第38話
やがて会議が終わり、参加者が席を立つ。
京香も会議室を出ようとするが――隣に座ったままの円香から腕を掴まれた。笑顔を向けられ、京香は残るよう言われていることを察した。露骨に不機嫌な表情を浮かべる。
その様子に凉が気づくも、円香は手のひらを向ける仕草で『大丈夫です』と伝えた。
凉は素直に従い、会議室を出ていった。
会議室で、京香は円香とふたりきりになった。
「何よ? 私、割りかしムカついてるんだけど……」
「うんうん、姉さんの気持ちはわかるよ。でも、しょうがないよね」
ご愁傷さまと付け加える円香は、あくまで『伝言役』だ。妹にあたっても確かに仕方ないと、京香は理解している。
経営陣である『妙泉一族』がフィナンシェのコストカットを考えている件は、以前から耳にしていた。だが、フレーバー追加の件は、京香は初耳だった。商品開発部の部長である自分を差し置き、そのように話が進んでいたことは、腹立たしい。
とはいえ、経営側の人間では無いのだから、当然とも言える。だから京香は、この無理難題が当てつけや嫌がらせと捉えた。
「で? 一応フォローしとかなきゃ、って感じ?」
「ううん、違うよ。自業自得としか思わないかな」
「あんたねぇ……」
違うのかと、京香は頭が痛くなった。会議後わざわざふたりきりになった円香の意図が、わからない。
「小柴さんの様子、どうかなって」
円香がぽつりと漏らす。
確かに、どちらかというと人目を避けての改まった話だと、京香は納得した。
瑠璃を正社員にする提案は、円香からだった。自身に責任を感じているとも、単純な興味とも、京香は捉えることが出来た。
「どうって言われても……まあ普通よ」
京香に悪気は無いが、端的に言い表すならそうなる。これまで通り与えた仕事は淡々とこなしているので、ひとまず相応の働きを見せていると評価していた。
パソコン操作や事務作業など、思わぬ『落とし穴』はあった。だが、克服する見込みであるため、また瑠璃の名誉のためにも、敢えて伏せた。
「正社員になっても、なんていうか驕らないし……それどころか向上心あるかしら。若い子って、凄いわね」
念のため、そのような事実を褒めておく。京香としても、瑠璃のそのような姿が意外であり、喜ばしかった。
今日の会議はまさに『空気』のような扱いだったが、いずれ意見を出してくると信じている。
「へぇ、よかったじゃん。折角の若い新入社員なんだから『次は』しっかり育てなよ?」
「なんか、トゲのある言い方ね……」
「気のせいじゃない?」
円香がヘラヘラと笑うが、両川昭子の言われているのは明白だった。京香は図星であるため、何も言い返せなかった。
「そういえば……近いうちに、新入社員の歓迎会やるんだって?」
だから、さり気ない円香の言葉を理解することが、ワンテンポ遅れた。
「……は? あんた、絶対に来ないでよ? 冗談じゃなくて、本当に」
どこから知り得たのかは、わからない。問い詰めたところで、吐くはずがない。いや、日時と場所まで把握しているのだろうか。
京香の思考はその詮索よりも、真っ先に拒んだ。
ただでさえ『会社の飲み会』という苦手な場に関わらず、昭子に歓迎の意を表さなければならない。そこに妹も押し寄せることを想像すると――京香にとって文字通り、地獄絵図だったのだ。
円香は典型的な営業の人間だからか、酒の場は得意というより好んでいた。その意味でも自分とは『真逆』だと、京香は感じていた。
「いやー、めちゃくちゃ行きたいんだけどねぇ……。残念ながら、その日は先約があってさー」
相変わらずヘラヘラしているが、京香はこれまでの姉妹としての付き合いから――嘘ではないと思った。本当に残念がっている様子だった。
ひとまず最悪の事態を回避し、胸を撫で下ろした。
「というわけだから、姉さんは絶対に行きなよ? もちろん、車は置いてね」
結局はこの念押しがしたかったのだと、京香は円香がふたりきりになった意図を理解した。実に回りくどいと思う。
「ええ。あんたに言われなくても、わかってるわよ」
未だに考えただけで憂鬱だが、これも部長としての仕事なのだから、逃げるわけにはいかない。
そういえば来週末かと、京香は凉が店を押さえたことを思い出した。
*
七月二十六日、金曜日。
午後五時半になり、就業のチャイムが鳴った。
営業一課のオフィスでは、課員達がたちまち立ち上がる。皆の表情はとても明るいと、京香は部長席から眺めて思った。
「お疲れさまでーす! それじゃあ、行きましょう!」
現場研修から戻ってきた両川昭子は――いつもの週末であれば疲れ切った様子だが、今日はまだ元気だった。
「それじゃあ、京香部長……私は『主役』らと先に行ってますんで、くれぐれも遅れないように、お願いしますよ」
「は、はい」
振り返った三上凉から念を押され、京香は観念した。
ふと目をやると、瑠璃はとても緊張した様子だった。周りに連れられ、オフィスを出ていく。まるで連行される容疑者のようだと、京香は思った。
去り際の瑠璃が振り返り、視線が合う。目で助けを求められるも――京香はどうすることも出来ず、ただ苦笑した。
定時で上がるのは、いつ以来だろうか。京香は最後にオフィスを出ると、そう思いながらトイレに入った。敢えて時間をずらす意図で、ここで化粧を直す。
京香は身支度を終え、工場を出た。まだこの時間でも外は明るく、蒸し暑い。日傘をさして、電車の駅へと歩いた。
今朝は電車で出勤した。まだ何時間も先だが――電車と徒歩での帰宅は、考えただけでも、とても気だるい。憂鬱さに拍車がかかった。
駅から電車に乗り、二駅先で降りた。工場から隣街になるここは、駅前にいくつもの飲食店が立ち並んでいた。特に居酒屋が多い。
「えーっと……」
京香は携帯電話を取り出し、店の名前と場所を確かめる。
駅から数分歩いた先の雑居ビル――小汚い入口に、小柴瑠璃が佇んでいた。黒いマスクを着けた顔は、なんだか疲れた様子だった。
「お疲れさま。私のこと、待っていてくれたの?」
おそらくその意図は無いだろうが、京香は微笑みながら日傘を閉じた。
京香の存在に気づいた瑠璃が、顔を上げる。ペコリと頭を下げた。
「いや、その……なんていうか、落ち着かなくて……」
「逃げ出してきたってわけね」
「……否定はしません」
「素直でよろしい」
時刻は午後六時十五分。瑠璃がここにいつ着いたのか京香は知らないが、開始時刻までの午後六時半までは、まだ時間がある。
瑠璃にとって『同僚との飲み会』は、きっと初めてだ。慣れない場で、まだ慣れない同僚と待つのは、居心地が悪いだろうと京香は思う。
ふたりで雑居ビルに入り、エレベーターに乗った。瑠璃が屋上を押した。
「楽しみなさいとは言わないわ。でも、皆あんたを歓迎するために集まってくれたんだから、それには応えないとね」
「そ、そうですね……」
「ただし、無理はしないこと。酔い潰れるのだけは、絶対にNGよ。飲ませる子は居ないと思うけど……何かあったら、私のところに来なさい」
「そうします」
瑠璃もまた、自分とは別の意味で憂鬱だと、京香は理解している。だが、瑠璃が開発一課に溶け込むことは今後の仕事に必要不可欠であり――頑張ってほしいと思う。
瑠璃はスモーキーブルーのカットソーと、白いワイドパンツの格好だった。
以前購入した中で、瑠璃が最も気に入っていた組み合わせだと、京香は知っている。だから、今日は彼女なりの『勝負服』に感じた。
「私も正直ダルいけど、一緒に乗り切りましょう」
「はい!」
京香は瑠璃と一度だけ手を握ると、エレベーターが屋上に着いた。
「わぁ。意外と凄いわね」
狭いが空が高く、開放的な場所だった。夏のぬるい風と共に、炭の匂いが鼻についた。
あまり綺麗な場所ではないが――それだけで、不思議と京香は昂った。
この雑居ビルに入る飲食店のひとつが、夏季に屋上バーベキューを提供しているらしい。凉がここを、部下に押さえさせた。
「あっ、京香部長お疲れさまです」
「上座はこっちですよ」
既に座っていた課員達から、京香は席へと案内される。
「今日の主役は、私じゃなくて……このふたりよ」
京香は背後から瑠璃の肩に手を置くと、真ん中の席へと促した。
割と離れるが、瑠璃の席はそこに用意されていた。そして、その隣には――両川昭子が座っていた。
「妙泉部長……今日はあたしのために来て頂いて、ありがとうございます」
明るい笑みで会釈される。
京香にその意図は無かったが、表向きだけでも取り繕わなければならない。なんとか笑顔を作った。
「全員揃ったみたいだから、とりあえず人数分ビール頼もうか」
凉が課員に指示を出す。
こうして、開発一課の新入社員歓迎会が始まった。




