第二十九話 -嫌いになるきっかけ-
心音は手話歌に対する考えを一輝に話し始めた。
幼い頃の心音は決して歌が嫌いな訳ではなかった。
正確には「歌に対して嫌いだと言った感情も、好きだと言った感情も持っていなかった」の方が近いかもしれない。
それは見た事も聞いた事も、ましてや食べた事すらない外国のお菓子を「好きですか? 嫌いですか?」と問われても「食べた事がないので分かりません」「見た事がないので興味がありません」と答える事しか出来ないのと同じで、音の存在を知らず、聞いた事すらない歌の事をアレコレと判断出来るほど、幼い心音は理解出来ていなかったからかもしれない。
なので当然の事だが、知らない事に対して興味を持つと言った事もなかった。
しかし年齢を重ねる程に、テレビで楽しそうに歌っているアイドルや、街で楽しそうにカラオケ店に入っていく人の姿を見る事が増え、音楽とは何なのか? 歌とはそれほどに楽しい物なのか?……そんな興味を持つようになる。
そして、もし可能な事ならば自分も歌の何が楽しいのかを知ってみたい、そんな考えを持つようになり色々と調べるようになった。
心音が中学生になる頃には『手話歌』なるものが度々テレビや動画投稿サイトに流れるようになっており、目にする機会も増えてきた。
これだったら歌の楽しさが分かるかもしれない……意味が分かる『手話』を使ってくれているのだから自分にも理解出来るかもしれない、そう期待をして幾つもの動画を見てきたが、どれも意味が分からず、何をやっているのかさえ理解できないものばかりだった。
その為に、手話歌を見れば見るほど「この踊りのような振り付けは自分には関係のない物なんだ」……そんな感情だけが残り、それ以外の感情が芽生える事はなかった。
「でも今は無関心じゃなく嫌いだって感情が大きいんだよね? それって何か原因があったからじゃないのかな?」
心音には手話歌に対して嫌悪感が芽生えた原因として思い当たる事が一つあった。
それはとある日に目にした手話歌の動画なのだが、そこには投稿者の自己紹介が丁寧に書いてあった。
内容を読むと、投稿者は某所で手話教室を開いており、多くの生徒に手話歌を教えているのだと言う。
そして健常者の生徒には手話歌はとても好評で、素晴らしいと絶賛されているらしい。
自己紹介に手話教室への参加方法などが記載されていたので、心音は早速メールで要望や自分が感じた事を送ることにした。
自分が生まれつき重度の聴覚障碍者である事……
歌と言う物を知らないので、何が楽しいのかを教えて頂きたい事……
手話歌の歌詞が読み取れなく、日本語対応手話にもなっていない事……
歌詞全体の意味を捉えて訳し、日本手話で歌って頂きたい事……
それらをまとめて送ってみたが、返事が返ってくる事はなかった。
相手も手話教室や仕事などで忙しいのだと思い半年ほど待ってみたが、返事のないまま投稿作品だけが次々と増えて行く。
そして「感動しました」「手話歌って素晴らしい」と言った賞賛の意見が多く書き込まれる。
心音はその後も何度かメールを送ったが結局返事を貰う事は無く、かわりに
「私の手話歌は私独自の文法であり、聾者の方には読み取れないかもしれません」
と言った注意書きが自己紹介に追加されていた。
その後も何名かの連絡が取れる人物にメールを送ったが、結果は同じような事ばかりだった……
その時に心音は「手話歌とは健常者が楽しむ為の物であって、私達ろう者の為にあるのではない」……そう考えるようになり、以後手話歌に対しては嫌悪感を抱くようになったのかもしれない。
「でも、僕は間違った手話歌をそのまま覚えてしまったけど、中にはちゃんとろう者に伝わる手話歌をした動画もあるんじゃないのかな?」
一輝の意見はもっともである、ただ心音は嫌悪感を抱くようになってからは、動画投稿サイトもテレビのボランティア番組も極力見ないようにしていた。
見ても無駄、見ても嫌な想いをするだけ、そんな思いが「正しい手話歌があるかもしれない可能性」を見逃す事に繋がっていたのは否定出来ない。
「それは仕方ないよ、何度も続けて嫌な物を見たら、全部がそうだって思い込んでしまうのも当たり前だし」
一輝は心音の頭を優しく撫でた。
「でも、だったら尚の事分からないんだけど、心音にとって僕がやった手話歌は久しぶりに見るものだったんだよね? しかも昔に見た嫌悪感を感じる手話歌と同じで意味が分からない物だったんだろ? なのに嫌だって感じなかったのはどうしてなんだろうな?」
『たぶんそれわ かずくんのこころが こもってたから』
一輝の手話歌が愛おしく思えたのは、心音に歌の楽しさを伝えたい、その事だけを考えて一生懸命歌ってくれたから……心音を愛する気持ちがこれ以上ないほど伝わって来たからなのだと、そう気が付いた。
心音は手話歌が嫌いだったのではなく、ろう者に歌を伝える気のない人に嫌悪感を抱いていただけ……
最初からろう者の事など少しも考えず、自分が良い事をしているのだとアピールする目的で手話を利用している人が嫌いなだけ……ただそれだけの事だった。
「じゃあ、手話歌で聞こえない人達に歌の楽しさを伝える事が出来る可能性はあるって事だよね?」
『うん かずくんみたいに やさしいひとなら できるとおもうわ』
心音に褒められた一輝は照れながら、ある事を提案する。
「一つ思いついた事があるんだけど、僕が日本手話を覚える事って出来ないのかな?」
『かずくんが にほんしゅわを?』
「うん、今回の手話歌で間違えたのも、僕が正しい日本手話の事を知らなかったのが原因じゃないかな? 心音から二種類の手話がある事は教えられてたから知ってたけど、どこがどう違うのか、単語を並び間違えるとろう者はどう感じるのか、そのあたりをキトンと把握出来てなかったと思うんだ」
『うん……』
「だから日本手話を覚えて、僕自身が手話歌を作る事が出来たら……僕が歌詞の何を楽しく感じたかを訳す事が出来たら、きっと心音にも伝わる手話歌が出来ると思うんだ。」
一輝は嬉しそうな表情で話を続ける。
「それに僕が日本手話を覚えたら、心音との会話ももっとスムーズになるんじゃないかな? 心音だって口の形を読むより日本手話で話した方が楽に読み取れるだろ?」
『それわ そーだけど』
心音は一輝の提案に対する考えを話し始めた。
一輝が日本手話を覚えた場合、一輝の言葉が心音に伝わりやすくなるのは当然の事である。
だが逆に、心音が話す手話を目が見えない一輝が読み取る事は出来ない。
今まで通り心音からの会話は指点字になるが、一輝が手話を話すたびに指点字をしている心音と手を離さなければならない。
それらを考えると苦労をしてまで一輝が日本手話を覚えるメリットは少ないように思える。
「う~ん……確かにそうだよね、でも会話は今まで通りでいいとしても、やっぱり歌詞を訳すためには手話の勉強はした方がいいと思うんだけど」
暫く考えたあと何かを思い出したのか、一輝がある事を聞いてきた。
「そうだ、心音は触手話って知ってる?」
『しょくしゅわ? しってるけど どーして?』
「盲ろう者の人とコミュニケーションを取る手段に触手話があるって、福祉の授業で習った事があったのを思い出したから、これなら僕も心音もお互いの手を離す事なく、スムーズに話せるんじゃないかな?」
触手話とは目も見えず、耳も聞こえない人が会話をする為の方法で、お互いが両手を触れ合い、手の中で行われる手話の動きを感じ取る言語だった。
だが、手話を覚えるのは大変な努力と時間を要するものだった、ましてや手の平で動きを読み取る触手話なら尚の事である。
心音は一輝にそんな努力を強いても良いものか悩んだ。
「心音が何を戸惑ってるのかは分かるよ……僕が触手話を覚えるために無理をするんじゃないか、他の勉強に使う時間を無駄にするんじゃないかって心配してくれてるんだろ?」
『うん……』
「だけど僕達には時間がたっぷりあるんだよ? この先ずっと……そう、心音とは結婚して年老いるまでずっと一緒に居るんだから、今まで通り口話と指点字で話をしながら、少しずつ少しずつ触手話を覚えていけばいいんだよ」
突然の結婚話に心音は驚いた。
「だから、心音も僕と一緒に人生を歩んで行ってくれるだろ?」
『うん わたしわずっとずっと ずーっと かずくんといっしょにいる!』
その日から二人はよりスムーズな会話をする為に、触手話を覚えるべく練習に励むのだった。




