21.噴水の向こう sideスヴェイン&リリア
sideスヴェイン
いつものように、街の中央にある噴水の前で、第二王子の街の視察の引き継ぎを終えた。その日の任務も滞りなく終わり、夕暮れに染まりつつある街並みを見渡しながら帰ろうとしたとき、背後から部下が声をかけてきた。
「あれ? 隊長、今日は花屋に行かないのですか?」
彼の言葉に足を止める。噴水から少し離れた場所にある花屋は、いつも視察の帰り道に立ち寄る馴染みの店だ。店先には色とりどりの花が並び、柔らかな香りが漂っている。店主は明るく気さくな性格で、顔を合わせるといつも笑顔で迎えてくれた。
「ああ、レティは俺の邸の庭師とも仲が良くてな。庭師が丹精込めて育てた花を分けてもらうのを楽しみにしているんだ。だから、今日は花屋には寄らなかっただけだよ」
「そうなんですか」
部下は少し意外そうに頷いた。その視線は、噴水の向こうにある花屋の店先へと向かっている。ふと気づけば、いつもこの時間になるとこちらを見て手を振ってくれる姿が見当たらない。
「そういえば、いつも声をかけてくれるのに、今日は店先にいないな。忙しいのかもしれないな」
ぽつりとそう言いながら、どこか心に小さな違和感が芽生えた。
見慣れた光景が変わると、理由もなく寂しさを感じるものだ。だが、それを顔に出すのはなんだか気恥ずかしくて、軽く肩をすくめた。
「まあ、今日は花を買う予定もなかったし、逆に気を遣わせずに済んでよかったよ」
そう言って笑ってみせると、部下は少し悪戯っぽい表情で言葉を続けた。
「あの子、てっきり隊長のことを狙っているのかと思っていました」
「俺をか? はは、そんなことあるわけないだろう」
「そうですかね?」
部下は笑みを浮かべながら首を傾げた。
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sideリリア
夕暮れの街角は、静かに一日の終わりを告げていた。
柔らかなオレンジ色の光が石畳を照らし、足早に帰路を急ぐ人々の影を長く引き伸ばしている。花屋の店先には、色とりどりの花々が並び、風に乗ってほのかに甘い香りが漂っていた。その香りは、どこか懐かしくて切ない記憶を呼び起こす。
私は店先に立ちながら、目の前を通り過ぎる人々をぼんやりと見送っていた。
いつもこの時間になると、彼――近衛隊長のスヴェイン様が噴水の方から現れるはずだった。その姿を待つことが日課のようになっていたけれど、今日は違っていた。
「あら? 隊長さんが行ってしまうわよ。いいの?」
隣で鉢植えの手入れをしていたメアリーが、不思議そうに私を見上げた。夕陽に染まる彼女の赤茶の髪が輝き、無邪気な声が静かな店先に響く。その音色は、私の胸を静かに抉った。
「……いいの。もういいのよ」
自分の口から漏れた言葉は、思った以上に冷たく響いた。驚いたように目を丸くするメアリーの顔を見たくなくて、私は手元の花を直すふりをした。
その動作で震えそうになる指先を何とか隠した。
「え!? 諦めたってこと?」
その声に込められた驚きが痛かった。私はできるだけ平静を装いながら、肩をすくめてみせた。
「身分相応って言葉の意味をね、やっと理解したのよ。そういうこと。恋なんかしていないのだから平気よ」
軽く言ったつもりだったが、胸の奥に沈んでいるものを完全に隠すことはできなかった。手元に視線を落とし、花びらに触れる指先に意識を集中させる。けれど、その花々の鮮やかな色さえ、私の心には届かなかった。
あの人の婚約者――彼女の鋭い眼差しが頭を離れない。
初めて出会ったときのことが脳裏に鮮明に蘇る。美しい顔立ちに隙のない物腰。
お金をかけて手入れがされている令嬢を前に、恥ずかしさがこみあげてきた。
そして、あの目だ。
彼の隣に立つ彼女の視線は、まるで自分の内面すら見透かすようだった。あの目が、私の心に突き刺さり、私を無力だと告げていた。
「あなた、ちょっと本気になっていたのに」
メアリーの指摘に、心臓が大きく跳ねた。
彼女がそんなことに気づいていたなんて。目を見開いて彼女を見返すと、彼女はどこか憐れみを含んだ微笑みを浮かべていた。
「婚約者があれだけ彼を慕っている以上、私に勝ち目なんてないわ。夢だった花屋は開けたのだし、あとは静かに暮らすだけ。そうね、鍛冶屋のガルヴァンあたりで手を打つのも悪くないかもね」
冗談めかして笑ってみせる。
けれど、2度目に見た彼女の姿が頭をよぎるたび、その笑顔は薄れていく。
整った顔立ち、優雅な身のこなし――それだけならまだしも、あの目だ。自分のものを奪おうとする者に向けられる、冷徹で揺るぎない意思を宿した目。あの目が、私の思惑を鋭い剣のように切り裂いていった。
「やだ、あなた、手が震えているじゃない」
メアリーの言葉に気付いて、自分の手を見下ろすと、確かに微かに震えているのが分かった。そんな自分が情けなくて、震えた手を慌てて花束の陰に隠す。
「だ、大丈夫よ」
そう笑顔を作ろうとしたけれど、どこかぎこちなかったに違いない。
「……サラにも教えてあげないとね。貴族の令嬢を甘く見ないことね、と」
サラの姿が脳裏に浮かぶ。
彼女の軽やかな笑顔が、今はやけに心配になる。もしかしたら、サラの恋人にも婚約者がいるのかもしれない。そもそも近衛隊という立派な職に就いていながら、サラに身分を隠すなんて怪しいもの。それを知らずに――。
「いつの間にか消えていた……なんて、嫌だわ」
呟いた言葉は、小さな吐息とともに消えていった。
私は再び噴水の向こうを見つめた。彼の背中は、もう見えなかった。花屋の店先に漂う香りだけが、私を現実に引き戻していた。




