【百七十三 玄奘、瘴気の中で過去の声と対峙する】
瘴気に飲み込まれた玄奘はあたりをゆっくりと見回した。
薄暗く不気味なそこは生暖かく、重苦しい気配に満ちている。
岩壁だらけで寒く乾燥していた黄風嶺とは正反対の湿り気のある陰気な場所だ。
そんな場所から玄奘を守るように、錦襴の袈裟が白く輝き始めた。
この袈裟を作った観音菩薩の守護の力が発動したのだろう。
暗闇の中、孤独感に押しつぶされそうになっていた玄奘だったが、袈裟から発せられる清らかな光にホッとした。
すると、どこからか声が響いてきた。
《お前はいいよな、沙和尚に巡り会えたんだから》
《おいらも沙和尚に会いたかった》
《もっと一緒に過ごしたかった》
様々な年齢と性別の声だ。
低かったり高かったり、しわがれていたり幼かったり。
九つの声が玄奘に向けて羨むようなことを囁いてくる。
《ずるいなあ……ずるいなあ》
《なあ、お前の体よこせよ》
耳元で聞こえた声に玄奘は驚き思わず耳を塞いだ。
《お前はまだ生きているなあ。羨ましいなあ》
耳を塞いでも、声は頭の中に響いてくる。
「玄奘君、惑わ……ないで……君がここ……時点で君の……過去世……転生は完了……それは……単……残留思念……」
恵岸行者の声が、ねちこい恨み言に混じって途切れ途切れに聞こえてくる。
恵岸行者の言葉から考えられるのは、この恨み言はあの首飾りの頭蓋に残った残留思念だろうということだ。
その残留思念が瘴気となり、玄奘を閉じ込めているのだろう。
玄奘の体を奪うために。
「でも、おかしいですね……」
玄奘は首を傾げた。
馮雪はともかく、それより後の過去世の記憶を辿る限り、彼らが沙和尚のことを思い出したことなどなかったはずだ。
「あなたたちは何者です?本当に私の前世の方たちなのですか?」
玄奘は蠢く瘴気に鋭い視線を向けて問いかけた。
だが瘴気からの返事はなかった。
ただ「お前が羨ましい」「お前の体をよこせ」と繰り返すばかりだ。
《おいらを助けてくれなかった沙和尚は、薄情ものだ!》
「違う!」
何度も夢で見た馮雪の強い声に、思わず玄奘は反論した。
「そんなこと、私は一度も思ったことはない!沙和尚を薄情者だなんて!」
転生を繰り返してきた中でも、馮雪の記憶が一番強い玄奘には断言できた。
おそらく河伯は何百年も何千年も友人を想い骸をその傍に置いて過ごしていたのだ。
「私は今世まで沙和尚のことを忘れていました。薄情者は、むしろ私の方です……っ!」
玄奘は九重の錫杖を手にしてそれを力一杯暗闇の中に突き立てた。
九つの輪が触れ合い、涼やかな音が響いた。
その途端、玄奘にまとわりついていた瘴気が霧散する。
目の前が開け、夜明けを迎え朝日に染まる黄風嶺が姿を表す。
「沙和尚!!」
玄奘は開けた視界の先でうずくまる河伯の元へと駆け出した。




