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アナタはわたしの手の中  作者: 未田
第14章『キスマーク』
42/90

第42話

 瑠璃により、ソファーへ仰向けに押し倒された京香の唇に――柔らかく、温かな感触が伝わる。

 制汗剤の匂いの奥に、ほんのりと汗を感じる。天井の灯りが、影に遮られている。京香は状況がわからなかった。

 頬がくすぐったい。束ねた瑠璃の髪が垂れ、触れている。

 そして、キスされているのだと、ようやく理解した。

 突然の行動に、京香は困惑した。しかし、脳は身体に撥ね退ける信号を送らなかった。とはいえ受け入れている自覚も無く、瞳が大きく見開いた。

 やがて、京香の視界が明るくなる。影が離れた。

 逆光の中、瑠璃のとろんとした瞳が見えた。明らかに酩酊によるものだが――京香にはなんだか、怯えているように感じた。


「どうして……」


 京香は落ち着くと同時、複雑な感情が込み上げた。瑠璃を、不安な目で見上げた。

 これまで瑠璃と何度も素肌を重ねてきたが、唇を重ねることはなかった。京香は瑠璃と、そのような取り決めを交わしたわけではない。ただ、少なくとも京香は『ママ活』に於いて『暗黙の了解』としていた。あくまでもそのような関係だと、誇示するためだ。実際、これまでは『一線』を超える素振りすらなかった。

 だから、瑠璃の行動にはとても驚いた。

 せめて雰囲気での延長なら、また違ったのかもしれない。酔った勢いで乱暴気味に唇を奪われるとは、思いもしなかった。

 いや、もしもキスの機会があるならば――きっと唇を奪う側だと、京香は思っていたのだ。


「ママは、わたしだけの所有者(モノ)です……。他の誰にも渡しません」


 京香には、言葉の意味がわからなかった。酔っ払いの戯言のように聞こえた。

 しかし瑠璃が再び顔を近づけ、二度目のキスをされた。

 さらに今度は、舌を口内に入れられた。乱暴に動くそれは確かに熱を帯び――瑠璃という人間の意思を、京香は感じた。ぴちゃぴちゃと、小さな音が耳に届く。

 ひとしきり愉しんだのか、瑠璃が再び顔を離した。

 京香は逆光の中、細い光が見えた。瑠璃の唇から伸びている糸状のそれは、きっと自分の唇と繋がっているのだろうと思った。


「いいですか? わたしこれから、ママ――アナタみたいなクソビッチを、無茶苦茶に犯します。ムカついてるんで」


 淡々とした、素っ気ない声での宣言だった。

 京香は確かな怒りを感じる。だが気圧され、抗えなかった。

 ブラウスのボタンを、乱暴に外された。ベージュのブラジャー越しに、痛いほど強く乳房を掴まれる。性的快感には程遠い。


「いやっ」


 京香は抵抗の声を上げるも、瑠璃を制止できなかった。

 聞く耳を持たない様子の瑠璃から、首にキスをされた。そして、首筋を舌が這い――強く吸われた。まるで、幼い子供から貪欲に求められるかのように。


「だめ!」


 痛みだけでない。明らかに痕跡(あと)が残るものだ。

 しかし、京香は本気で抵抗しなかった。それもまた一興だと思ったのだ。

 いつもは、自分が先導していた。瑠璃から攻められたことは、初めてだった。どれほど乱暴でも、構わない。自らの『所有物』に舐められた態度を取られているとは思わない。

 瑠璃の意思(きもち)が垣間見える。強く求められることが、悪くなかった。


 京香はようやく、瑠璃を受け入れようとした。夕飯やシャワーなど、最早どうでもよかった。

 だが、瑠璃の手がタイトスカートに伸びたところで――京香は瑠璃に圧し掛かられた。瑠璃の全体重が掛かり、それほどではないにしろ重かった。

 京香は耳元で、瑠璃の小さな寝息が聞こえた。抵抗を無理やり押さえつけるためではない。肝心のところで、酩酊の意識が限界を迎えたのだと理解した。

 まるで、ぷつりと電池が切れたかのように。子供が遊び疲れたように。


「……は?」


 せっかく高まっていたにも関わらず、京香は一気に白けた。生殺しにされた気分だった。

 瑠璃を退ける気にもなれなかった。キッチンから、何かの焼ける音が聞こえた。


 京香は時間をかけて、やるせない気持ちを落ち着かせた。

 ようやく瑠璃を退け、ソファーに座らせると――乱れた衣服のまま立ち上がった。

 洗面所に向かい、鏡の前に立つ。


「うわぁ……」


 思っていた通り、首元には軽い内出血跡(キスマーク)があった。冬場ならまだしも、この時期の衣服ではとても隠せない。明日は『婚約者』とのデートだが、体調不良とでも伝えて断ることにした。

 京香は鏡で確かめた後、キッチンに向かった。

 ゴーヤと豚肉の炒め物だ。弱火なのか、フライパンの料理はまだ焦げていないようだった。ひとまず、コンロの火を止める。


 リビングに戻ると、ソファーでは瑠璃がまだ眠っていた。起きる気配は無い。

 京香は腕を組み、瑠璃を見下ろした。

 瑠璃の突然の行動が、当初は理解できなかった。しかし、今振り返ると――他の誰にも渡したくない、そして癪に障るといった節に、ひとつだけ心当たりがあった。

 いや、それしか考えられない。


「まったく……素直じゃないんだから」


 京香は呆れて漏らすも、眠っている瑠璃には届かない。

 あのような感情表現はある意味で素直であったと、今は思う。回りくどいだけだ。

 瑠璃の言動を許すか許せないというより――京香としては、純粋に嬉しかった。とても可愛かった。

 小さく笑い、ソファーに腰掛ける。そして、瑠璃の唇に、そっと触れた。

 上唇のピアスホールには、引っ掛かりがある。それでも、柔らかい。


「ばか……」


 この唇にもう一度自分のを重ねてみたい欲が、無いわけではない。

 だが、たとえ酒の力を借りたとしても自分からは到底出来ないと、京香は思った。


 その後、京香はシャワーを浴びた。

 汗を洗い流した後、フライパンの炒め物を皿に盛り付け、ハイボールのグラスと共にリビングへ運んだ。

 テレビを観ながら晩酌をしていると――隣の人影が、むくりと起き上がった。


「ん……あれ?」


 瑠璃は目を擦りながら、周りを見回した。状況把握に努めているようだ。


「……」


 眠気眼の瑠璃に、京香は半眼を向ける。そして、無言で自らの首元――内出血跡のある辺りを指さした。

 瑠璃はしばらくぼんやりと眺めた後、まるで不意な出来事に直面したかのように、驚いた様子を見せた。この場から今すぐ逃げ出しかねない勢いだったが、なんとか堪えたようだ。

 代わりに、俯いた。


「一応訊くけど……覚えてる?」


 京香の問いに、瑠璃は俯いたまま小さく頷く。

 たとえ、とぼけてでも――覚えていないことになっているなら、京香は話を切り上げるつもりだった。どちらかというと、そうなることを望んでいた。

 京香として一番の疑問は、飲酒とキスの因果だった。キスをしたいがために、あれだけ酒を飲んだのか。それとも、やけ酒の結果キスをしたのか。どちらの因果かで、京香の捉え方は大きく変わってくる。


「まあ、なんていうか……注意しなさいよ?」


 とても気になるが、訊ねられなかった。

 京香もなんだか恥ずかしくなり、瑠璃とは逆の方を向いた。

 テレビの音がうるさい。気まずい空気が漂うのを感じる。

 ここはひとまず、瑠璃にもシャワーを勧めて仕切り直すのが得策だと、京香は考えた。


「誰がなんて言おうと、私はあんただけの『ママ』だから。あの子となんて、絶対に無いわよ」


 しかし、このまま露骨に避けるのは嫌だった。

 因果を確かめなくとも――瑠璃がこのような行動に出た『原因』については、擁護しておきたい。


「心配とか不安とか、そういうのする必要無いから……。ていうか、あんた全然負けてないんだから、劣等感(コンプ)持つのいい加減やめなさい」


 京香はそう漏らし、恥ずかしいながらも横目で瑠璃を見た。

 瑠璃の顔を視認するより早く――胸部から腹部にかけてを、瑠璃に抱きつかれた。

 乱暴さは微塵も無い。むしろ京香には、縋り付くかのような、必死な態度に感じた。


「甘えん坊さんね」

「いいじゃないですか……たまには」


 不貞腐れた声が、京香の耳に届く。

 瑠璃が顔を上げないため、どのような表情なのか、やはりわからない。それでも、京香は瑠璃の頭をそっと撫でた。

 そう。まるで、幼い子供を宥めるかのように。


「ベッドの上でも積極的に甘えてきたら、可愛げあるのにね」

「……それだけは嫌です。ていうか、可愛くなくても、いいじゃないですか」


 冗談混じりで言うと、瑠璃が重い声で否定する。おかしくて、京香はつい笑ってしまった。

 すっかりいつもの調子だった。なんだか安心した。

 しかし、瑠璃が思い詰めた末での行動を『無かったこと』には出来ない。先走らせたことを、京香なりに反省した。

 自らの『所有物』を大切に扱い、そして可愛がろうと、改めて思ったのであった。

第14章『キスマーク』 完


次回 第15章『素性』

夏の大型連休に、京香は実家に帰る。

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