【九十 観音菩薩の想定内】
「ち、ちがうちがう!これはわしのもんじゃ!!」
観音菩薩は無言で矢をつがえ、放つ。
放たれた矢は黒風怪の粗末な着物を岩壁に縫い留めていく。
「何をする!そんなことをしてもこれは渡さぬぞ!」
錦襴の袈裟を黒風怪が自分のものだと主張するたびに観音菩薩は次々と矢を放つ。
両袖と裾を岩壁に縫い止められ、黒風怪は大の字になった。
「悟空、袈裟を」
「は、はい」
「こんなことをして……このキラキラの袈裟は絶対に渡さぬぞ!」
「あっ!」
黒風怪は一迅の黒い風に姿を変え、孫悟空の手を逃れて洞窟だった瓦礫の山の上に立った。
着物は岩に縫い止められたままなので、人型では全裸になってしまう黒風怪は黒い熊の姿になっている。
「悪ぃ、逃しちまった」
「大丈夫ですよ。想定内です」
謝罪する孫悟空に観音菩薩は微笑んで言う。
その一方で、当初は仕置きをしようと考えていた観音菩薩は黒風怪のすばしこさを目にして考えを改めることにした。
(手は多いに越したことはありませんからね……)
「大体なんでこれがわしのもんじゃないと思うんじゃ!」
黒風怪は唾を飛ばす勢いで牙を剥き出し怒鳴る。
「簡単なことです。その袈裟はこの私、観音菩薩が作ったものだからです」
「観音菩薩だと?あのお優しいお姿とお前は似ても似つかぬではないか!もっとまともな嘘をつくがいい!」
「嘘ではありませんよ」
鼻で笑う黒風怪の前で観音菩薩は一面二臂の、元の姿に戻った。
背後には金色のまばゆい後光を放ち、頭には宝石が散りばめられた宝冠をかぶり、胸元には繊細な金細工が目を引く二重の首飾り。
上腕と手首、足首には輪飾りを。
左肩から右脇腹に、斜めに下げた錦の条帛と、腰に巻いた裳は穏やかにゆらめいている。
(後光何割増だよ……)
孫悟空は観音菩薩のいつもより強い後光に目を細めながら腹の中で悪態をつく。
(観音菩薩め、何か企んでやがるな……)
一方で、まばゆいその姿に、光り物が好きな黒風怪は圧倒されたのち、憧れの眼差しで観音菩薩を見ている。
(悟空、あなたも菩薩身に変化なさい)
その時、観音菩薩が思念を孫悟空に送ってきた。
(ぼ、ぼさつしん??)
(私のような衣服を着た姿を真似て変化しなさいと言っています)
(何で?あの黒熊野郎をボコボコにするんじゃないのか?)
(気が変わりました。あの素早さと機転の速さは天の手として迎えたいとおもいまして。まあ盗癖があるので彼に任すのは主に庭木の手入れなどですが)
つまり、観音菩薩は黒風怪を自分の手駒の一つにしたいと考えを変えたわけだ。
「まさか本当に観音菩薩様とは……!」
何も知らない黒風怪はうっとりして金色の光を放つ観音菩薩を拝み見上げている。
「では、そちらのサルは一体……?」
黒風怪の変わり身の速さに笑いを堪えていた孫悟空に、観音菩薩が「はやく」と口をパクパクさせて変化をせかした。




