第36話
「……え?」
狭い試着室だが、女性ふたりで同室するのは珍しくない。店員も気にしていないはずだ。
それでも困惑している瑠璃に、京香は満面の笑みを浮かべた。
「着替えるの、手伝ってあげるわ」
騒いでは店員から怪しまれるため、小声で告げた。
あくまで、そのような理由だった――表向きは。
「いや……ひとりで大丈夫ですけど……」
「いいから、脱ぎなさい」
京香に、瑠璃を説得するつもりは無かった。返事を待つより早く、トップスのスウェットに手をかけ、裾を持ち上げた。
特に抗うことなく、瑠璃は幼い子供のように両腕を上げる。スウェットの襟に引っかかり、マスクとキャップも共に外れた。休日だからか、唇にピアスが付いていた。
「へぇ。こんなにやらしいの着けてたのね」
スウェットの下にカットソーやキャミソールを挟むことなく、黒いブラジャーがすぐ露わになった。レース素材だが――京香がこれまで見てきた『ぁぉU』の中で、おそらく最も布面積が少ないものだ。今朝、着替えたのだろう。
これを選んだ意図を、京香はわからない。ただ、ルーズな格好とのギャップに、やはり大いに興奮した。
瑠璃は観念した様子で、胸元を隠すことなく両腕を下ろしていた。ただ、顔を真っ赤にし、視線を伏せていた。
「ちゃんとした服、買いに来たんで……」
そして、ぽつりと漏らした。
一応はそのような理由があるのだと、京香は瑠璃の『こだわり』が可愛いと感じる。だが、おかしくも感じ、つい小さく笑ってしまった。
「それなら、試着しましょう――ちゃんとした服を」
京香は屈み、ボトムスのスウェットも脱がせた。ブラジャーと対になっている、際どいショーツだった。壁面の鏡越しに、後部も見えた。
狭い空間で下着姿になった瑠璃に、まずはワイドパンツを履かせた。
瑠璃は小柄だが、この種類のボトムスに、着用者の身長は関係無い。誰が履こうと、下半身は同じシルエットになる。
あとは、トップスをどう合わせるか――京香は今、どうでもよかった。瑠璃にシアーシャツを着せたいがために、同室したのであった。
「なんとなく、そんな予感はしてましたけど……やっぱり」
シアーシャツを着るや否や、瑠璃は胸元を腕で隠そうとする。
しかし京香は背後から瑠璃の両腕を持ち上げたうえ、鏡の前に立たせた。
この手のシアーシャツは本来、インナーにカップ付きのタンクトップやキャミソールを着用する。透けることが前提なのだ。
そう。瑠璃は社会人らしい清楚なシルエットの衣服を纏うも、いかがわしい下着が透けていた。
下着姿よりも恥ずかしいのだろう。戸惑う瑠璃の顔が、京香は鏡越しに見えた。
「会社の皆があんたのこんな格好見たら、どう思うでしょうね」
瑠璃の耳元で、そっと囁く。
「あんたがこんなにやらしいなんて知られたら……きっと軽蔑されるわ。いっそのこと、裏垢も見て貰ったら?」
京香はその様子を想像し、恍惚に口元が歪んだ。
「ち、ちが……わたし……やらしくなんか……」
一方で瑠璃は、小さな身体が少し震え――今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。
ここまでだと京香は思い、瑠璃の両腕を離す。そして、宥めるように優しく頭を撫でた。
「悪かったわね……。ちゃんとしたやつ、持ってくるわ」
京香はひとりで試着室を出ると、店内を見て回った。
瑠璃に似合いそうなものを、今度は真剣に探した。どちらかというと暗い性格のうえ、普段から暗い色の衣服を着ているので――なるべく明るい色を着せたい。
とはいえ、今夏の流行色が緑と青だと思い出しても、やはり瑠璃のイメージにどちらもしっくりこなかった。
もう無難に白色かと思っていると、あるものが目に留まった。京香はそれを取り、さらに先程のワイドパンツの白色も持ち、試着室へ戻った。
「これ着てみなさい」
瑠璃に手渡し、試着室の前で待つ。
やがて、試着室の扉が開いた。さっきまでと打って変わり――瑠璃はソワソワした様子だった。両腕を広げ、くるりと回ってみる。
彼女なりに気に入って納得しているのだろうと、京香は思った。
「似合ってるじゃない」
「はい。めっちゃ良い感じです」
京香の目に留まったのは、スモーキーブルーのカットソーだった。
明るすぎず、かといって暗くもない、落ち着いた色。浅めのVネックとフレア袖であるため、胸元や二の腕の露出は無い。さらに、ゆったりしたシルエットがボディラインを隠している。
露出やボディラインは、京香が控えさせたかった。年齢の割に可愛さが無く、色もデザインも落ち着いたものだと京香は思ったが――似合うことが最優先だと割り切った。
「なんていうか……普通のOLさんみたいですね」
「普通の会社員が、なに言ってんの」
瑠璃の感想に、京香は笑った。
現在では『女性の会社員』をOLと呼ぶ風潮があると、理解している。それでも、京香の中では本来の意味合いである『女性の事務員』が強かった。
そのように考えると、瑠璃はOLではない。しかし、ひとりの立派な会社員、或いは社会人であると、京香は思う。耳や唇、顔面に無数のピアスが付いていても――格好も実態も、そのように呼んで遜色ないはずだ。
こうしてしっかり自分を磨いている者はもう弱者ではないと、京香は信じたかった。
「一緒に来てくれて、ありがとうございました」
頼まれた時は、不安だった。だが、喜ぶ瑠璃から感謝され、京香もまた嬉しかった。
瑠璃に似合う衣服を選べるのは、世界で自分ひとりだけのように感じた。
その後も何着か選び、レジへと向かった。
京香は、スモーキーブルーのカットソーと白いワイドパンツに、この場で着替えるよう瑠璃に提案した。瑠璃は明るく頷いた。
会計の際、京香は財布からクレジットカードを取り出した。自然な流れだった。しかし、瑠璃から止められた。
「ダメです。わたしが出します」
マスクを外した――瑠璃の真剣な表情に、京香はこの買い物の趣旨を思い出す。
まっとうな社会人として、初めての賞与による『自分磨き』だ。つまり自分への投資なのだから、確かに瑠璃自身で出すのが筋だ。買い与えては、意味が無い。
京香は渋々、クレジットカードを引っ込めた。
着替えたスウェットも含め、ショップバッグは三つだった。ひとつを京香が持ち、ふたりで店を出た。
京香は瑠璃の格好を改めて見ると、新鮮だった。デパートの有象無象に、社会の一部に、違和感無く溶け込んでいる。
自身のワンピースがオリーブグリーンであることから、割と近い色の衣服だと感じた。だが、一緒に歩くことに恥ずかしさは無く、なんだか嬉しかった。
「次からは、ひとりで来れるわよね? 服を買いにいくための服、買ったでしょ?」
「そうですけど……暇だったら付いてきてください」
瑠璃は不安そうではなく、小さく笑っていた。
だから京香は、甘えられているように感じ――悪い気がしなかった。
「私、そんなに暇じゃないわよ……。でも、しょうがないわねぇ」
時刻は午前十一時半になろうとしていた。
少し早いが、上階のレストランフロアでランチを済ませて帰ろうと、京香は思った。
しかし、あることを思い出し、エスカレーターを下った。
「あんたに良いもの見せてあげる」
向かった先は、地下一階の食料品売り場だった。この時間は、とても混んでいた。
様々な匂いが入り混じり、京香は腹に響いた。だが我慢し、荷物を手に瑠璃と人混みを歩いた。
やがて、ある一角のテナントにたどり着く。
「あっ、ここ……」
「妙泉製菓の店よ。あんた、初めてよね?」
「はい」
都心部に数あるデパートの中で、この店があるから無意識に選んでいたことを、京香は気づいていない。偶然だと思っていた。
京香がここを訪れたのは、三上凉と両川昭子との『店頭視察』以来だった。
今日は休日だからか、混雑ほどでは無いが――以前よりは客が入っていた。とはいえ、売れ行きとしてはやはり水菓子が多い印象を、京香は受けた。
店員が京香に気づくも、接客を優先して欲しいため、京香は手のひらを向けて挨拶を制止した。互いに会釈するだけに留まった。
瑠璃のことを紹介したいところだったが、仕方ないと思った。
「へぇ」
物珍しそうに、瑠璃が店内を見渡していた。
どこか他人事のようだと京香は感じ、肘で小突いた。
「自分の会社のお店なのよ? あと何ヶ月かしたら、スティックケーキがここに並ぶわ」
確かにそれまで実感が湧きにくいと、京香は思う。
だが、瑠璃に少しでも手応えを得て貰いたいがために、連れてきたのであった。
京香が焼き菓子のコーナーを指差すと――想像したのか、瑠璃の頬が少し緩んだ。
これまで商品開発業務を続け、京香に『仕事のやり甲斐』が全く無かったわけではない。自らが携わった商品が店頭に並ぶと、少なからず嬉しかった。
それは年々さらに希薄になっていくが、瑠璃にとっては新鮮なはずだ。
「あんたのお菓子がもっと並ぶように、頑張りなさい」
口にしておきながら、実に抽象的な目標だと、京香は思う。
「はい!」
しかし、力強く頷く瑠璃に――上司として間違っていないとも思った。
自分と違い、いい加減な仕事をしないだろう。必ず期待に応えてくれると信じ、京香は瑠璃の頭をクシャッと撫でた。
第12章『自分磨き』 完
次回 第13章『告白』
京香は新しいプロジェクトの会議を開く。




