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アナタはわたしの手の中  作者: 未田
第16章『食べ歩き』
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第46話

 八月二十日、火曜日。

 京香は自動車の助手席に座っていた。カーナビゲーションに表示されている時刻は、午後二時過ぎだった。


「はぁ」


 つい、溜め息が漏れる。ひどく陰鬱な気分なのは、大型連休が明けて間もないこともあるが――それだけではない。


「やっぱり……な感じだったね」


 運転席には、京香の妹である妙泉円香が座っていた。

 この『結果』が事前にわかりきっていたようで、声の抑揚は特に沈んでいなかった。

 京香としても、予想通りだった。だが、駄目元であっても一筋の希望だったため、残念に感じていた。


「まあ、元気出しなよ」

「あんたね……他人事だと思って……」

「そんなことないよ」


 円香の朗らかな声には、説得力が無い。しかし、今日こうして同行したのは事実だ。円香からの誘いであり、少なからず協力的なのは確かだろう。

 姉妹のドライブではなかった。『商品開発』と『営業』の人間として、得意先である材料仕入先へ、値下げの交渉へ伺ってきたのだった。

 妙泉製菓では小麦粉を大量に購入している。だが、最近で二度も値上がった。老舗故に妙泉製菓の商品はまだ値上げを踏み留まっているため、割と痛手だった。

 フィナンシェのコストカットのためだけではない。会社としても、純粋に値下げを望んだ。

 円香が、小麦粉の年間使用量を試算し、仕入量の確約を併せてプレゼンテーションを行った。京香は、品質と使用感が共に良いことを説いた。

 しかし、今日のところは検討留まりで終わり――京香の感触は、あまり良くなかった。『妙泉の姉妹ふたり』が直々に頭を下げたが、おそらく頷かれないだろう。

 結果としては、徒労に終わりそうだ。

 京香はシートを少し倒し、だらしなく座った。


「なんかもう、割と詰んだわ」

「えー。帰ったら、案外何とかなってるんじゃない?」

「どんだけめでたいのよ……」


 開発一課では、材料のグレードを落とした試作を、今日も続けている。

 やはりほとんどが、味も落ちる。だが、組み合わせ次第では――誤魔化せるかもしれない。結局は、試行錯誤するしかない。

 とはいえ、現状はそれに望みを賭けるしかなかった。実に非合理的だと、京香は思う。


「フレーバーの方は、どう?」

「まあ、ぼちぼち……。ていうか、先に材料(ベース)が決まらないと、本格的に進められないわよ」


 フィナンシェの新しいフレーバーについては、現在アイデアのみ募っていた。フレーバーの試作も平行して行い、良い結果を得られたとしても――もし材料のグレードが下がった途端に相性が悪くなっては、意味が無い。


「それもそうだね」


 京香はふと、横目で円香を見る。微笑みながら、運転していた。

 円香と会うのは、大型連休中に帰省して以来だった。実家に帰った際、ふたりきりで話したことを、京香は今になって思い出した。

 円香は興信所を利用し、小柴瑠璃の素性を調べ上げていた。

 常識から外れた行為に京香は今でも驚くが、それだけならまだ構わない。

 結局のところ――瑠璃との関係を円香に知られているのか否か、それが問題だ。


「ねぇ。あんたさ……」

「なに? どうかした?」

「ううん……。何でもない」


 しかし、訊ねるわけにもいかなかった。

 いや、もしも知っているならば、何らかの注意をしてくるはずだ。黙って見過ごすはずがない。それが無いということは、つまり――そのように、京香は楽観的に考えた。


「そうそう。フィナンシェとは別件なんだけどさ……姉さんに、見せたいものがあるんだよね」

「は?」


 別件という言葉から、仕事の話だと京香は察した。ただでさえフィナンシェで手一杯の現状だというのに、さらに何かを押し付けようとしている。悪い冗談だと、京香は思った。


「また今度、連れて行くよ。気に入るんじゃないかなー」


 円香は運転しながら、明るい声で語った。

 だが京香には、悪意にしか聞こえなかった。


「そろそろあんたのこと、工場に出禁にしようかと思ってるんだけど……私の権限で」

「えー、なんでさ。まあ、楽しみにしておいてね」


 ただでさえ憂鬱なところへ拍車がかかり、京香はいっそこのまま帰宅したいと思った。だが、強制的に工場へと連行されていた。

 フロントガラスから差し込む日差しは、まだ強い。暑くて気だるい季節は、まだしばらく続きそうだった。



   *



 午後三時過ぎ、京香は帰社した。

 今日はもう何もする気になれない気分で、開発一課のオフィスに戻るが――オフィスが何やら騒がしいことに気づいた。休憩時間の延長で、何かくだらないことで騒いでいるのだろうと思った。


「戻ったわよ。どうしたの? 何かあった?」

「京香部長! やりましたよ!」


 いつも落ち着いている三上凉が、いつになく興奮気味だった。

 凉だけではない。現場実習で不在の両川昭子を除き、皆がそれぞれ凉の机を取り囲むように立ち、とても喜んでいるようだった。ただ事ではないと、京香は察する。


「食べてみてください」


 小柄な、全身白い作業着姿の課員――小柴瑠璃が凉の机から皿を取り、京香に向けた。

 帽子とマスクの隙間から、京香は瑠璃の瞳しか見えない。しかし、その明るい瞳から確かな手応えが伝わった。

 皿にはフィナンシェが置かれていた。何の変哲も無いものだ。

 だが京香は、まさかと思い手に取った。口に運ぶと――過去より数え切れないほど食べてきた、主力商品の『いつもの味』が広がった。


「……当てたのね?」


 味は変わらなくてもいい。否、変わってはいけないことが目標だった。

 京香はフィナンシェを飲み込むと、緊張の面持ちで周りを見渡した。皆が力強く頷いた。


「え? ほんとに?」


 とても信じられないが、頬がとても緩んでいることを京香は自覚した。

 少なくとも、この味は紛れもなく『本物』だ。市場に出回っている従来品と、遜色無いと言える。


「本当ですよ」


 凉が京香に、試作シートを手渡す。

 小麦粉と砂糖のみ従来から変更されていることを、京香は理解した。具体的な数字はわからないが、少なくとも従来品からグレードと共に仕入額も落ちているはずだ。

 そう。目標であった、味を維持したままのコストカットに成功した。


「皆、よく頑張ったわね」


 開発一課総出で取り組んでいたため、自然と全員を褒め称えた。

 京香は『購入可能なグレードダウン材料のリスト』を見た時、立ち眩みした。あまりに多いため、試作を片っ端からこなすにしても、組み合わせが途方も無い。そもそも『正解』が存在するのかすら不確かな中、もっと時間を要すると思っていた。

 他にも『正解』の組み合わせが存在するのかもしれないが、こうしてひとまずは辿り着いたのだ。京香はまるで、宝くじの一等を当てたような気分だった。幸運としか言えない。

 いや、偶然だけでここまで――この短期間で、たどり着けるのだろうか。


「小麦粉と砂糖に絞ったのは、課長の指示です」


 瑠璃の言葉に、京香は納得した。確かに、闇雲に動くよりは、方向性を定めた方がいい。バター、卵白、アーモンドパウダーはグレードと味の変化が顕著であるため、まずはその二種だ。


「そこから成分の計算してくれたのは、小柴さんをはじめ……皆だよ」


 凉は照れくさそうに、周りを見渡した。

 闇雲どころか合理的な結果なのだと、京香は理解した。『偶然』の要素が全く無いわけではないが、可能な限り『必然』で詰めたのだ。


「ええ、皆のお陰よ。ありがとう」


 特定の誰かを贔屓することなく、京香は『開発一課』としての功績とした。


「ちょうどいいわ。営業が、年間使用量の試算出してくれてるから……調達可能か、一応確かめてくれる?」

「わかりました。資料、送ってください」

「それと、稟議の書類も……もう平行して作ってちょうだい」

「了解です」


 京香は適当な課員達に振った。念のため実現可能かを確認すべきだが、もう決定したかのようだった。頬が緩みっぱなしだった。

 仮に難色を示されたなら、円香と共に出向くつもりだ。


「いやー、今日はめでたい日ね。……それもこれも、私が不在だったかしらねー」


 とても嬉しいが、京香は出遅れた身として自虐した。冗談半分だが――残りの半分は、自分が居ない方が上手く回るのでないかという本心だ。

 課員一同が失笑する。

 何はともあれ、難題のひとつが意外と呆気なく片付いた。もうひとつも案外何とかなるかもしれないと、京香に微かな希望が芽生えた。

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