第35話
七月九日、火曜日。
午前八時過ぎ、京香は出社した。開発一課のオフィスは冷房が効き、涼しかった。
課員達と挨拶を交わし、部長席に座る。
「とはいってもねぇ……」
そして、誰にも聞こえないほどの小さな声を漏らした。
賞与が明日支給され、今週の土曜日は瑠璃の買い物に付き合うことになっている。衣服を購入するにあたり、同伴者である京香のファッションセンスが瑠璃から期待されている節がある。
だが、京香はファッションセンスに自信が無かった。
さらに、三十二歳の京香に対し瑠璃は二十一歳であり、一回り近く離れている。二十代だった頃のファッションを思い出すだけでなく、昨今の『流行』も考えなければならない。
とはいえ、そのような知識は無く――京香は部長席から、オフィス内をぼんやりと眺めた。課員達の代わり映えしない私服を改めて確かめるも、よくわからなかった。
年齢層の問題だろうか。彼女達はほとんどが、二十代後半から三十代前半に該当する。それに比べ、瑠璃はまだ少し若い。
「妙泉部長! おはようございます!」
カシスブラウンのショートボブヘアの女性が、わざわざ京香に近づき挨拶をした。
両川昭子のことを、京香はやはり苦手だった。しかし、二十二歳の彼女が瑠璃に最も近い人物なのだと、気づいた。
まだ少し幼さの残る顔は、可愛い分類だ。明るい人柄は、多くの人間から好かれている。気性の荒い側面を見ているが、新卒としては申し分無い存在だと、京香は改めて思う。
そんな昭子は、ドット柄のボリュームブラウスとブラウンのタックパンツといった格好だった。
よく見ると割と個性的なトップスだが、京香の目からは全くの違和感無く着こなしていた。
「おはよう……。両川さんって、オシャレよね」
挨拶ついでに、感想が自然と漏れていた。京香には少なくとも、褒める意図は無い。失言とも思わない。
昭子は驚いた表情の後、満面の笑みを浮かべた。
「さっすが妙泉部長! 気がつくなんて、流石です!」
そのように言われるも、京香は何に気づいたのか全くわからなかった。訊ねるわけにもいかず、ぎこちない笑みを浮かべて頷いた。
「シアー素材、今年の夏のトレンドですもんね。あたし、ばっちり取り入れてますよ」
ブラウスは透けた生地とのレイヤー構造だと、昭子の説明で京香は理解した。夏らしく、涼しさを感じる。
そして、それが今夏の『流行』のようだ。
今の時期に限らず、昭子は普段から情報を抑えたうえで衣服を選び、身体を合わせているのだろう。だから着こなす能力に長けているのだと、京香は納得した。これもまた『自分磨き』だと思い、素直に感心した。
「ちょっと前に雑誌で見たのを、思い出してね……。ちなみに、トレンドのカラーはあるのかしら?」
偶然にも触れたようなので、便乗することにした。適当に話を作ったうえで、それとなく訊ねた。
「今年の夏は、青と緑ですよ。あとは無難に、白も」
「へぇ」
系統が似ているようで似ていない二色だと、京香は感じた。
どちらも、あまり瑠璃に似合わない色だと思う。いや、普段から暗い色ばかり着ているせいで、イメージが掴みにくいのかもしれない。いざ着せてみれば、似合う可能性がある。
何はともあれ、欲しかった情報を昭子から手に入れることができ、京香は少し安心した。
「妙泉部長こそ、オシャレですよね! いつもスーツ着こなして、超カッコいいです!」
「いやー……そんなことないわよ」
京香は謙遜ではなく、純粋に否定した。
今はスーツのジャケットこそ脱いでいるが、カットソーとタイトスカートだった。
京香が普段からスーツを着用する理由は、ふたつあった。ひとつは、身の丈に合わない部長職に就いている以上、少しでも威厳を保つため。もうひとつは、着回しが楽なためであった。
どちらの理由もとても言えないため、京香は苦笑して誤魔化した。
「あたし、スーツの似合う女性、素敵だなーって思いますよ」
「う、うん……」
変わった嗜好の類だろうか? 思わず訊ねそうになるが、京香は口を閉じた。
こうして他愛ない会話が出来たからか、昭子はとても嬉しそうだった。
珍しく『関わりすぎた』と、京香は反省した。そして、たまにはスーツを脱いで出社するのもいいかもしれないと――昭子の明るい笑顔から、少しの恐怖を覚えた。
*
七月十三日、土曜日。
午前八時前に京香は目を覚ました。昨晩から『一泊』している瑠璃が作った朝食を摂る。
そして洗面後、寝室でクローゼットを開け――衣服を眺めた。
これから、瑠璃と衣服の買い物に出かける。京香には、デートとして嬉しい気持ちがあった。しかしそれ以上に、そういう趣旨である以上、何を着ればいいのか頭を抱えた。
ふと、オリーブグリーンの五分袖ワンピースが目に留まった。今夏のトレンドカラーが緑だと、昭子の言葉を思い出す。暗めだがこれも一応緑だと、手に取った。
腕にも日焼け止めを塗れば、気候的にワンピースだけでも充分だ。それでも、さらに薄手の白いカーディガンを羽織った。歳相応の落ち着いた格好に感じた。
「それじゃあ、そろそろ行くわよ」
「はい」
寝室を出ると、リビングで瑠璃が身支度を終えていた。
とはいえ、ゆったりとしてグレーの長袖スウェットは上下ペアであり――いつも通り黒いキャップを被り、黒いマスクを着けている。
京香は半眼を向けた。
「言われなくても、わかりますよ……。服買いに行く服が無いんだから、しょうがないじゃないですか。むしろ、そのための服を買いに行く、みたいな」
瑠璃は早口で言った後、恥ずかしそうにキャップのツバを深く下ろした。
今に限れば、首から下を気にしているため丁寧に顔を隠しているように、京香は感じた。
「せっかくだから、春ぐらいに私が買ってあげた……ホテルで食事した時の服でも着ればよかったのに」
「何の罰ゲームですか、それ」
あの時の衣服がどうなったのか、京香は知らない。瑠璃がもう着ないにしろ、持っていて欲しいと思う。
瑠璃と共に自宅を出ると、地下駐車場で自動車に乗った。そして、高速道路に上がり――都心部へと走る。
「あれ? 駅前とかじゃないんですか?」
瑠璃の言う通り、普段遣いの私服を購入するだけならば、駅前のショッピングモールでも充分だった。
しかし、京香としては周りの目を気にした。いくら正社員になったとはいえ、瑠璃との『デート』を同僚に見られたくない。近場ならその可能性が考えられるため、わざわざ遠出するのであった。
「ええ……。品揃えが違うからね。まあ、そんなに高くないわよ」
「へぇ」
京香は意図を伏せ、適当な理由を作った。
やがて都心部に入り、コインパーキングに駐車する。そこから近くのデパートへと歩いた。時刻は午前十時過ぎだった。
「人多いですね」
確かに、休日の都心部デパートは、この時間帯でも混雑していた。
だが京香は、瑠璃がそれを確かめるというよりも――珍しそうな物言いに聞こえた。
「あんた、こういう所来ないの?」
「当たり前じゃないですか」
「へぇ。なんか意外……でもないわね」
ピアスホールを開けたり睡眠薬に手を出したり『裏垢』を持っていたりする割に、瑠璃は小心者だった。
遊び慣れていないどころか、このような場所はむしろ苦手なのだと、京香は納得した。
そのせいか――自然と瑠璃の手を握り、エスカレーターに乗っていた。
周りから見れば、奇妙な組み合わせのふたりだろう。だが、女性同士で手を繋ぐことは、おそらくおかしな光景ではない。
それでも、京香は後になってデートの実感が少し湧いた。
やがて、とあるレディースファッションの小売店に入った。落ち着いたデザインの品揃えであり、京香が過去に何度か利用したことのある店だ。
「わぁ」
瑠璃が声を上げるも、店員から会釈され、京香の陰に隠れた。
慣れないなら仕方ないと、京香は苦笑しながら店内を見渡した。
「あんた、どっちかというとスカートよりパンツよね?」
「はい。その方がいいです」
念のため確かめると、京香はまず、黒いリネン生地のワイドパンツを手にした。
「え? そんなだらしないやつでいいんですか?」
「あんたがそれ言う? ラクなやつ、履いておきなさい。ていうか、オフィスでも結構見るわよね?」
「そうですけど……」
瑠璃の戸惑いが、京香はわからなくもない。とはいえ、世間はこれを『小綺麗』だとしているのだから受け入れてもいいのだと、押し付ける。
そして、今夏の流行を意識して――にんまりと笑みを浮かべ、白い前閉じシアーシャツも取った。七部袖の、ゆったりとしたシルエットのものだ。
「とりあえず、これとこれで試着しましょうか」
「は、はい」
トップスとボトムスをひとつずつ持ち、試着室へと向かう。
店内の隅にある狭い個室に、瑠璃に続き――京香も入った。




