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アナタはわたしの手の中  作者: 未田
第17章『独占契約』
49/90

第49話

 八月二十六日、月曜日。

 週明けだが、京香はそれほど憂鬱ではなかった。むしろ、清々しい気分だ。

 先週末、瑠璃との食べ歩きデートの末――瑠璃からフィナンシェのフレーバーとして、サツマイモの提案があったからである。この地域の特産品であるサツマイモを、農家とコラボレーションする企画だ。

 コンペティションでの勝利を、京香は確信していた。正社員に引き上げた『派遣社員』がとても有能であり、まるで自分のことのように誇らしい。

 早く開発一課の皆を集めて紹介したいところだが、京香はまだ黙っていた。一応はコンペティションなので、他の課員達にも時間(チャンス)を与えなければならない。

 現在のところ、具体的な締切日を設けていない。ひとまず、今週一杯で切り上げようと、京香は考えていた。


 午前九時過ぎ、京香は席を立ってオフィスから給湯室へ向かった。ひとりきりの空間で、浮かれた気分でアイスコーヒーを淹れる準備をする。

 ふと、携帯電話を取り出し、SNSのアプリを立ち上げた。『裏垢』閲覧用のアカウントに切り替え、タイムラインを眺めた。


『月曜の谷間。今週もがんばってこ』


 二時間前、その言葉と共に、ブラジャーに包まれた豊かな乳房の自撮り写真が投稿されていた。清楚感溢れる白いブラジャーに――紫のインナーカラーが入った黒髪が、流れている。

 そう。『ぁぉU』の投稿だ。小綺麗なファッションに変わったからか、最近は下着以外の衣服が映ることがほとんど無い。それに、ポジティブな発言が心なしか増えたと、京香は思っていた。

 性的興奮を覚えないわけではない。嬉しい反面――それ以上に、複雑な気持ちだった。

 瑠璃が『ぁぉU』として投稿する頻度は、以前に比べ減っている。しかし、ゼロではない。プライベートSNSの方も、僅かだが更新されていた。

 正社員としての『身バレ』は、確かに心配だ。それよりも――未だにこのようなことを続ける意味があるのだろうかと、京香は疑問だった。

 金銭と承認欲求。瑠璃にふたつの理由があることを知っている。

 派遣社員だった時ならまだしも、正社員になった現在、どちらも充分に満たされていると京香は思う。だが、瑠璃に不満があるならば、それまでだ。止める権利は無い。

 いや、そもそも止めたいのだろうか。いくら憐憫だとしても、干渉していいのだろうか。京香はどちらもわからなかった。

 複雑な気分のまま、タイムラインから『ぁぉU』の投稿画面をタップした。


『エッッッッ』

『今週も頑張れそうです。ありがとうございます』

『むほほ。おっきいねぇ』


 等、下劣なコメントがついていた。他の投稿も似たようなものであり、特に珍しいことではない。

 彼らを貶す資格が無いことを、京香は自覚している。自分もかつては――いや現在も、消費者側だ。少なからず、彼らに共感する部分はある。

 それでも、インターネット上の有象無象からのコメントだと思うと、なんだか苛立った。消費している彼らも、彼らに消費させている瑠璃も悪いと思った。

 京香はアイスコーヒーをオフィスに持っていくのではなく、この場ですぐに飲み干した。

 そして、試作室へと向かった。帽子とマスクを装着すると、入室した。


「あっ、部長。お疲れさまです」


 他に誰も居ない狭い部屋で、全身白い作業着姿の瑠璃が振り返った。ふたりきりにも関わらず、礼儀正しく会釈する。

 帽子とマスクの間から覗く瑠璃の瞳は、正社員らしく活き活きしていた。数時間前にいかがわしい自撮りを投稿した人間とは、京香はとても思えない。

 座って試作業務に取り組んでいる瑠璃を、京香は背後から無言で抱きしめた。


「ちょ――どうしたんですか?」


 突然の出来事に、瑠璃が驚いた。

 この部屋に、いつ誰が訪れるのかわからない。誰かに見られてはいけない光景だ。

 そうは理解するものの、京香は感情(いかり)が加速した。

 どうして『所有物』は勝手に、不特定多数の人間に大切な部分を曝け出しているのだろう。いつまで、このような真似を続けるのだろう。


「なんでもない……」


 だが、決して責められない。苛立ちを瑠璃にぶつけることを、なんとか抑える。その代わり、焦燥が込み上げる。

 京香は、瑠璃の唇をマスク越しに触れた。

 あの夜、偶然とはいえ――キスをした感触を、今でもはっきりと覚えている。この世界で、自分ひとりだけだと思いたい。SNSでコメントしか出来ない有象無象に対し、ひとり勝ち誇った。


「アナタの『なんでもない』は、なんでもなくないでしょ?」


 瑠璃が心配そうな表情で見上げる。

 会議室で『ぁぉU』の正体を迫ってから、もう五ヶ月ほどになる。知ったかのように言われることが、京香はなんだか嬉しかった。


「本当に、なんでもないわよ……」


 それでも、本心は伝えられなかった。可能であれば察して欲しいが、無理な願望(はなし)だ。

 京香は微笑むと、試作室を後にした。

 部屋から出た、その瞬間だった――


「あれ? 妙泉部長じゃないですか」


 廊下では、全身白色の作業着に身を包んだ、ひとりの従業員が歩いていた。

 工場内でよく見る格好だ。だが、その呼称を使う人間は、工場内でひとりしか居ない。京香は立ち止まった人物が誰であるのか、すぐに察した。


「両川さん……。お疲れさま」


 現場研修中の両川昭子が、どうしてこのような所に居るのか。京香は真っ先に疑問を持つも、昭子が何やらファイルを抱えていることに気づいた。おそらく、現場から取りに行かされているのだろう。

 だから、彼女がここを通り掛かったことも、出くわしたことも――全ては偶然だ。


「試作室に用があったんですか?」


 しかし、タイミングは最悪だった。この部屋に出入りしているところを、最も見られたくない人物に見られてしまった。

 案の定、触れられた。


「ええ。フィナンシェの試作がどうなってるのか……気になってね」


 京香は咄嗟に用件(はなし)を作った。

 いや、部長としては何らおかしくないはずだ。何も焦る必要は無い――自らにそう言い聞かせるも、どうしてか落ち着くことができなかった。京香の無意識では、瑠璃目当てで試作室をこっそり訪れていることに後ろめたさがあるのだった。


「へぇ。締め切りまだですけど、皆頑張ってるんですねぇ。あたしも負けていられません!」


 昭子が明るく言う。

 ひとりの課員として何気ない言葉だが、京香には皮肉に聞こえた。実際、開発一課の皆はまだフィナンシェの案をまとめている段階であり、ほとんど提出には至っていない。そう考えると、矛盾が生じる。

 それに気づいての発言だったのか、京香はわからなかった。


「そうね……。今週中には、出してね」


 どちらにせよ、しくじったと京香は思った。だから、自分にとって都合の良い『着地点』へと、焦点を定めた。


「はい! ちなみにですけど、あの派遣はもう出したんですか?」


 しかし、きっと軌道は変わらなかった。

 昭子から、満面の笑みで瑠璃について触れられた。試作室から出てきた直後であるため、瑠璃との関係について問い詰められているように感じた。


「いえ……まだよ」


 事実であるが、嘘でもある。瑠璃がサツマイモの案で準備していることを、部署内で自分ひとりだけが知っている。

 反射的に否定するも、この場に於いては決して『間違い』ではないと、後になって京香は思った。


「あいつ、次はどんなしょーもないアイデア出してくるんでしょうねー」


 昭子は子供のように無邪気な笑顔で、同僚を貶した。

 本来であれば、上長として叱らなければならないところだ。だが京香は、ただ苦笑するしか出来なかった。


「そういえば……あたしのこと、黙ってくれてますね」


 廊下には他に誰も居ない。誰かが通る気配もない。今はふたりきりの空間だった。

 その中で、ふと昭子が話題を変えた。

 親睦会で抜け出した後、告白したことを言っているのだと、京香は察した。この会社で瑠璃ひとりにだけ話したが、昭子としてはそのようになっているようだ。


「あたしと妙泉部長……ふたりっきりの秘密ですね。こういうの、なんだかドキドキしません?」


 昭子から手を伸ばされ、京香は頬を触れられた。

 そして、帽子とマスクの間から覗く瞳から、じっとりとした視線を向けられた。

 不快でしかなかった。京香は昭子の手を、払い除けた。


「バカなこと言ってないで、戻りなさい」


 それだけを言い残すと、京香は逃げるように立ち去った。

 背後からクスクスと、昭子の小さな笑い声が聞こえる。おぞましさすら感じる。

 京香は昭子から距離を取ったところで――自身にとっての『秘密』は、瑠璃とのことだと確かめる。

 かつては、刺激を求めた。結果的に瑠璃と現在の関係になったとはいえ、バカげた真似をしたと思った。

 後悔はしない。しかし、他者から責められるだけの汚点(リスク)を残したのだと、今になって引っかかった。

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