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アナタはわたしの手の中  作者: 未田
第14章『キスマーク』
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第40話

 七月二十九日、月曜日。

 京香はいつも通り、午前八時過ぎに出社した。自動車通勤でも、今日も朝から暑さを感じていた。通勤途中のコンビニで購入した、ペットボトルのミネラルウォーターを一口飲んだ。


「おはようございます、京香部長」

「おはよう……」


 部長席で課員達と挨拶を交わしながら、オフィスを見渡す。

 瑠璃も既に出社していた。自分の席でノートパソコンを開け、この時間から何やら仕事をしているようだった。

 そんな彼女に課員達が近づくと、瑠璃はペコペコと頭を下げた。

 課員達の様子から、謝罪ではなく感謝の意であると、京香は察した。それに、先週までと比べ、瑠璃の表情が少し柔らかくなっている。

 先週末、無事に『歓迎』されたのだと察した。京香は途中で離れたが、歓迎会の趣旨通り、同僚達との親睦を深めたようだ。

 それが微笑ましい反面――京香はとても憂鬱だった。脱力気味に項垂れる。

 いつになく、休みたい月曜日だった。部長という立場上、なんとか出社したが。

 歓迎会であの後、凉がどのように擁護してくれたのか、わからない。何にせよ、逃げるように途中で離れたことを、課員達に謝らなければならない。

 いや、それよりも――


「おはようございます、妙泉部長!」


 明るい挨拶に、京香は顔を上げた。

 カシスブラウンのショートボブヘアの若い女性、両川昭子が笑みを浮かべていた。


「お、おはよう……」


 京香はなんとか笑みを作る。

 昭子とは、約三日振りの再会だった。戸惑うどころか元気な姿は、いつもと何ら変わらない。

 そう。まるで、あの夜に何事も無かったかのように。


「先週は、ありがとうございました」


 しかし、歓迎会には触れられ――京香は警戒した。


「あれから、ちゃんと帰れたかしら?」

「はい、お陰様で……」

「酔い潰れるまで飲んじゃダメよ?」

「そうですね。気をつけます」


 昭子は苦笑し、自分の席へと離れていった。

 当たり障りの無い会話は間違っていなかったと、京香は思う。

 少なくともこちらから、決して『それ』に触れてはいけない。記憶から抹消したい。無かった事として扱わなければいけない。

 とはいえ、そのように思っている時点で――沼から抜け出せないのであった。



   *



「あたしのは……ライクじゃなくて、ラブの方です」


 飲み屋街の灯りが照らす昭子の表情は、とても落ち着いていた。

 酩酊は演技だった。だからこれも冗談ではないと、京香は改めて察した。真剣な愛情だ。

 商品開発部の部長として働いている中で、昭子から愛情の告白を全く想定していなかった。

 しかし、一切の迷い無く気持ちが反応した。苦手な人間から向けられる好意ほど、不快なものは無い。


「……」


 とはいえ、口にしてはいけないことを理解していた。

 同じ会社に勤める、同じ部署の上司と部下だ。ここで一個人を否定すれば、今後の仕事に支障をきたすことは明白だった。それだけは、避けねばならない。

 実に理不尽だと、京香は思う。

 同僚に恋心を抱いたとしても、普通は伝えず秘めておくだろう。だが、昭子からその『一線』を超えられた。自分は間違いなく被害者だと言える。

 それでも、上司である京香が拒み、それが原因で昭子が退職となったならば――周りから責められるのは、京香になる。

 だから、肯定しないのであれば否定もしない。そもそも触れないことが『正解』だと、京香は考えた。


「帰りましょうか……」


 京香は昭子に背中を向け、駅へと歩き出した。

 無視するにしても露骨だったと思う。いや、下手に『可能性』を与えてはいけない。触れないにしろ、あしらった方がいい。よほど空気を読めない人間でなければ、察するはずだ。

 だが、昭子は早足で京香の前に出た。


「あたし……妙泉部長のこと、絶対に手に入れますから!」


 そして、それだけを宣言すると、駅へと消えていった。こちらの気持ちを受け入れるつもりは無いようだ。

 京香は、一方的に想いを告げられた。


「はぁ……」


 自分勝手な昭子に苛立つだけでなく、京香はフラストレーションが溜まるのを感じた。

 返事を出来ないことが苦しい。きっと、これからも留まり続けるだろう。



   *



 あの夜から三日経てど、京香に重く圧し掛かるものは消えなかった。それどころか、時間が経つにつれ、より重くなったように感じた。プライバシーの観点から誰にも相談できないこともまた、原因のひとつだろう。

 午前十一時、京香は手洗いのためオフィスを出た。済ませると、ふと試作室に立ち寄った。

 狭い部屋では瑠璃がひとり、黙々と試作業務をこなしていた。

 京香にとって、いつもの光景――ではなかった。帽子とマスクの間から覗く瞳は、気だるくない。むしろ活き活きしていることから、仕事への熱気を感じた。

 試作業務自体は、派遣社員だった頃から何ら変わらない。だが、瑠璃の姿勢は良い方へ変化していた。


「お疲れさま」

「あっ、お疲れさまです」


 京香が近づくも、瑠璃の手は止まらなかった。


「歓迎会、楽しかった?」

「はい、とっても。ありがとうございました」


 瑠璃は作業をしながらも、ぺこりと頭を下げる。

 会費の合計、その半分を京香が出した。瑠璃の参加費も含まれているが、おそらく五千円ほどだろう。

 微々たる額なのに――彼女の様子から、本当に楽しんだのだと京香は感じる。きっと、金銭で推し測れないものを得たのだ。


「バーベキュー、美味しかったわね」

「そうですけど……。ママ――じゃなかった、京香部長は途中で消えちゃったじゃないですか」


 先週末は瑠璃と会っていない。電話やメッセージアプリでの会話すら、交わしていない。こうしてふたりきりになるのは、雑居ビルのエレベーター以来だった。

 瑠璃は相変わらず、手を止めることなく喋っている。

 落ち着いた様子だと、京香は感じた。『ママ活』で稼げなかったことに、不満があるわけではないようだ。それどころか、他の課員達と親睦を深め、京香のことなど無関心になったのかもしれないと思った。


「ええ。両川さんと、途中で抜け出したわ」


 満面の笑みを受けべ、わざとらしく言う。

 苛立っている自覚が京香にはあった。自分らしくない態度だと思う。それでも、抑えられなかったのだ。


「らしいですね……」


 素っ気ない相槌を打たれる。

 京香は瑠璃の、そのような態度を見たかったわけではない。『所有者』が、自分以外の女性とふたりきりで居たのだ。不安や焦りなどの反応で――少しでも、興味を持って欲しい。


「気にならないの?」

「ちょっと待ってください……。何を気にすればいいんですか? あの人また、わたしの悪口でも言ってました?」


 呆れる瑠璃に、京香は会話が噛み合っていないと思った。もう少し、理解して欲しい。


「私……あの子から告白されちゃった。女性(おんな)として愛してるんですって……」


 だから、思わず口走った。

 瑠璃のことだから他言はしないと、後になって京香は思う。しかし、後悔の念が込み上げた。


「へぇ……」


 瑠璃の手が、ようやく一度止まる。だが、京香の顔を見上げることなく、すぐに作業を再開した。


「付き合うんですか?」


 それでも、流すことなく食いついた。

 ようやく興味を示され、京香は嬉しかった。


「そんなわけないじゃない。私、あの子苦手だもん。まったく……いい迷惑よ」


 詳しい状況を話せばややこしくなるので、この程度に留めておいた。

 事実であり、本心であり――そして、瑠璃を安心させる意図でもあった。


「そうなんですか……。なんか、勿体ないですね」


 しかし、瑠璃が作業を続けながら、何気なく漏らす。

 口調からは、残念そうな様子が全く無い。それでも、その言葉は京香に深々と突き刺さった。


「……どういうこと?」

「出来る新入社員(ルーキー)と部長――お似合いだと思いますけど」


 淡々とした声は、紛れもない本心に聞こえた。

 少なくとも京香はこの時――瑠璃が『ふたりが交際すれば所有物から解放される』と考えている可能性を、微塵も疑わなかった。そのような様子は、一切無かったのだ。


「そんなことないわよ……」


 京香は小声で否定すると、試作室を出た。下唇を軽く噛み、オフィスへと戻る。

 瑠璃の反応は、全くの想定外だった。

 違う。欲しかったのは――そんな言葉ではない。

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