第47話
八月二十一日、水曜日。
フィナンシェのコストカットに成功し、喜ぶも束の間――翌日にはオフィスの空気が明らかに変わったことを、京香は感じた。
コストカットのため、ダウングレードした材料での試作は、開発一課の皆が協力して行った。
しかし、新しいフレーバーの件は、皆がそれぞれ案を出してのコンペティションとなる。つまり、自分以外が敵だ。
勿論、このプロジェクトに関わっている小柴瑠璃も例外ではない。試作業務を担当する一方で、自分も何か案を出そうとしているのか――京香が今朝オフィスで見かけた時は、何やら神妙な面持ちだった。
どのような結果になるのか京香はわからないが、良い緊張感が部署内に漂っていると思った。
やがて午後五時を過ぎた頃、京香は手洗いへと席を立った。
用を足した後、他に誰も居ない手洗い場で、鏡を前にぼんやりとしていると――ふと扉が開いた。
「あっ、妙泉部長……。お疲れさまです!」
両川昭子が入ってきた。
現場研修から上がったばかりなのだろう。カシスブラウンのショートボブヘアは、長時間の帽子着用から、乱れていた。現に、横目で鏡を見ながら、髪を片手で恥しそうに撫でている。
彼女にしては珍しい様子だと、京香は思った。
「お疲れさま、両川さん」
ぎこちなくも、なんとか笑みを浮かべる。
そう。歓迎会で――気持ちを告白してきた時でさえ、昭子は普段通りだった。
あれから特に進展は無かった。京香としては『無かった』ことにしておきたい。昭子としても触れることはないが、いつ掘り返されるかわからないため、京香は接し難かった。特に今、狭い空間で偶然にもふたりきりになっているのだから、尚更だ。
昭子は、手洗い場――京香の隣に立つと、鏡と向き合い髪を手で整え始めた。
「そういえば、聞きましたよ。フィナンシェのコストカット、上手くいったんですね」
声は明るく、部署を祝っているように京香は聞こえた。決して、おかしいことではない。
「え、ええ……」
だが一方で、露骨に触れられたように感じた。
現場実習に専念して貰いたいのか、それともスティックケーキの一件からか、或いは別の意図があるのか――三上凉は、昭子をこのプロジェクトに呼んでいなかった。
京香としては気楽だった反面、疎外している実感が無いわけではなかった。どこかで、罪悪感として引っかかっていたが、見ない振りをしていた。
昭子本人がどのように感じていたのか、わからない。京香は正面の鏡に映る自分自身と、困った表情を向け合っていた。
「新しいフレーバーですけど……あたしも、何か案を出してもいいですか?」
隣からの強い視線を感じる。京香は仕方なく振り向くと、昭子が真剣な瞳で真っ直ぐ見上げていた。
「出しちゃいけないことなんて、ないわ。両川さんのアイデアも、待ってるわね」
本音としては、個人的に願い下げだった。だが、拒む正当な理由が見つからず――却って大袈裟に頷いてしまったと、京香は後になって思った。不自然だったかもしれない。
いや、そもそも凉の確認も無く、独断で許可をして良かったのだろうかと疑問が浮かんだ。
とはいえ、表情がパッと明るくなる昭子に、今更何も言えなかった。もしも凉に何か事情があったのなら、謝るつもりだ。
「ありがとうございます! あたし、頑張ります!」
力強く頷く様は、やる気に満ち溢れている。新規卒業の新入社員らしいフレッシュさを、京香は感じた。実に良い感触だ。しかし――
「あたし今度は、あんな派遣に負けませんから……。妙泉部長に、必ずあたしの案を取らせてみせますから……」
昭子の瞳は笑っていないどころか、濁っている。そして、低い抑揚の声から執念じみたものを、京香は恐怖として感じた。
そう。この新入社員は、スティックケーキで一度『敗北』を味わっている。フレッシュさなど、実際はもう持ち合わせていないのかもしれない。
コンペティションで悔しい思いをする課員を、京香はこれまで何度も見てきた。だが、特定の個人を目の敵にして確執を抱く者は、昭子が初めてだった。まさに異常だと言える。
「ということで、待っていてくださいね! 妙泉部長のこと、世界で一番愛してますよ!」
「ええ……」
幼い子供のように無邪気な笑みを向けられ、京香は思わず反射的に相槌を打った。
それを確かめたからだろうか。昭子が満足げに、手洗いを出ていく。
ひとり取り残された京香は、ようやく肩の力が抜けるが――なんだか釈然としない気分だった。
*
八月二十三日、金曜日。
午後七時半、工場から帰宅した京香は自宅のリビングで寛いでいた。ハイボールを飲みながら、ソファーで携帯電話を触っていた。
今日もまだ残暑が厳しかったため、強炭酸で割ったハイボールは美味しかった。ウイスキーを少なくし、飲みやすくしている。
キッチンから、何やら香ばしい匂いが漂ってくる。
「ねぇ。あんた学生だった時は、セーラー服かブレザーどっちだった?」
京香は携帯電話に目を落としたまま、キッチンで料理している小柴瑠璃に訊ねた。
「中学も高校もセーラー服でしたけど……なんですか? いきなり」
瑠璃が呆れながらも答えるものの、どこか警戒した様子だった。
察しが良いと京香は思いながら、ハイボールを飲み干した。そして、空になったグラスを手に、ソファーを立ち上がった。
「ブレザー着てみたくない?」
氷を求めてキッチンへ向かうと、エプロン姿の瑠璃に携帯電話の画面を見せた。京香は、コスプレ衣装の通販サイトを眺めていたのだった。
「……結構です。重々にお断りします」
「それじゃあ、注文しておくわね」
「なんでそうなるんですか!」
恥しそうに声を荒らげる瑠璃に、京香は微笑んだ。純粋に『所有物』のブレザー姿を見てみたいため、拒否権を与えない。
「ちなみにですけど……ママはどっちだったんですか?」
「私? ブレザーだったけど?」
「でも、ママのセーラー服は……」
「あんたねぇ、そこは見たいって言いなさいよ! 絶対に着ないけど!」
瑠璃から無言で憐れみの目を向けられ、次は京香が声を荒らげた。
軽い酩酊状態であるため――京香としては、いつもの調子で振る舞っていた。楽しい週末だ。
しかし、瑠璃からは楽しさを窺えなかった。どこか小難しい表情で、料理していた。
京香が初めて見る表情ではない。
「なに? まだ仕事のこと、考えてるの?」
オフィスや試作室で、ここ何日かずっと見てきた表情だ。
折角の休日だというのに、瑠璃はまだコンペティションの緊張感を携えている。
京香は部長として嬉しいが――ひとりの女性としては、仕事外では構って欲しかった。
瑠璃の頬を、人差し指で突く。唇のピアスホールが、目に映った。
「すいません。焦がしたりは、しませんから」
塩コショウを振った骨付きの豚肉が、フライパンで焼かれていた。料理のことを心配されていると、瑠璃は思っているのだろう。
京香はグラスを置くと、背後からそっと瑠璃を抱きしめた。
「仕事なんて、適当でいいわよ」
上司として――否、人間として、間違ったことを述べている自覚があった。それでも、京香は過去よりそのような姿勢なのだ。
「そうはいきませんよ。チャンスを無駄にしたくありませんし……それに、負けたくありません」
振り返った瑠璃から、真剣な眼差しを向けられる。
最近では『ぁぉU』の気だるい目を見る方が珍しくなったと、京香はふと気づいた。
「ていうか、そういうこと言わないでください。なんやかんやで仕事こなしてるママが……カッコいいんですから……」
瑠璃は恥しそうに視線を反らし、呟くように漏らす。
世辞ではなく、明らかに本心だ。このようなことを言われては、京香は脅迫してでも従わせる気にはなれなかった。
「わかったわ。焦がさないように、注意なさい」
こちらの本心は、伏せた。京香は瑠璃を離すと、冷蔵庫から氷を取ってソファーへと戻った。
今はまだ、もう少し――せめて料理が完成するまでは、見守ることにした。
三十分ほどすると、料理が完成した。
ダイニングテーブルに置かれたのは、スペアリブだった。フライパンで軽く煮込んだだけだが、京香が口にすると、味がしっかり染み込んでいた。フルーティーなウイスキーとの相性が良かった。
「それで……勝算はあるの?」
京香は仕事の話をしたくなかったが、避けられそうにもないので、この際訊ねた。
負けたくないというのは、課員全員に対してだと捉えた。昭子のことは、敢えて触れなかった。
「まあ、あるにはあります」
スペアリブを食べながら、瑠璃が答える。
京香は驚くものの、どこか歯切れの悪い様子が引っかかった。
「なら、しっかり仕上げなさい」
いくら案があれど、コンペティションで勝ち抜くためには他者を説得しなければならない。おそらく、その段階で足踏みしているのだと察した。
スティックケーキのハチミツりんごフレーバーは結局、現在も京香の案となっている。だが、今回は小柴瑠璃として『正式なかたち』で提出しなければならない。
瑠璃には伏せているが、京香は今回も彼女を贔屓するつもりだ。それでも、限度はあるため――ある程度は優れていなければ、手を出せない。
そこまでは上がってくると、瑠璃を信じていた。
ふと、京香の正面に座っている瑠璃が、ナイフとフォークを置いた。
素っ気ない瞳で、京香を見上げる。
「ママ……明日、デートしませんか? ちょっと行きたいところがあるんですけど……」




