【百八十三 廉黒曜の誘惑】
ふわりと、酒の香りがあたりに漂う。
「当館秘蔵の般若湯にございます。どうです?良い香りでしょう?」
「確かに良い香りですね。ですが本当に結構で……」
廉黒曜は身を乗り出した。
「お坊様、うちの娘たちは如何です?親の贔屓目を抜いても、どの子も器量の良い娘なんですよ」
「え、ええ、そうですね……?」
突然なんの話だろうか、と酒の匂いにクラクラしながらもう玄奘は廉黒曜の話に耳を傾ける。
「私は後家としてこの家に嫁いだのですけど、その数年後に夫は先立ってしまうし、玉瑞館を女手だけで切り盛りするのは大変で……」
「そうですか……それは大変ですね」
「私もいっぱいいっぱいで毎日辛くて……」
廉黒曜は玄奘にしなだれかかるようにして言う。
「え、えっと……黒曜様?」
そして潤んだ目で上目遣いに見つめられ、玄奘は困惑した。
──というのも、これは廉黒曜の作戦だった。
弟子たちの玄奘の守りが堅いため、まずは三姉妹に弟子たちの気を引かせて玄奘に廉黒曜が近づく。
玄奘に酒を飲ませて酩酊状態にし、朝起きたら玄奘と三姉妹が一つの布団で目覚めてもらう。
そう言う筋書きだ。
(なんとしても玄奘さまにお酒……いえ般若湯を飲ませなくては。玉瑞館存続のためなら、私は地獄に落ちてもかまわない……っ!)
「黒曜様……」
「どうか私を憐れと思うのなら、一献……」
言っていることはめちゃくちゃだが、なんとしても玄奘を酔いつぶさねばと廉黒曜は決意を込めてぎゅっと瓶子の取手を握った。
廉黒曜の辛い気持ちが楽になるように、話を聞くことはできるが酒を飲むことはやはりできない。
玄奘はどうしたものかと思案し、ふと目に入った廉黒曜の手に気づいた。
ふっくらと肉付きのいい手だが、水仕事で荒れている。
その痛々しさに玄奘は悲しくなった。
と同時に、廉黒曜の母として、女将としての強さも感じた。
「この手、大丈夫ですか?痛いですよね……」
「いえ、あの、これは……っ」
廉黒曜は自分のボロボロの手が恥ずかしくて、隠すように袖口で覆った。
「大切な方を亡くされて、でも悲しむ暇もなく娘さんたちと共に宿を切り盛りされて、本当に黒曜様は素晴らしい方ですね」
「そ、それはどうも……」
玄奘の優しい言葉に廉黒曜は久しぶりの胸の高鳴りを感じていた。
(あら?これ私でも行けそう?もしかしてお坊様は年上好きなのかしら……)
「私は母とは生き別れになっておりまして。つい母と重ねてしまいました。ごめんなさい」
「い、いえ、いいんですよ……」
玄奘の言葉に廉黒曜は少しがっかりしたような、ホッとしたような複雑な気持ちになった。
「私は小さい頃から寺に預けられていまして、仏さまの教えを守ればいつか、母に会えると信じてきました。ですからお酒を飲むことはできません。ごめんなさい」
「い、いえ、それならば……仕方、ありませんわ……」
廉黒曜はどう返したらいいか咄嗟に思い付かずにそう答えた。
「それにしても黒曜様のこの手、本当に痛そう……」
廉黒曜のあかぎれだらけの手を痛々しく思った玄奘は、懐から軟膏を出して廉黒曜に渡した。
「この軟膏よく効くんですよ。私も寺での水仕事で手を荒らすことが多かったものですから……私の使いかけで申し訳ないのですが、よかったら使ってみてください」
そう言って微笑む玄奘に、廉黒曜はほおを染めた。
「あ、ありがとう……ございます……」
(落ち着くのよ、私はもうおばさんなんだから、ときめくだなんて……!)
気恥ずかしくなったのか、廉黒曜は玄奘から目を逸らした。




