第23話
六月七日、金曜日。
昨日、両川昭子からスティックケーキのベリーフレーバーについての提案が京香にあった。
本来は現場研修の昭子だが、今朝から三上凉による指導の元、試作指示書の作成に取り掛かっている。新入社員を特別扱いすることに、京香は良い気がしない。しかし、提案者が最後まで仕上げなければならないので、仕方なく任せた。
今日中に指示書を完成させ、来週には試作品が上がるはずだ。
凉としては、これで一件落着という安心感を持っている様子だった。だが、京香は――昨日からの釈然としない感じが、今も続いていた。
とはいえ、実際に試作品を口にすれば納得するかもしれない。そのように、なるべく楽観的に考えるようにした。
午前十時半、京香は休憩がてら試作室に向かった。周辺に目が無いことを一応確認したうえ、入る。
狭い部屋で、全身白色の作業着に身を包んだ小柴瑠璃が、試作業務に取り組んでいた。
「お、お疲れさまです……」
突然の訪問に、瑠璃は驚いた様子で会釈する。
京香は瑠璃の隣に立った。
「お疲れ。今夜のことなんだけど……」
訪れた主な用件はそれだった。携帯電話のメッセージアプリで充分だが、直に伝えたかった。仕事中でも瑠璃に会いたいと無意識に思っていることに、京香は気づいていない。
今夜もまた瑠璃に何か夕飯を作らせ、食事の後に性交を楽しむ。いつもの週末を過ごす――はずだった。
「ディナーは適当でいいから、ケーキ作ってくれないかしら」
「は?」
今思いついたことを話すと、瑠璃が唖然とした声をあげた。
「なんか、甘いものが食べたくなってね」
「いやいや……毎日甘いもの、腐るほど食べてますよね? もう見るだけで吐きそうになるというなら、わかるんですが……まだ食べるんですか?」
「ええ。食後のデザートは、別腹よ」
「アラサーの言うことじゃないですよ、それ」
「うるさいわね。身体は平気だから、作りなさい」
京香としては、瑠璃の言うことが図星だった。普段から仕事で甘いものを食べているので、仕事外ではあまり食べる気がしない。肌も荒れやすく、手入れを怠らなかった。
それでも無理をして、嘘をついてまで瑠璃に作らせるのは――釈然としない気持ちを晴らす可能性があるからだ。
「わかりましたけど……何のケーキ食べたいんですか?」
栄養管理士として試作業務を行っているというだけで、京香は瑠璃がケーキを作ることが出来ると判断していた。瑠璃の口振りから、やはり出来るどころか、レパートリーは豊富なようだ。
とはいえ、京香のオーダーは既に決まっていた。
「あんたに任せるわ。私を満足させなさい」
「ほら出た。まーた無茶振りですか……」
京香は瑠璃から、半眼と投げやりな声を向けられた。
確かに、相変わらずの無茶振りをしている自覚がある。それでも、敢えて意図を伏せた。
商品開発業務で、今まで瑠璃に意見を訊くことはなかった。ただの派遣社員なのだから、当然だ。
これが必ずしもスティックケーキの案になるとは、限らない。気持ちが晴れることには、期待していない。だが、こうして連日試作している本人が、この流れで何を出してくるのか――京香は純粋に興味があった。要するに、気まぐれだった。
「まあ、わかりました。適当に考えておきます」
瑠璃がそのように漏らす。しかし京香には、何を作るか既に決まっているように聞こえた。悩んでいる様子には見えなかった。
「楽しみにしてるわね。それじゃあ、仕事終わったらいつものスーパーで材料買っておいて」
京香はそう言い残し、試作室を後にした。
瑠璃と過ごす週末だけではない。瑠璃がケーキを作る。
そう考えると、今週が終わるまでのあと半日と少し――乗り切るためのモチベーションになった。
*
午後六時半になり、京香は無事に今週の仕事を終えた。
自動車でスーパーマーケットに向かい、瑠璃を拾う。夕飯だけでなく、ケーキの材料まで揃えたからだろう――エコバッグひとつには収まらず、瑠璃はビニール袋まで持っていた。
「あんたさ、家でも甘いもの作るの?」
京香は自動車を運転しながら、助手席の瑠璃にふと訊ねた。
「作るわけありませんよ。仕事で散々作ってるし……ていうか、作ろうにも設備が無いです」
瑠璃の答えに、あの狭いキッチンにオーブンが無かったことを思い出す。むしろ、ひとり暮らし用の賃貸では有る方が珍しいのだろう。一般的な料理を行う分には、無くても特に困らないはずだ。
「それじゃあ、もしも設備があったら? 休みの日に、甘いの食べたくなることあるでしょ?」
「そうなったら、コンビニでも行くんじゃないですか? わざわざ作るだなんて、タイパもコスパも超悪いですよ」
確かに効率面では優れないと、京香は納得した。だが、それ以上に――先ほどの瑠璃の言葉から、プライベートでは絶対に作らないという強い意思を感じた。
同じ菓子製造業の人間として、その気持ちには共感した。
「悪いわね、わざわざ作らせて」
「そうですよ。これじゃあ、ママ活じゃなくて残業じゃないですか」
「ちゃんと高い残業手当、つけるわよ。それとも……やっぱり、エッチなことしか頭に無い感じ?」
「やっぱりって何ですか! それらしい匂わせ、したことないですよね!? 人のこと、淫乱の痴女みたいに言わないでください!」
運転中につき、助手席の瑠璃がどのような表情をしているのか、わからない。恥ずかしそうに荒げる声が、車内に響いた。
先日の『撮影プレイ』が響いたのだろうかと、京香は思った。何にせよ、瑠璃をからかうことを楽しみながら、自動車を走らせた。
やがてタワーマンションに到着し、二十四階にある京香の部屋へと上がる。
瑠璃がダイニングテーブルに、エコバッグとビニール袋を置いた。そして、黒いウサギを模したリュックサックを下ろし、中から――黒いウサギを模したエプロンを取り出した。リュックサックと同じく、長い耳がベロンと垂れている。
髪をまとめてエプロンを着けた瑠璃が、京香にはなんだか気合いが入っているように見えた。
これまで何度かこの部屋で料理を作らせたが、瑠璃がエプロンを持参したのは初めてだった。いや、今夜のことは今日の昼間に告げた。瑠璃としても備えていたのだと、察する。
「ねぇ。そういうの、どこで買うの?」
リュックサックと似ているようで、違うウサギだった。同じシリーズでは無いようだ。
「え? 通販ですけど? 可愛いくないですか?」
瑠璃がエプロンの両耳を引っ張り、見せつける。気だるそうな瞳と黒いマスクの顔だが、京香にはなんだか誇らしげな表情に感じた。
確かに、京香も可愛いと思う。しかし、一般的なエプロンに比べ割高のようにも思えた。このようなものに金をかける瑠璃が、理解できない。
「そうね。いいんじゃない?」
とはいえ、ここは意図的に同意しておいた。
「よし! それじゃあ作りますから、ママは待っておいてください!」
京香の狙い通り――瑠璃にしては珍しく、一層気合いが入ったように見えた。
いつも手を抜いているとは思えないが、今夜はとにかく全力で料理をさせたい。
京香はシャワーを浴びることも着替えることもなく、ソファーでつくろいでいた。ウイスキーを飲みながら、料理の完成を待っていた。
生臭い、辛い、酸っぱい、甘ったるい――様々な匂いがキッチンから漂い、なんだか落ち着かなかった。瑠璃が何を料理しているのか、全く想像できない。ただ、器用にマルチタスクをこなしているであろう瑠璃に、素直に感心した。
やがて、瑠璃が料理をすること約四十五分。時刻は午後八時前。京香はウイスキーを抑え気味に飲んでいたものの、空腹を感じる頃だった。
「とりあえず、先に晩ごはん食べてください」
瑠璃に呼ばれ、京香はウイスキーの入ったグラスを片手に立ち上がる。
「なにこれ。真っ赤じゃない」
ダイニングテーブルに置かれていたふたつの皿は、どちらも赤い料理が盛られていた。
京香はダイニングチェアに座ってよく見ると、アンチョビとパプリカのマリネ、そしてエビチリだった。
「しょっぱいものと辛いものは、どっちもお酒に合いますし……食後のケーキが、一層おいしく感じるはずです。あっ、栄養バランスはガン無視しました」
瑠璃はまだ、キッチンで何やら料理をしていた。落ち着いた声だけが、京香の元に届く。
一応は、合理的なメニューのようだ。とはいえ、色合いを狙ったようにしか見えないため、京香はなんだか腑に落ちなかった。
「な、なるほど……」
「もうちょっとで――オーブンに入れたらわたしも食べますんで、冷めないうちにどうぞ」
「悪いわね。お先に頂くわ」
見た目は衝撃的だが、きっと味は確かだろうと、京香は自分に言い聞かせる。
香ばしい匂いが立ち込める中、キッチンからは甘い匂いが漂う。忙しそうにしている瑠璃の気遣いを素直に受け取ろうと、エビチリに箸を伸ばした――その時だった。
ふと、インターホンが鳴り響いた。
京香は箸を置くと立ち上がり、リビングの扉近くにある画面を眺める。
「げっ」
画面には、オリーブベージュの耳出しショートヘアの女性が写っていた。にこやかな表情で、カメラを覗き込んでいた。
『やっほー、姉さん。近く通りがかったから、遊びに来たよー』




