【百五十四 恵岸行者、蘇千村にて正体を明かす】
河伯の住処近くに気絶した道士を放っておくわけにもいかず、恵岸行者はそこから1番近くの蘇千村へと雲に乗ってやってきた。
「どこか明かりのついているところは……」
時刻は亥の刻から子の刻に差し掛かる頃だ。
普通の人間なら寝静まっている頃だろう。
「夜分遅くにすまない。この道士の手当を頼みたい」
恵岸行者は蘇千村でまだあかりがついている建物の戸を叩いた。
「ああん?誰だい?ったく、普通に開けて入ってこいよ……」
開かれた戸の向こうからは酒と料理の匂いがする。
それから賑やかな男たちの話し声と笑い声。
戸を開いた恰幅のいい大柄の男は赤ら顔で、目がトロンとしている。
「こ、これは!先生、大丈夫ですか先生!!おい、みんな来てくれ!先生が!」
男は恵岸行者に背負われている道士をみると酔いが一発で覚めたのか、大声で店の中の男たちを呼んだ。
ほろ酔いになっている村の男たちは何事かとやってきて、道士の姿を見ると皆一様に驚き狼狽えた。
恵岸行者は男たちに道士を預け、店の奥の座敷に横たえてもらった。
「応急手当てはしてある。深手は負っていないから、じきにに目が覚めると思う。この寒さで外に置いておけないから連れてきた。すまないが彼の面倒を頼みたい」
恵岸行者がそう言うと男たちは「もちろん」と深刻そうな顔をして頷いた。
「あの、先生はどうしたんです、やはり河の妖怪に……それに、あんたは?」
店主と見られる男が恵岸行者に尋ねていると、再び店の戸が乱暴に開かれた。
「あんたたち!いつまで飲んでるんだい!いい加減にしないと家にかんぬきつけて締め出すからね!」
店に入ってきたのは鬼の形相をした村のご婦人方だった。
おそらく遅くまで飲んでいる亭主たちに、とうとう堪忍袋の緒が切れて乗り込んできたのだろう。
その先頭にいた見覚えのある婦人に恵岸行者は目を丸くした。
以前、河伯のところに行く前に寄った糫餅屋の女性だ。
「って、あら、アンタこんなところで何してるんだい?また肝試しかい?やめなやめな、危ないことをしても何にもいいことないよ」
「あ、糫餅屋のおば……ンン、お姉さん!」
「今、流沙河は気味が悪くなっちまってね。ある高名な道士様に村から妖怪退治を依頼したのさ」
「いやかあちゃん、その道士様が大変なことになってるんだよ!」
女性の夫と見られる男が手招きをする。
女性たちは奥に横たわる道士にようやく気づいたようで、驚いて顔を見合わせた。
「そこの兄ちゃんが先生を連れ帰ってきてくださったんだよ」
「あらまあ〜!」
恵岸行者は店を出る機を失い、どうしたものかと思いながらも感心したようにため息をつく婦人方に愛想笑いをした。
「自分はこれからこの先生に代わって妖怪を退治してきます」
「あら無理よぉ、あぶないわ!この先生でも太刀打ちできなかったんだもの!」
「んだんだ、こうなったら国に頼むしかあるめえて」
「そうだよねぇ、村長さん」
「そうだな、早馬で近くの駐屯所に文を飛ばそうか。誰か行ける者はおらんか」
そう言って長い髭を蓄えた村長が辺りを見回すが、男たちは皆赤ら顔で、馬を飛ばせるような状態ではない。
「その心配はありませんよ。自分が妖怪退治を請け負いますから」
「やめときなって」
制止する村の人々に恵岸行者は微笑み、姿を変化させた。
それは観音菩薩の脇侍の衣装を見に纏った、童子の姿だった。
「あ、アンタ一体……」
「自分は恵岸行者といい、観音菩薩様にお仕えしています。自分が流沙河を元に戻してきますから、皆さんはそこの先生をどうかお願いします」
恵岸行者の言葉に、蘇千村の人々は口をポカンと開けている。
恵岸行者は今のうちに、と飲み屋を後にした。
扉が閉まってからようやく我に帰った村の人々は、全員その場に跪いて手を合わせた。
「ああ、ありがたや、ありがたや……」
恵岸行者はすぐに姿を元に戻し、雲を飛ばして河伯の飛んで行った方へと向かった。
「うう寒い。あの格好寒くて嫌なんだよな……」
その時、上空を光が駆け抜けていった。
「あれは……」
目を凝らすと光は太白金星で、その後からは孫悟空たちが雲に乗ってついていっていた。
先程見かけた砂に攫われた玄奘を追いかけてきたのだろう。
「自分も急がねば……!」
恵岸行者もその光を追って雲の速度を上げるのだった。




