顔だから違和感が無いのだと、京香は思った。
呆れる瑠璃を手招きし、ソファーの傍に立たせた。
律儀に留めているブラウスの第二ボタンを京香は外し、スクールリボンも緩めた。そして、スカートのウェスト部分を折り、丈を短くした。
「うんうん……。あんただと、こんな感じね」
「すいません。ワケわかりません」
紫のインナーカラーが入った長い黒髪と、気だるい様子から、ルーズに着るのが似合うと京香は思う。ピアスまであれば完璧だったので、無いことが少し残念だった。
「とりあえず、ウーバーで適当に注文するけど……その格好で取りに行きなさい」
「はい? いやいや……流石にマズいですよ」
「全然マズくなんてないわよ。ここまで着こなしたら、不審に思う人なんて居ないんじゃないかしら」
京香は素直な感想を漏らしながら、携帯電話で制服姿の瑠璃を写真に収めた。
シャッター音に反応し、瑠璃が咄嗟に短いスカートを抑える。
「でも……たぶん本物のJKは、こんなにいやらしい下着を履いてないわよね」
瑠璃の手を払い除け、京香はスカートを捲った。紫色の、サテン生地のショーツが見えた。
恥しそうにモジモジと、瑠璃の脚が動く。その様子を――瑠璃の真っ赤な顔も含め、下方向から撮影する。
「ほら。自分でたくし上げて」
「うう……」
京香が命令すると、瑠璃は渋々従った。スカートの裾を持ち上げ、恥ずかしさから今にも泣き出しそうな顔を横に向ける。
この反応に満足しながら、京香は写真を撮った。
「せっかくなんで、わたしも……。じゃないと、割に合いません」
瑠璃は逃げるように、寝室へ向かおうとする。姿見鏡で『ぁぉU』としての自撮りを収めるつもりだろう。
「待ちなさい」
京香は瑠璃の手を掴み、ソファーの隣に座らせた。
怯え気味の瑠璃が、首を傾げた。
「ダメ。あんたは撮らないで」
アルコールを摂取し、若干の酩酊状態だからか。もしくは、自撮りを行おうとする瑠璃を目の前にしているからか。或いは、そのどちらもか――京香は本心を口にしていた。後から自分でも驚くほど、自然だった。
「また『撮影権』ですか?」
瑠璃の言葉に、京香は大雨の日を思い出した。
あの時は、理由をつけて撮影データを独占した。瑠璃がSNSにアップロードすることを阻止した。
確かに、今の言動はそれに似ていると京香は思う。だが、意図は明らかに違った。
「もう裏垢で自分を晒すの、やめなさい」
以前から思っていたことを、ようやく伝えた。いざ声に出してみると実に簡単だと、京香は思った。何を迷っていたのだろうと、バカらしくなる。
「わたしが、正社員だからですか?」
「ううん……。もう、あんたのそういうところ見せたくないの……私以外の誰にも」
瑠璃の質問に合わせていれば、誤魔化すことが出来ただろう。
しかし京香は、本心を曝け出した。瑠璃と向き合い、真っ直ぐに見つめる。
「……」
おかしな格好をしているが、瑠璃が戸惑っているのが、京香にはわかった。
驚きと嬉しさが入り混じっているものの――少なくとも、不満は無いようだった。
金銭と承認欲求が行動原理になっている以上、瑠璃が断れば、京香は素直に引き下がるつもりだった。結果的に、良い方向へと転んだようだ。
「これからは、私と独占契約を結びましょう」
畳み掛けるつもりで、京香は咄嗟に思いついた提案を投げかけた。こちらの都合で制限するならば、代替案が必要だ。
アカウントを削除しろとまでは言わない。今後は『裏垢活動』をやめて『ママ活』だけを行う。その分『お小遣い』を増やす。京香はそう提案した。まだ納得できる内容だと思った。
「いいですけど……ママもですよ?」
だが、瑠璃からは肯定でも否定でもなく、何やら提案を持ちかけられた。
「何が?」
「わたし、知ってるんですからね。『ヨシピ』がわたし以外の裏垢女子に、イイネしまくってるの……」
どこか不満げな瑠璃から、半眼を向けられる。
京香は図星だった。紛れもない事実なのだから、否定できない。
しかし、どう言い訳して逃げ切るかなど、京香の頭には無かった。本来であれば、問い詰められて分が悪くなっているはずだった。それでも、瑠璃が確かめていることも、このような態度を見せることも、ただ嬉しかった。
浮気はナシです。わたしだけを見ていてください――まるで、そう言われているように感じたのだ。
「わかったわ。他の子は、もう見ない」
京香に名残惜しさは無かった。現実的に飲める内容であるため、頷いた。
すると、瑠璃に抱きつかれた。
「絶対ですよ? 本当に、本当ですからね」
「ええ……。あんたもね」
瑠璃は不満げな表情で見上げるが、笑うのを堪えている様子だった。
格好も相まり、子供のようだと京香は感じた。そんな瑠璃の頭を、微笑みながらそっと撫でる。
互いにとっての『独占契約』だった。まさか、このようなかたちで締結するとは、思ってもいなかった。不満が一切無いどころか、やはり嬉しい。
京香は、随分長く抱えていた不安が、ようやく解消されたような気がした。




