【百六十七 玄奘と恵岸行者】
玄奘は恵岸行者に頭を下げられ、驚き慌てた。
「恵岸様、どうして私のことを“弟弟子”と呼ぶんですか?」
「あなたは釈迦如来の二番弟子なのでしょう?その時の我が師の弟弟子だと聞いているので」
顔を上げた恵岸行者がにっこりと笑って言うと、玄奘は困惑した。
(また、今の私ではなく過去世の私……)
目の前の自分を見てもらえていない感覚に、玄奘はとてつもない不快感を覚えた。
河伯といい、この恵岸行者といい。
観音菩薩や准胝観音、霊吉菩薩もだ。
玄奘にも多少過去世の記憶があり、親しみを持って接してくれるのはありがたいが、玄奘にとっては決していい気分ではない。
(こんなふうに思うのは、私もまだまだかもしれませんが……)
貪瞋痴という心の三毒の一つに瞋恚というものがある。
簡単に言えば怒りだ。
他のことなら大抵やりすごせるが、何度も何度も過去世のことを引き合いに出されては、流石の玄奘も心穏やかではいられない。
「弟弟子くん?」
顔を覗き込んできた恵岸行者を、玄奘はキッと見上げた。
「違います!確かにかつての私は釈迦如来様の元にいました。ですが今の私はただの人間の僧です。どうか私のことは玄奘とお呼びください。恵岸行者様!」
言い終わってから玄奘は「やらかした!」と思った。
自分が思ったより大きな声が出てしまったからだ。
ずっとずっと重ねてきたものが、強い語気に反映されてしまったのだろう。
だが話している途中からそれに気づいていても止まらなかった。いや、止まれなかった。
目の前の恵岸行者は目を丸くし、傍で黄風大王と虎先鋒を治癒していた霊吉菩薩と八爪金龍も何事かと言う顔をし、孫悟空と玉龍は不安そうに玄奘を見ている。
河伯と猪八戒の戦う大きな音がするはずなのに、全く聞こえない気がした。
視線を一身に浴び、不安が玄奘の中で大きく広がっていく。
「あ……す、すみ……っ!」
慌てて謝ろうとした玄奘の唇を、恵岸行者が人差し指を縦にして止めた。
そして玄奘の言葉の強さなんて全く気にしていないように、にっこりと笑った。
「わかったよ、ごめんね玄奘君。君のことは玄奘君と呼ぼう。自分のことは恵岸と呼んでおくれ」
「は、はい恵岸様」
「様はいらないんだけどなあ」
恵岸行者は眉尻を下げて困ったように笑う。
「いえ、観音菩薩様のお弟子様を呼び捨てになど!」
玄奘の言葉に恵岸行者は苦笑したまま口をへの字に曲げた。
「はぁ〜あ、真面目、真面目だね玄奘君。それに結構頑固」
「これ恵岸よ、遊んでおらんでさっさと玄奘に説明せよ」
そこへ霊吉菩薩の苦言が飛んできた。
恵岸行者は肩をすくめ、頭をかいてから表情をきりりと引き締めた。
「承知しました。さて玄奘君、河伯サンを止めるためには、彼が身につけている首飾りをなんとかしなくてはならないよ」
「はい」
「あの骨は君の前世たちの骨だ。わかるかい?」
恵岸行者の言葉に、玄奘は頷いた。
「猪八戒殿が河伯サンを抑えているうちに、我々で瘴気を浄化しよう」
「はい……えっ?私たちで、ですか?」
「九つ分の命の浄化だ。しかもかなりの年月ゆっくりと溜まってきたもの。難しいけどこれしか方法がないんだ」
重大な役目に困惑する玄奘の肩を掴み、真剣な表情で恵岸行者が言う。
「私にできるでしょうか……」
河伯の体にまとわりつく瘴気の量は、マルティヤ・クヴァーラと戦った時のそれよりもはるかに多く、大きく見える。
玄奘は不安になった。
「なに、そんな顔をするな玄奘。ワシも共に浄化をおこなう。難しく考える必要などないぞ」
霊吉菩薩は玄奘の不安を吹き飛ばそうとしてくれたのか、明るく笑って言った。
「黄貂らの回復が終わったら、この八爪金龍と玉龍の如意宝珠で其方らの力を増幅させよう。
大丈夫、大丈夫」
続けて言う霊吉菩薩の言葉を肯定するように、八爪金龍も頷く。
「ボクも頑張る!おシショー様、一緒に頑張ろ!」
玉龍は玄奘の手を握って言う。
見上げてくるまっすぐな目。
振り返ると孫悟空もまた、力強い視線を向けて頷いた。




