第41話
八月一日、木曜日。
月度が変わるも、京香の周りは特に変わらなかった。強いて言えば、外がより暑くなったぐらいだ。フィナンシェのプロジェクトも、大きな進展は無い。
両川昭子からも、何も無かった。親睦会の夜に触れられることも、再度気持ちを伝えられることも無かった。
あの夜、京香は少なからず酩酊状態だった。だから、時間が経つにつれ、より曖昧になっていく。まるで、悪い夢を忘れていくように。
だが、留まり続ける『不快感』は決して消えない。あの告白は紛れもない事実であったと、現在も揺るがない。京香は忘れたいのに、忘れられなかった。
そう。こちらの返事をきちんと伝えて昭子を傷つけない限り――きっと、片付かないのだ。
しかし、同じ部署の同僚である以上、それは出来ない。かといって、このまま放っておくことも京香が辛い。
京香の考える落とし所としては、昭子の解雇まではいかなくとも、本社の部署まで異動させることであった。だが残念なことに、それだけの事由が、良くも悪くも何ひとつ見つからなかった。
結局のところ、現在は解決への兆しすら無い。
京香の『不快感』は、もうひとつあった。
三日前、昭子との件をつい口走ってしまったが、それに対し瑠璃から素っ気ない態度を取られたことだ。正社員になったというのに、未だ卑下していることも引っかかる。
あれから瑠璃と、ふたりきりになることは無かった。明日の週末は二週間振りの『ママ活』になるが、どのような顔で瑠璃と接すればいいのか、わからなかった。考えただけで、少し憂鬱だ。いっそ、適当な理由を作って逃げたいほどであった。
いや、弱みを握って脅迫している相手から、逃げようとしているなど――実におかしな話だと自嘲しながら、京香は工場の製造現場へと向かった。
時刻は午前十時過ぎ。順番に休憩へ向かう作業者らと、すれ違う。冷房が動いているものの、機械からの熱が京香に伝わった。
やがて、クッキーの成形機の傍で――両川昭子を見つけた。幸い、今は彼女ひとりだった。京香は近づく。
「お疲れさま、両川さん」
「妙泉部長! お疲れさまです!」
帽子とマスクを含め、全身白色の作業着姿だが、昭子の表情がパッと明るくなった。
「研修の方、頑張ってるみたいね」
表向きは、あくまでも様子を見に来たという体裁だった。
だが実際のところは、あのふざけた告白を解決するための接触だ。ひとまず、改めて向き合うことにした。
「はい! とっても勉強になってます! それに……もうちょっとでお盆休みですから」
来週末から、夏の大型連休に突入する。社会人生活に慣れない新入社員にとっては、よりモチベーションになるだろうと、京香は納得した。
「妙泉部長は、お盆にどこか行かれるんですか?」
その質問に、京香はちょうどいいと思った。
「そうね。実家に帰って……あとは、フィアンセと旅行に行くぐらいかしら」
わざとらしく微笑んで見せる。
昭子が『婚約者』の存在を又聞きでも知っているのか、わからない。少なくとも、これまで京香の口から話したことはなかったはずだ。
京香にとって彼は、無関心だった。どちらかというと、嫌いになるだろう。そのような存在でも、昭子の手を振り解くためには、厭わなかった。
「いいですね! 楽しんできてください!」
しかし、昭子は明るく頷いた。
微塵たりとも動揺しなかったことが、京香には意外だった。異性と結婚しようが、この気持ちは別――とでも言われているように感じた。京香も『ママ活』に手を出しているため、全くわからないわけではなかった。
「まさかとは思いますけど『あの派遣』とは一緒に過ごしませんよね?」
昭子の笑みが、一瞬途切れる。
真顔での、重い抑揚の声。その質問に、京香は恐怖すら感じた。どうして瑠璃の存在が出てくるのか、疑問が浮かぶ余裕は無かった。
「……え? なんで? そんなわけないじゃない」
京香はなんとか苦笑した。動揺を隠したつもりだった。
「ですよねー」
昭子が再び、ふざけたように明るく笑う。
先ほどの質問は、冗談ではなかった。京香はそれだけを理解すると同時、自らの心臓の高まりが耳に届いていた。
「両川さんは、どこか行くのかしら?」
「あたしも実家に帰って、適当に遊びに行くぐらいですね――」
「そ、そう……。研修、頑張ってね」
妙泉部長と、デートしたいですけど。
そう付け加えられるような気がした。京香は適当に相槌を打つと、逃げるように現場を離れた。昭子から、笑顔で見送られた。
こちらから『探り』を入れるつもりが逆に『探られた』と、後になって理解した。
解決どころか、一回り近く離れている小娘に舐められた態度を取られ――京香は奥歯を噛み締めた。
*
八月二日、金曜日。
午後六時半になり、京香は仕事を終えた。工場を出て、自動車に乗る。
週末の残業は、三上凉とふたりきりだった。瑠璃がどの程度パソコンを触られるようになったのか、京香は詳しく知らないが――少なくとも最近は、苦労している様子は無かった。それが原因で残業することも無い。彼女なりに努力したのだと、京香は思う。
そのように喜ばしい一面はあるが、これからのことを考えると、やはり少し憂鬱だった。
京香は、定時で上がった瑠璃をスーパーマーケットに行かせていた。これから拾いに行くのも、いつものことだ。いつもの『ママ活』の段取りだ。
この流れが不自然ではないと、京香が思ったまでだ。
瑠璃とふたりきりになるのは、試作室で昭子のことを話して以来だった。あれが瑠璃の本心だったのか、それとも違うのか――京香はわからない。いや、違っていて欲しいと、どこかで思っている。何にしろ、顔を合わせ難いのは確かだった。
「考えすぎかな……」
京香は運転しながら、漏らした。
瑠璃自身は、軽くあしらっただけなのかもしれない。そもそも、あの出来事など忘れているかもしれない。そのように思うことにした。
スーパーマーケットの駐車場に到着すると、瑠璃に連絡を入れた。
京香は待っている間、運転席から周囲を見回していた。念のため、同僚の目が無いことを確かめた。
「お疲れさまです」
やがて、瑠璃が現れた。
黒のマスクこそ着用しているものの、白のペプラムブラウスとライムグリーンのテーパードパンツ――瑠璃の小綺麗な格好を、京香はようやく違和感なく見慣れていた。もうキャップを被ることがなければ、鞄もウサギのリュックサックでなくトートバッグを肩にかけている。そして、食材の入っているであろうエコバッグを握っていた。
「お待たせ。それじゃあ、行きましょ」
「はい」
瑠璃を助手席に乗せると、京香はすぐに自動車を出した。
時刻は午後六時五十分。まだ蒸し暑いが、ようやく陽が落ち、暗くなってきた頃だった。
そんな中――車内での会話は特に無かった。
京香は何も話を切り出せなかった。居心地の悪さを感じるが、フロントガラス越しに前方だけを見て運転した。
午後七時過ぎ、タワーマンションに到着した。
エレベーターでふたりきりになるも、やはり互いに無言だった。瑠璃がどのような表情をしているのか、京香は敢えて見なかった。
自宅の扉を開けた時、ようやくたどり着いたように感じた。スーパーマーケットから、なんだかとても長かった。
京香がリビングの冷房を動かす一方で、瑠璃はウサギのエプロンを纏い、髪を束ねた。いつからか、エプロンはキッチンに置きっ放しにしている。
「すいません。わたしも飲んでいいですか?」
帰宅して早々、京香は冷たいハイボールを飲もうと、冷蔵庫からグラスに氷を入れていた。その傍らで、瑠璃がぽつりと訊ねた。
このように酒を強請るのはとても珍しいと、京香は思った。それも、料理を始める直前にだ。
訊ねると、とある料理研究家の動画を観て、酒を飲みながらの料理を真似したいらしい。
「いいわよ。今日も暑かったしね」
京香は頷き、二杯のハイボールを作った。久々の会話のように感じ、少し戸惑ったが。
ひとつを渡すと、ひとつを手にリビングへ向かう。テレビを点けてソファーに座るも――なんだか落ち着かなかった。
包丁で何かを切る音が、京香の不安を煽る。何気なく酒を与えたが、飲酒での料理は危険だと後になって気づく。しかし、注意すら出来ないほど気まずかった。
やがて、何かを焼く音と共に、何やら香ばしい匂いが漂ってきた時だった。
「おかわりください」
空になったグラスに氷を入れ、瑠璃がウイスキーを取りにリビングでへやって来た。
「大丈夫? 酔ってない?」
「はい。全然シラフです」
このタイミングで京香は訊ねるが、言葉通り酩酊の様子は無かった。
不安は残るものの、瑠璃を信じてウイスキーを注いだ。
その後も瑠璃は三杯目、そして四杯目のハイボールを飲もうとした。
料理はまだ未完成だ。京香はまだ一杯目も飲みきっていない。それほど早いペースだった。
「あんたね、流石にこのへんでやめておきなさい」
五杯目を求める瑠璃は紅潮し、足元が覚束ない。
酩酊であることは一目瞭然であり、料理外であっても京香は止めていた。ここまで飲ませたことに、責任を感じた。
「だいじょうぶですよ……」
「そんなわけないでしょ。大体、どうしたのよ今日は」
瑠璃らしくない行動だと、京香は思った。まるで『やけ酒』だ。
ふたつのグラスを一度テーブルに置き、心配そうに瑠璃を見上げた。天井からの逆光の中、佇む瑠璃のとろんとした瞳が見えた。
「ママ――」
その声と共に、瑠璃がソファーに倒れ込んだ。ぶつかられ、京香も倒れる。
いや、これは意図的な行動だと京香は確信した。わざとらしく覆い被されたことから――瑠璃に押し倒されたのであった。
あまりに突然であり、京香はそれだけしか状況を理解できなかった。退けることも出来ず、困惑した。
瑠璃の小さな影に、天井の灯りが遮られる。
そして京香は――唇に柔らかな感触が伝わったのを感じた。




