【七十六 観音菩薩、孫悟空の頭髪をむしり取る】
巨大な龍と蒼い巨鳥と真紅の哪吒太子。
薄灰色の雨上がりの空に並んで飛ぶ三者の、その後ろ姿はとても鮮やかで。
「うんうん、後ろ姿だけでも絵になるねえ」
恵岸行者が感慨深げに頷いて言う。
「さて、孫悟空」
「は、はいっ!」
観音菩薩に呼ばれ、孫悟空は背筋を伸ばして返事をした。
どうにも観音菩薩から緊箍児をつけられて以来、孫悟空は観音菩薩の前ではいつも通りではいられなくなる。
少しでも粗相をしたらあの冷たい目で、その静かな声で、延々と責め立てられそうで怖いのだ。
「大変でしたね」
しかし、観音菩薩から出たのは予想外の労わりの言葉で、孫悟空は拍子抜けしてぽかんと口をあけた。
「浄玻璃鏡で見ていましたが、あれほど玄奘が取り乱すとは私にも予想外のことでした」
「あ、あぁ……まぁ……」
あのまま六丁六甲が現れなければ、ずっと玄奘の気が収まるまで緊箍児を締められていたかもしれないと思うと、孫悟空は背筋が凍る思いだった。
「元々こちらとしては玉龍を足として用意していたのですが、皇帝がどうしてもとあの白馬を用意したので……」
「お師匠様はあの馬を……確か白露と名付けて可愛がっていたぜ」
孫悟空が馬の名を思い出しながら言うと観音菩薩は頷いた。
「おそらくその白露は、玄奘がお前の元へ向かうまでの間、唯一心許せる相手だったのでしょう。あの子はあまり人に心を開くことはないですから」
「えっ、それは……」
「あの子が赤子の頃に寺に預けられたことは知っていますね?そのことを知ってからあの子はどこか人と距離を置くようになってしまって」
どうせ親しくなってもいつかは別れる相手だから、当たり障りなく、上辺だけでいい。
「本人にその自覚はないのですが……」
そんなふうに語る観音菩薩は頰に手を当てて困ったように言う。
「お前とは、そうではないみたいですけどね」
ずいぶん短い間に仲が良くなったものだと観音菩薩は感心して言う。
「まあ俺様は人間じゃないし、なんて言ったって一番弟子だからな。でもこないだのあれはきつかった……なんとかならないか?また同じことがおきてもあの六丁六甲が来てくれるとはかぎらないよな?」
また混乱した玄奘に緊箍児を使われたらたまったものではない。
孫悟空の切実な訴えに観音菩薩は微笑んだ。
「何もずっと一人で玄奘(あの子)を守れと言っているわけではありませんよ。お前と玉龍の他にあと二名、天竺への旅に同行するものがおりますから」
そう言って観音菩薩は河伯に視線を流したが、孫悟空は気づかない。
河伯は恵岸行者と模擬戦のようなことをやっていて、彼もまた観音菩薩の視線と言葉には気づいていないようだった。
「うーん、仲間……か。どうせなら河伯も一緒だといいんだけどなあ」
孫悟空の言葉に観音菩薩はにっこりと微笑むだけにとどめた。
「いずれわかることです。その時を楽しみにしていると良いでしょう。しかし玉龍が加入するとはいえ、やはり手は多い方がいいのもまた事実……」
観音菩薩はそう言って孫悟空の頭の毛を数本抜いた。
「痛っ!」
突然ブチブチブチっとむしり取られた音がして孫悟空は涙目で頭をさする。
「失礼」
「謝るの遅くない?!」
観音菩薩は孫悟空に一言謝罪すると、フッとその毛に息を吹きかけた。そして、文句を言う孫悟空など気にも留めないで、その毛をまた孫悟空の頭に戻した。




