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アナタはわたしの手の中  作者: 未田
第15章『素性』
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第45話

 八月十四日、水曜日。

 大型連休の中日だからか、高速道路は特に混んでいなかった。京香は午後十時過ぎに、一般道へと下りた。

 一泊の帰省を終え『地元』へと帰ってきた。京香は心身共に休まったどころか――やはり、ひどく疲弊していた。

 まだ経営側に就かず、工場の部長職で遊んでいること。婚約者が居るにも関わらず、結婚の話が一向に進んでいないこと。思っていた通り、妙泉家の長女としての怠惰な現状を、親族からこっ酷く突かれた。


「知らないわよ……」


 京香はハンドルを握りながら、他に誰も居ない車内で呟く。続いて、溜め息も漏れた。

 今夜は帰宅して、風呂に入って、酔い潰れるまで酒を飲んで、連休の残りでなんとか精神を回復させる――だらしない計画を頭の中で立てるが、一度白紙に戻した。

 きっと、そうしたところで沈んだ気分は浮かばないだろう。今必要なのは、それではなくて――

 京香はふと思い立ち、ハンドルを切った。帰路から外れた道を、走った。

 やがて、とあるコンビニの駐車場に入る。エンジンを切るが、自動車から降りることなく、鞄から携帯電話を取り出した。

 電話をかけた。長いコール音の後、ようやく繋がった。


『もしもし? お疲れさまです――て言うのも、変ですね。どうしたんですか? ママ』


 小柴瑠璃の素っ気ない声が聞こえ、京香は思わず苦笑した。たった数日振りだが、とても懐かしく感じた。

 純粋に、瑠璃の声を聞きたかった。そして、用件もあるため電話したのであった。


「ねぇ。今から行ってもいい?」


 それだけを訊ねる。前後に脈絡(ことば)は無く、突発的だと京香は自覚していた。


『え……』


 現に、瑠璃は困った様子だった。

 彼女の立場であれば、きっと同じ反応をしていたことだろう――京香の思考は、そこまでだった。少なくともこの時、命令を下せる『所有物(あいて)』だと認知していなかった。むしろ、拒まれる可能性に怯えていた。


『まあ、いいですよ……』


 瑠璃の声は、渋々といった様子ではなかった。

 それどころか、なんだか照れているように聞こえ――京香は小さく笑った。


「ありがとう」


 携帯電話を切り、自動車を降りた。

 コンビニの店内に入る。酒、チーズ、スナック菓子、チョコレート菓子、アイスクリームでカゴを埋めた。京香は、とても三十代の買い物ではないと思った。だが、羞恥も無くレジを通した。

 重いビニール袋を手に、自動車に乗り込む。そして、近くのコインパーキングまで走ると、自動車を置いた。

 夜空には沢山の星が浮かんでいた。深夜にも関わらず蒸し暑く、額に汗が浮かんだ。少し歩いて向かった先は、古びたアパートだった。

 京香は二階に上がり、インターホン――というより扉の横にあるブザーを鳴らした。


「こんばんは」


 扉が開き、瑠璃がひょっこりと顔を出した。

 ピアスを外した顔を、京香は見慣れていた。だが、風呂上がりなのか、ヘアバンド姿は新鮮だった。


「悪いわね」

「いいですよ、別に。暇してましたから……」


 京香は瑠璃から部屋に上げられた。

 この部屋を訪れたのは、大雨で瑠璃を送り届けて以来、二度目だった。一足しかなかったスリッパが、今は二足あった。

 リビングは冷房が効いて涼しいが、ベランダに置かれた室外機がうるさかった。

 狭い空間には相変わらず物が少ない。しかし、テーブルには――図書館で借りてきたのか、背表紙にバーコードが貼られた本がいくつか積まれていた。どれも、商品開発に関するものだ。それらと併せ、テーブルにはルーズリーフと筆記具が広げられている。

 たったそれだけで、部屋の印象が随分変わったように京香は感じた。


「なにコンビニで爆買いしてるんですか」


 京香が握っているビニール袋に、瑠璃が半眼を向ける。


「とりあえず、お酒とアイスは冷やしておいてくれない?」

「お酒って……泊まる気満々じゃないですか」

「当たり前じゃない。お盆休みなんだし」

「ワケわかりませんよ」


 文句を言いながらも、瑠璃はビニール袋を受け取って冷蔵庫へと向かった。

 やはり風呂上がりのようで、清潔感のある良い匂いが京香の鼻についた。

 瑠璃はTシャツとショートパンツといった格好だった。

 部屋着としては、何もおかしくない。だが、かつてのスウェット姿を彷彿とさせるルーズな格好に感じ、京香はなんだか懐かしさを覚えた。

 自然と、ベッドに腰掛けた。


「それで……どうしたんですか?」


 戻ってきた瑠璃が隣に座り、京香を見上げる。

 いくら大型連休とはいえ、深夜に突然の訪問は疑問なのだと、京香は思った。


 ――心折れそうになったら、いつでも呼んでください。


 墓参りに同行した日のことを、今でも覚えていた。呼ぶのではなく訪れたが、京香は瑠璃の言葉に従ったまでだ。

 そう。今回の帰省で、心が折れそうになっていた。だから、瑠璃に縋る。

 しかし、十一も歳が離れ、かつ最近まで派遣社員だった『所有物』に弱さを晒すことは、京香の矜持が許さなかった。

 それでも、瑠璃はどこか不安げな瞳で見上げていた。小柄な存在でも、受け入れようとしていた。

 どれだけ格好悪くても、構わない――京香は瑠璃に、抱きついた。


「実家に帰ってきて、ボロボロなのよ……」


 瑠璃の耳元で、本音を囁く。


「なるほど……。頑張りましたね」


 瑠璃に抱き支えられながら、頭をそっと撫でられた。

 まるで、母親が幼い子供を諭すかのような――優しさを、京香は感じた。

 自己肯定感もままならない『弱者』から肯定されるなど、実に滑稽だ。それでも今は素直に嬉しく、とてもたくましかった。

 京香は脱力気味に、ベッドに倒れ込んだ。瑠璃の太ももに頭を置き、見上げた。

 この構図に既視感があった。そうだ――あの時も仕事(かぞく)絡みで嫌なことがあり、瑠璃に怒鳴り散らしたことを、京香は思い出した。

 泣かせたうえに無理やり慰めさせたが、今は違う。逆光の中、瑠璃の微笑む表情が見えた。


「私もう、頑張れない。長女なんて、嫌よ。妙泉家(いえ)のことも会社のことも、もうどうでもいいわ……」


 京香は自棄気味に、ありったけの弱音を吐いた。円香はおろか、親族の誰にも言えない内容だ。


「何言ってるんですか。ママは……部長としても、次の社長としても、よくやってます」


 適当な、慰めの言葉なのかもしれない。しかし、瑠璃が正社員の部下として働いている以上、京香には説得力があった。少なからず、オフィスでの姿を見られている。

 いや、むしろ照れる。


「そんなことないわ……。私、何も出来ないもの」


 照れ隠しのつもりで、否定した。鬱陶しい子供のようだと自覚していた。

 そんな京香に、瑠璃は首を横に振る。


「なんやかんや言いつつも、ママは仕事としっかり向き合って、部署(チーム)を取りまとめてるじゃないですか」


 京香の欲しい言葉だった。

 部長職が身の丈に合っていないと感じているからこそ、親族から突かれると図星となる。だから、それを最も肯定されたかった。


「わたしは、そんなカッコいいママが……好きですよ」


 瑠璃が恥しそうに漏らし、京香は少し驚いた。

 だが、愛するというより肯定の意味合いだと、すぐに理解した。


「ありがとう……」


 京香は仰向けになったまま手を伸ばし、瑠璃の唇に触れた。ピアスホールの引っ掛かりこそあるが、柔らかい。

 酔った勢いだったとはいえ、瑠璃からこの唇を重ねられたのだ。

 今もう一度、キスがしたい。京香はそう思うが、やはり自分から『一線』を超えられなかった。

 悶々とした気持ちを落ち着かせようとしていると――ふと、この女性が『パティシエの娘』だということを思い出した。

 京香は以前から、瑠璃に親近感を覚えていた。今でこそ瑠璃は変わろうとしているが、何に対しても気だるいところは、似ていると思っていた。

 しかし、似ているのはそれだけでなかった。

 瑠璃もまた『菓子屋の娘』だったのだ。今になり、同じ立場だったことに京香は気づいた。

 もしも、彼女の両親が存命していたなら――瑠璃はパティシエとして『小柴菓子工房』を継いでいただろうか。両親に言われるまでもなく、積極的に家業と向き合っていただろうか。

 京香は考えるも、わからない。だが、そうであって欲しいと願う。

 もう叶うことは絶対に無いのだから。可能性は不幸にも潰え、瑠璃は『弱者』に成ったのだから。

 ただ、何にしても――


「ねえ」


 どうして、家族のことを話してくれなかったの? 私と同じ立場だって知ってたんでしょ?

 そう訊ねられるわけもなく、京香は口を閉じた。

 本音としては、円香からではなく、瑠璃の口から素性を知りたかった。

 信頼されていないのだろうか――しかし『ママ活』の距離としては今が適正に近いと、納得している。

 そう。本来はキスはおろか、踏み込んだ話も避けるべき関係だ。


「なんでもないわ……」


 京香が起き上がると、瑠璃はベッドから立ち上がった。


「そろそろ飲みませんか? わたし、アイス食べたいです」

「ええ。とことん付き合って貰うわよ」


 冷蔵庫へと向かう瑠璃を見送りながら、深く考えるのはやめようと、京香は思った。

 しかし、テーブルに広げられた勉強跡が、どうしても視界に入るのであった。

第15章『素性』 完


次回 第16章『食べ歩き』

開発一課はフィナンシェのコストカットに取り組む。

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