【二百三十八 清浄の間を支配する恐怖】
魔羅から溢れ出た瘴気は孫悟空たちの視界を奪い、魔羅の体を隠した。
「はは……っ!ふははははは!!!」
魔羅の高笑いが清浄の間に響き渡る。
「くそ、何してやがんだあいつは!」
孫悟空が叫んだ。
「とにかく何が起こるかわからない。八戒は准胝観音様たちを。孫悟空は観音菩薩様たちを守れ。俺はお師匠様の盾になる」
准胝観音と観音菩薩たちは金縛りにあったまま動けずにいるのだ。
「了解っ!准胝ちゃんはオレが守る!」
「しゃーねーな!」
沙悟浄が指示に従い、孫悟空、猪八戒はそれぞれの場所へと向かった。
ふたりを見送った沙悟浄は降妖宝杖を握り直し、瘴気が晴れるのを待った。
視界の開けない場所では迂闊に動かない方がいい。
(一体何が起こる……気をつけないと)
次第に瘴気が晴れていく。
そして、魔羅がついにその姿を表した。
「──なにッ!」
沙悟浄はその魔羅の悍ましい姿に言葉を失った。
人型の上半身に蛇の下半身を持った異形がそこにいたからだ。
人型の上半身は黒い肌をして五対の腕を生やしている。
その腕の一本一本は逞しく、それぞれに斧、剣、弓矢、杵、輪、索などが握られている。
目の数は人と同じ場所に二つ、額に三つと五つ。
目の色は蛇の時と同じ黄色に赤と奇妙な色。
口を開くと二股に分かれた真っ赤な舌がチロチロと覗く。
それは黒い肌とは対照的で、さらに異様な雰囲気を増している。
整った顔立ちのはずなのに、その異様な様相に沙悟浄は怖気が止まらない。
蛇の下半身は金色のまま変わらず、ひしめく鱗甲がギラギラとしている。
「ぐ……!」
沙悟浄が感じているのは本能的な恐怖と拒絶感。
言葉さえ出てこず、歯を食いしばり逃げ出したくなる恐怖に耐えている。
対峙するだけで押し寄せてくるのは圧倒的な力の差の気配。
捲簾大将であった時にもこんな化け物と対峙したことはなかった。
足がすくむ。
動けない。
沙悟浄は生唾をごくりと飲み、浅い呼吸を繰り返しながら視線を動かして孫悟空と猪八戒の様子を伺った。
それは孫悟空たちも同じだったみたいで。
彼らも恐怖を感じながらも魔羅から視線外すことも、動くこともできずにいる。
「何ということでしょう……」
観音菩薩は声を震わせた。
「か、観音菩薩、アレ、魔羅ってやつはニセモンからホンモンになっちまったのか?」
いつもは勇ましい孫悟空も尻尾をだらりと下げて恐怖感を隠せずにいる。
「いえ、本物は釈迦如来様が押さえています。今も。アレが分身なのは確実。ですが本物に近い力を感じます」
「か、観音菩薩、様……どうしたら……某、何も策が思い浮かびませぬ……ッ!」
観音菩薩の隣にいた文殊菩薩は恐ろしさに途切れ途切れの言葉で呟いた。
「大丈夫、大丈夫ですよ、文殊。大丈夫」
そう言いつつ、観音菩薩自身も汗が止まらなかった。
このままではかっての故郷、崑崙山を守ることはできないかもしれない。
金縛りでいまだに動けずいる自信の修行不足を呪った。
(アレとは格が違いすぎる……!)
「じ、准胝ちゃん、あれ……」
「……うむ」
「准胝観音様……」
猪八戒は及び腰になりつつも、気力を張って准胝観音と普賢菩薩の前に立ち続けた。
「こんなことを言ってはならないのでしょうが、逃げ出したいです」
「普賢……」
震える普賢菩薩に、准胝観音も言葉が出なかった。
普段勇ましい准胝観音だが、彼女でさえ魔羅に対して恐怖を感じないことはできなかった。
(この妾が魔に恐れを成すとは……!)
しかもいまだに金縛りで身動きが取れずにいる。
准胝観音は体に力を入れ、なんとか金縛りを解こうとするが、恐怖心から「もういいんじゃないか」という諦めの心も湧いてくる。
それもまた、魔羅の発する瘴気の影響なのだろう。
(いいわけ、あるか……っ!)
准胝観音は魔羅の姿を睨みつけることしかできずにいる自身を不甲斐なく思い、歯を食いしばった。
「なあ、あれはまずいんじゃないか?」
魔羅との戦いを見ていた鎮元大仙が焦って言う。
三人は太上老君の宝貝で作った結界の中にいるため、魔羅の瘴気の影響を受けていない。
「ふむ……」
まだ目覚めない元始天尊を手当てしながら頷く太上老君の表情も曇っている。
その手当てを手伝いながら、須菩提祖師は少し考え、口を開いた。
「あの子たちはきっと大丈夫だよ。ウチらは見守ろう。でも、もしもだけど……あの子たちが負けるようなら出られるように準備はしておこうね」
「そうだな」
「うむ」
「さあ、そのためにも元始天尊には早く目覚めてもらわないとね」
須菩提祖師たちは孫悟空たちを気にかけつつ、元始天尊の手当てに集中した。




