【百五十一 黄風大王、砂塵の速度を上げ河伯から逃亡する】
流沙河に立ち込める、息が詰まるような重苦しさと静けさに恵岸行者の手のひらは汗ばみ、宝剣と青龍刀を落としてしまいそうだ。
(まずいな……)
以前、恵岸行者は正気を失った河伯と直接打ち合ったことがある。
その時には感じられなかった、言いようもない不気味さと、河伯からひしひしと発せられる言葉ではうまく説明のできない圧力に、恵岸行者は焦っていた。
(落ち着け、落ち着け……)
恵岸行者の頬を汗が滴り落ちていく。
河伯は恵岸行者を見たまま動かない。
「フー……」
ぎゅっと剣の柄を握り、恵岸行者は大きく深呼吸をした。
その時だった。
突然、轟音を立てながら黄色い砂嵐が上空を駆け抜けていった。
「お、弟弟子君?!」
その中に玄奘の姿を見つけ、恵岸行者は驚き叫んだ。
「アレハ……!」
河伯もそのことに気づいたのか、虚だった目を驚きに開き、砂嵐を追ってかけだした。
「あっ、待て!」
恵岸行者も後を追おうとしたが、気絶した人間の道士を放っておくわけにはいかない。
しばらく迷った恵岸行者だったが、青龍刀と宝剣を鞘におさめ、河原に横たえた道士の元へと戻った。
「ある意味助かった……が……」
気絶した道士を背負い、流沙河上流から一番近い村に向かう道中、恵岸行者の内心は穏やかではなかった。
観音菩薩の側近として、托塔李天王の息子として、哪吒太子の兄として恵岸行者は戦いの腕に自信があった。
なのに。
「手も足も出ないとは情けない」
モヤモヤとする気持ちと悔しさを踏み潰すように、恵岸行者は河原の石を踏み締めて歩き出した。
「あの!私をどこに連れて行く気ですか!」
黄風大王の風に囚われた玄奘は、その拘束から逃れようと身を捩る。
この小動物の細腕のどこに力があるのか、玄奘は身動き取れずに大声を上げるしかない。
「こ、こら、暴れるなっチ!もうすぐアチシの棲家ッチ!とにかく黙って……」
黄風大王はそこまで言って、突然ビクリと体を震わせた。
「私は天竺に行かなければならないのです!あなたに捕まっている暇は……」
「シッ……黙るッチ!何か、妙な気配が……」
そう言って小さな手で玄奘の口を塞いだ黄風大王は、背後に視線を移した。
「──ッヒッ!」
何を見たのか、小さな悲鳴をあげた黄風大王は前に視線を戻した。
黄風大王が見たものは、自分たちを追ってくる黒いモヤの塊。
夜の闇よりさらに濃い黒いモヤは不気味で、そこからひしひしと伝わってくる殺気に黄風大王は半泣きになった。
「どうしたのです?貴方は一体何を見たのですか?」
そんな黄風大王の様子を怪訝に思った玄奘も後ろをみようとしたが、砂煙で何も見えなかった。
そんな玄奘の頭を、黄風大王はぐいっと引っ張り戻した。
「やばいものが追いかけてきてるッチ!おいオマエ、口を閉じるッチ!逃げ切るため速度上げるッチ!」
「へ?──ッわぁ!」
「三昧神風──加速ッ!」
黄風大王が唱えると、ゴオッと音を立てて砂煙は速度を上げた。
「さらに目眩しッチ!」
黄風大王が指を鳴らすと、砂煙の一部が切り離されその場に留まった。
「これでなんとか行けるッチ……!」
黄風大王は背筋がソワソワする感覚から逃げようと、ただ前を向いてひたすらに進むため、風を操るのだった。
河伯は砂塵の中に懐かしい感覚を感じ、本能的にそれを追ってきた。
瘴気に蝕まれ正気を失いかけていたが、ずっと追ってきた馮雪と同じ気配を纏ったものを感じたからだ。
「?!」
しかしもう少しで追いつきそうなところで足止めを喰らってしまった。
目の前に砂煙が壁のように広がって、河伯の進路を妨害したのだ。
「フウセツ……今度こソ……!」
河伯は首に下げた髑髏を撫で、小さくその名を呟くのだった。




