第37話
七月十六日、火曜日。
三連休明けの今日、京香はただでさえ憂鬱だった。それでも、午前十時に京香は三上凉と共に――開発一課の課員をはじめ、関係者を第二会議室に集めた。
現場実習中の両川昭子は、今日は製造ラインから抜けられないため、不参加だった。
小柴瑠璃は参加していた。彼女にとって初めての会議であるうえ――白いリネンシャツとグレーのタックパンツといった格好だからか、より落ち着かないように京香には見えた。
先週末に購入したものを、早速着ている。社会人らしい落ち着いた格好に、周りからの反応は良かった。だが瑠璃本人は、恥ずかしそうに今も縮こまっていた。黒いマスクも外せない。
その様子が、京香にとって唯一の『癒やし』であった。
「さて、それじゃあ会議を始めます」
京香の右隣に座る凉が、取り仕切った。
「フィナンシェ――ここ五年ほど何も変わってなくても、有り難いことに現在でも全然売れてます。ですが、いい加減何らかのテコ入れが欲しいとの、お達しです」
開発一課の主力製品だけでなく、妙泉製菓の『顔』でもある、フィナンシェ。オーソドックスな焼き菓子として、通年でコンスタントな販売実績があった。
凉がプロジェクターで、改変履歴の一覧を映し出す。創業当初からある商品のため、歴史はとても長い。
「経営陣はそう言ってるけど……昔から変わらないいつもの味、みたいに売ればいいんじゃないかと、私は思うんだけどねぇ」
「確かに、味はなるべく変えないでください。でも、変わるところは変わっていきましょうよ……コストとか」
京香はやる気無く漏らすと、左隣の妙泉円香からすかさず突っ込まれた。呼んでもいない営業一課の妹が、どうしてこの場に自然と居るのか――もはや疑問にすら持たなかった。
「ぶっちゃけると、材料費の高騰が割と痛くて……でも、老舗の意地で値上げに踏み切れない背景があります」
円香が皆に説明した事情を、京香は当然ながら事前に把握していた。近年では妙泉製菓だけでなく、食品業界や社会全体が抱える問題だ。
「それなら、小さくしただけで『美味しくなってリニューアル』でいいんじゃない?」
皮肉として、投げやりに京香は言う。
値上げが無理ならば数や量を減らすことは、食品業界の常套手段だ。それを『リニューアル』と謳うのは、消費者を舐めているとしか思えなかったが。
「それも老舗の意地で出来ません。よって、普通にリニューアルしてください」
考えが一致するものの――こちらはくだらないプライドに振り回されている『被害者』のように、京香は感じた。代弁の立場である円香は経営側だが、京香はやはりそちらに立てず、製造現場側の視点だった。
課員達が口にせずとも、会議室は苦笑の空気に包まれていた。同じように感じているのだと、京香は察した。
リニューアルとは言うが、要するに『大きさも味も落とさないコストカット』だ。
京香は改めて改変履歴を眺めるも、製造方法や材料の変更はほとんど無い。製造設備の一新が最も大きい。
きっと、過去から味は大きく変わらないのだろう。それでいて消費者から飽きられることなく、現在まで続いていることから、確かな『安定性』を感じる。
だからこそ、なるべく手を加えたくない案件だと思った。
「製造方法の……こういう言い方が適切でないような気もしますけど『改良点』はありますか?」
凉が生産技術部に振る。コストカットを考える場合、見直すべきひとつだ。
「うーん……。すぐには思い浮かばないというか……やっぱり、現実的に難しいんじゃないでしょうか。設備の買い替えに目を向けるしかないと思います」
現時点でその意見はもっともだと、京香は思う。深く追い込む気にはなれない。あまり期待もできない。
「長期的に考えた場合、それもアリかもしれないんで……償却も込みで、大体の試算を提出してください」
「わかりました」
そうなれば――京香は開発一課の面々を見渡した。
「ウチらは、材料いろいろ試してみましょうか」
現実的なコストカットは、材料の見直しだ。コストと共にグレードも下げれば、常識的に考えて味も落ちる。ただし、どれだけ落ちるのかは――組み合わせによっても未知の領域だ。結局は、地道に試作数を回して確かめるしかない。考えただけで、げんなりするが。
一方で、瑠璃は緊張で固まった様子だった。
一言も喋っていないにも関わらず、会議の緊張感から内容が耳に届いていないように京香は見えた。最も重大な人物がこのような様子で、京香は苦笑した。
「それじゃあ私は、ダメ元でも仕入先に値下げ交渉しますんで――同行願います、京香部長」
「はいはい……」
現実的に叶わないだろうが、まだ試していないために明確に『無理』とは言えない。
満面の笑みを浮かべる円香に、京香は小さく頷いた。
「それと――折角のリニューアルなんだから、ついでに新しいフレーバーも考えてくれませんか?」
「は?」
円香がさらりと付け足し、京香は唖然とした。いや、会議室の空気が一瞬で凍ったのを感じた。
「あんたねぇ……。『ついで』の域を余裕で超えてるじゃない」
ただでさえコストカットでさえ頭が痛いところに、さらに無茶を突きつけられ、京香は開発一課の気持ちを代弁した。経営陣からの代弁に対抗したつもりだった。
とはいえ、逆らえるはずがない。京香が感じたニュアンスとしては、コストカットと新フレーバーのふたつを合わせて『リニューアル』だ。ふたつに優先順位は無く、並行してどちらもこなさなければならない。
「ええっと……一応、整理しておきましょう」
凉も頭を抱える様子で、進行を続けた。
「現在フィナンシェはバラ売りと、化粧箱で八個入りと十六個入りがあります。味はノーマル、抹茶、チョコレートの三種類ですが……幸い、アソートでの販売は無く、それぞれ独立したパッケージになっています」
「販売形式はそのままで、追加のフレーバーはひとつだけ――そういうことよね?」
京香は念のため、円香に確認した。
これでも、考えられる限り労力が最小で済むケースだ。逆にこれでないならば、事態はさらに面倒臭くなる。
「ええ、その認識で相違ありません。まあ、本音を言えば……ウチの主力なんですから、いくつかの期間限定でサイクルを作りたいところではありますけど」
円香個人の、営業としての本音なのだろう。京香はその部分を聞き流した。
内容がこちらの想定通りだったとはいえ、面倒であることには違いない。
フィナンシェという焼き菓子はしっとりした口当たりになるため、それに合うフレーバーは限られる。良いように考えれば選択肢は少ないはずだが、選択肢自体が出てこないだろう。
いや、そもそもフィナンシェはノーマルこそが『完成形』であり、本来はフレーバーなど必要としない。現に販売実績としても、ノーマルが他ふたつに比べ、頭三つは抜けている。抹茶もチョコレートも『邪道』だと、京香は思う。
「ぶっちゃけ、リニューアルの話題性を加速させるための手段なんで……最悪、すぐ販売中止になっても構いませんよ」
「なるほどね」
売れることが理想ですけどね――円香が付け加え、京香はフレーバー追加の意図を理解した。
そのように言われると幾分気楽にはなるが、意図を知らない人間からは失望されるだろう。何にしても、京香の責任が綺麗に消えるわけではないのだ。
「そういう意味では、いっそ攻めてみるのも全然アリだと思います」
スティックケーキの時も同じようなことを言われた気がするが、今回は円香の言い分にも一理あると京香は思った。ノーマルを含む三種で『軸』は完成しているのだから、より『邪道』に振れる余裕はある。
「――というわけよ。スティックケーキみたいにアソートじゃないから、組み合わせやバランスは考えなくてもいいわ。話題性重視でシンプルに、アイデアで勝負しましょ」
京香は会議室を見渡すと――固まっている瑠璃ひとりを除き、皆が頷いた。
フィナンシェのコストカットとフレーバー追加によるリニューアル。こうして、途方もないプロジェクトが動き出した。京香はやはり、ひたすらに気だるかった。とはいえ、ひとまずの方向性が定まってよかったと、良いように考えた。
そして、願わくば――瑠璃が再び活躍して欲しいと思う。スティックケーキが偶然ではなかったと、確かな実力を見せることに期待した。
京香はまず、この会議の内容を後で改めて伝えようと、固まったままの瑠璃を見て思った。




