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アナタはわたしの手の中  作者: 未田
第08章『気まぐれ』
23/90

第23話

 六月七日、金曜日。

 昨日、両川昭子からスティックケーキのベリーフレーバーについての提案が京香にあった。

 本来は現場研修の昭子だが、今朝から三上凉による指導の元、試作指示書の作成に取り掛かっている。新入社員を特別扱いすることに、京香は良い気がしない。しかし、提案者が最後まで仕上げなければならないので、仕方なく任せた。

 今日中に指示書を完成させ、来週には試作品が上がるはずだ。

 凉としては、これで一件落着という安心感を持っている様子だった。だが、京香は――昨日からの釈然としない感じが、今も続いていた。

 とはいえ、実際に試作品を口にすれば納得するかもしれない。そのように、なるべく楽観的に考えるようにした。


 午前十時半、京香は休憩がてら試作室に向かった。周辺に目が無いことを一応確認したうえ、入る。

 狭い部屋で、全身白色の作業着に身を包んだ小柴瑠璃が、試作業務に取り組んでいた。


「お、お疲れさまです……」


 突然の訪問に、瑠璃は驚いた様子で会釈する。

 京香は瑠璃の隣に立った。


「お疲れ。今夜のことなんだけど……」


 訪れた主な用件はそれだった。携帯電話のメッセージアプリで充分だが、直に伝えたかった。仕事中でも瑠璃に会いたいと無意識に思っていることに、京香は気づいていない。

 今夜もまた瑠璃に何か夕飯を作らせ、食事の後に性交を楽しむ。いつもの週末を過ごす――はずだった。


「ディナーは適当でいいから、ケーキ作ってくれないかしら」

「は?」


 今思いついたことを話すと、瑠璃が唖然とした声をあげた。


「なんか、甘いものが食べたくなってね」

「いやいや……毎日甘いもの、腐るほど食べてますよね? もう見るだけで吐きそうになるというなら、わかるんですが……まだ食べるんですか?」

「ええ。食後のデザートは、別腹よ」

「アラサーの言うことじゃないですよ、それ」

「うるさいわね。身体は平気だから、作りなさい」


 京香としては、瑠璃の言うことが図星だった。普段から仕事で甘いものを食べているので、仕事外(オフ)ではあまり食べる気がしない。肌も荒れやすく、手入れを怠らなかった。

 それでも無理をして、嘘をついてまで瑠璃に作らせるのは――釈然としない気持ちを晴らす可能性があるからだ。


「わかりましたけど……何のケーキ食べたいんですか?」


 栄養管理士として試作業務を行っているというだけで、京香は瑠璃がケーキを作ることが出来ると判断していた。瑠璃の口振りから、やはり出来るどころか、レパートリーは豊富なようだ。

 とはいえ、京香のオーダーは既に決まっていた。


「あんたに任せるわ。私を満足させなさい」

「ほら出た。まーた無茶振りですか……」


 京香は瑠璃から、半眼と投げやりな声を向けられた。

 確かに、相変わらずの無茶振りをしている自覚がある。それでも、敢えて意図を伏せた。

 商品開発業務で、今まで瑠璃に意見を訊くことはなかった。ただの派遣社員なのだから、当然だ。

 これが必ずしもスティックケーキの案になるとは、限らない。気持ちが晴れることには、期待していない。だが、こうして連日試作している本人が、この流れで何を出してくるのか――京香は純粋に興味があった。要するに、気まぐれだった。


「まあ、わかりました。適当に考えておきます」


 瑠璃がそのように漏らす。しかし京香には、何を作るか既に決まっているように聞こえた。悩んでいる様子には見えなかった。


「楽しみにしてるわね。それじゃあ、仕事終わったらいつものスーパーで材料買っておいて」


 京香はそう言い残し、試作室を後にした。

 瑠璃と過ごす週末だけではない。瑠璃がケーキを作る。

 そう考えると、今週が終わるまでのあと半日と少し――乗り切るためのモチベーションになった。



   *



 午後六時半になり、京香は無事に今週の仕事を終えた。

 自動車でスーパーマーケットに向かい、瑠璃を拾う。夕飯だけでなく、ケーキの材料まで揃えたからだろう――エコバッグひとつには収まらず、瑠璃はビニール袋まで持っていた。


「あんたさ、家でも甘いもの作るの?」


 京香は自動車を運転しながら、助手席の瑠璃にふと訊ねた。


「作るわけありませんよ。仕事で散々作ってるし……ていうか、作ろうにも設備が無いです」


 瑠璃の答えに、あの狭いキッチンにオーブンが無かったことを思い出す。むしろ、ひとり暮らし用の賃貸では有る方が珍しいのだろう。一般的な料理を行う分には、無くても特に困らないはずだ。


「それじゃあ、もしも設備があったら? 休みの日に、甘いの食べたくなることあるでしょ?」

「そうなったら、コンビニでも行くんじゃないですか? わざわざ作るだなんて、タイパもコスパも超悪いですよ」


 確かに効率面では優れないと、京香は納得した。だが、それ以上に――先ほどの瑠璃の言葉から、プライベートでは絶対に作らないという強い意思を感じた。

 同じ菓子製造業の人間として、その気持ちには共感した。


「悪いわね、わざわざ作らせて」

「そうですよ。これじゃあ、ママ活じゃなくて残業じゃないですか」

「ちゃんと高い残業手当、つけるわよ。それとも……やっぱり、エッチなことしか頭に無い感じ?」

「やっぱりって何ですか! それらしい匂わせ、したことないですよね!? 人のこと、淫乱の痴女みたいに言わないでください!」


 運転中につき、助手席の瑠璃がどのような表情をしているのか、わからない。恥ずかしそうに荒げる声が、車内に響いた。

 先日の『撮影プレイ』が響いたのだろうかと、京香は思った。何にせよ、瑠璃をからかうことを楽しみながら、自動車を走らせた。


 やがてタワーマンションに到着し、二十四階にある京香の部屋へと上がる。

 瑠璃がダイニングテーブルに、エコバッグとビニール袋を置いた。そして、黒いウサギを模したリュックサックを下ろし、中から――黒いウサギを模したエプロンを取り出した。リュックサックと同じく、長い耳がベロンと垂れている。

 髪をまとめてエプロンを着けた瑠璃が、京香にはなんだか気合いが入っているように見えた。

 これまで何度かこの部屋で料理を作らせたが、瑠璃がエプロンを持参したのは初めてだった。いや、今夜のことは今日の昼間に告げた。瑠璃としても備えていたのだと、察する。


「ねぇ。そういうの、どこで買うの?」


 リュックサックと似ているようで、違うウサギだった。同じシリーズでは無いようだ。


「え? 通販ですけど? 可愛いくないですか?」


 瑠璃がエプロンの両耳を引っ張り、見せつける。気だるそうな瞳と黒いマスクの顔だが、京香にはなんだか誇らしげな表情に感じた。

 確かに、京香も可愛いと思う。しかし、一般的なエプロンに比べ割高のようにも思えた。このようなものに金をかける瑠璃が、理解できない。


「そうね。いいんじゃない?」


 とはいえ、ここは意図的に同意しておいた。


「よし! それじゃあ作りますから、ママは待っておいてください!」


 京香の狙い通り――瑠璃にしては珍しく、一層気合いが入ったように見えた。

 いつも手を抜いているとは思えないが、今夜はとにかく全力で料理をさせたい。


 京香はシャワーを浴びることも着替えることもなく、ソファーでつくろいでいた。ウイスキーを飲みながら、料理の完成を待っていた。

 生臭い、辛い、酸っぱい、甘ったるい――様々な匂いがキッチンから漂い、なんだか落ち着かなかった。瑠璃が何を料理しているのか、全く想像できない。ただ、器用にマルチタスクをこなしているであろう瑠璃に、素直に感心した。

 やがて、瑠璃が料理をすること約四十五分。時刻は午後八時前。京香はウイスキーを抑え気味に飲んでいたものの、空腹を感じる頃だった。


「とりあえず、先に晩ごはん食べてください」


 瑠璃に呼ばれ、京香はウイスキーの入ったグラスを片手に立ち上がる。


「なにこれ。真っ赤じゃない」


 ダイニングテーブルに置かれていたふたつの皿は、どちらも赤い料理が盛られていた。

 京香はダイニングチェアに座ってよく見ると、アンチョビとパプリカのマリネ、そしてエビチリだった。


「しょっぱいものと辛いものは、どっちもお酒に合いますし……食後のケーキが、一層おいしく感じるはずです。あっ、栄養バランスはガン無視しました」


 瑠璃はまだ、キッチンで何やら料理をしていた。落ち着いた声だけが、京香の元に届く。

 一応は、合理的なメニューのようだ。とはいえ、色合いを狙ったようにしか見えないため、京香はなんだか腑に落ちなかった。


「な、なるほど……」

「もうちょっとで――オーブンに入れたらわたしも食べますんで、冷めないうちにどうぞ」

「悪いわね。お先に頂くわ」


 見た目は衝撃的だが、きっと味は確かだろうと、京香は自分に言い聞かせる。

 香ばしい匂いが立ち込める中、キッチンからは甘い匂いが漂う。忙しそうにしている瑠璃の気遣いを素直に受け取ろうと、エビチリに箸を伸ばした――その時だった。

 ふと、インターホンが鳴り響いた。

 京香は箸を置くと立ち上がり、リビングの扉近くにある画面を眺める。


「げっ」


 画面には、オリーブベージュの耳出しショートヘアの女性が写っていた。にこやかな表情で、カメラを覗き込んでいた。


『やっほー、姉さん。近く通りがかったから、遊びに来たよー』

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