【百五十二 黄風大王、誘拐の目的を語る】
河伯から逃れ、八百里黄風嶺にある、黄風嶺黄風洞にようやく辿り着いた黄風大王は、ぐったりと椅子に腰掛け机に突っ伏した。
「はぁ、はぁ……なんとか逃げ切れたッチ……」
黄風大王は動けなくなっているので今が逃げるいい機会なのだが、彼の見た目が小動物の可愛らしさゆえか、疲れ切った彼を放っておくのが憚られた玄奘は、石造の居室で居所なくキョロキョロとあたりを見回す。
黄色い岩壁に、黄色く塗られた机。
棚の上には黄色い小花が花瓶に生けられている。
(この妖怪は黄色が好きなのでしょうか……)
妖怪が身に纏っているのは黄色い外套だ。
「す、すまないッチが、そこの甕から水をとってほしいッチ……」
水甕の隣にある棚の上には見覚えのある妖怪の絵が置いてあった。
「この方……黒風怪さん、でしたっけ……?」
「まだッチか〜?!もう柄杓のままでいいから、早くしてくれッチ……!アチシはもう動けないッチ……」
玄奘が記憶を辿ろうと目を閉じていると、黄風大王に急かされた。
「あ、すみません!」
玄奘は急いで甕から水を掬うと、「早く」と手招きする黄風大王に持って行った。
「いや〜、使って悪いッチね!」
柄杓を受け取った黄風大王は、意外にも律儀に玄奘に礼を言った。
「んぐ、んぐ、んぐ……ぷはー!生き返るッチ!」」
黄風大王は小さな手で柄杓の柄を持ち、口の端から水をこぼしながら必死で水を飲む。
その様子が可愛らしくて、誘拐されたことも忘れて玄奘は顔を綻ばせた。
そんな玄奘の視線に気づいた黄風大王は、牙を剥き出しキッと睨みつけた。
「何ッチか!見せもんじゃないッチよ!」
そう言って、黄風大王は口の端を乱暴に袖で拭った。
可愛らしい外見と荒々しい仕草の差に、玄奘の笑みは無意識のうちに深まってしまう。
「あ、アチシだけ飲んで悪いッチね、アンタも喉が渇いてるなら飲んでもいいッチよ」
玄奘の表情を見て誤解した黄風大王は、気まずそうに言って柄杓を差し出した。
「いえ、私は大丈夫なので、お気持ちだけで」
柄杓を受け取った玄奘は甕の蓋の上にそれを戻す。
「ところで……あの、この絵は……黒風怪さんですよね?」
そして気になっていた絵を持って黄風大王にたずねた。
黒風怪の名前に耳をピクリと動かし、黄風大王は体を起こして薄桃色の鼻をヒクヒクさせた。
「そうッチ!黒風ッチとアチシはお友だちッチ!アチシは黒風ッチからアンタのその袈裟の話を聞いて、欲しくなってアンタをさらったッチよ!さあそれを寄越すッチ!」
黄風大王は椅子から降りて玄奘に小さな黒い前足を向けた。
彼の背丈は立ち上がると玄奘の膝下くらいまでしかないが、あの砂塵を操る大きな力を持った妖怪だ。
(可愛らしいけど油断は禁物ですね……)
玄奘は九重の錫杖をぎゅっと握り、黄風大王に視線を合わせるよう身をかがめた。
「それはできません。この袈裟は観音菩薩様からいただいた大切な袈裟なのです」
「黒風ッチもそう言ってたッチ……でもそれなら力尽くでいただくまでだッチ!」
「──っ!」
黄風大王が爪をぎらつかせて玄奘に飛びかかろうとした時だった。
ゴォオオン!
突然、大きな音を立てて飛んできた虎先鋒が岩壁を突き破り、黄風大王の頭に直撃したのだ。
「きゅう……」
それは凄まじい音と衝撃だった。
衝突した黄風大王と虎先鋒の二人は目を回し、泡を吹いてピクピクしている。
「大変!ど、どうしましょう……とにかく手当、手当ですね!」
この隙に逃げればいいのに、やっぱり人の良い玄奘は彼らを放っておくことはできず、手当ての支度を始めたのだった。




