【百五十 恵岸行者と瘴気をまとう者】
恵岸行者が急いでその場所まで走ると、そこには薄汚れた道服を着た傷だらけの道士が倒れていた。
「大丈夫か!?」
恵岸行者は彼を助け起こし、少しずつ水を飲ませる。
「ありがとうございます……川下の村人たちから依頼を受け、この瘴気をなんとかしようと思って来たのですが、私は未熟だったようです……」
そこまで言うと、突然、道士はビクリと体を硬直させた。
それからガタガタと震え始め、警戒するように辺りを忙しなく見回す。
「どうした?!」
「奴が、奴が……来る……!」
怯えた様子の道士は、恵岸行者の服を掴みながらそう言うと気を失った。
恵岸行者は道士を草むらに横たえると、首を傾げた。
「奴……?一体なんのことだ?」
疑問に思って顔を上げると、ぶわり、と一層黒く濃い瘴気を纏った大きな“なにか”がそこにいた。
目を凝らしてよく見ると、それは黒い瘴気を纏い膨れ上がった河伯だった。
「……河伯サンかい?その姿は一体どうしたんだい……?」
膨れ上がったと言っても、以前のような肥満体ではない。
肉体はむしろその逆で、あまり食べていなかったのか、痩せ細って見える程だ。
かつて仙女たちから熱い視線を受けていたその美貌は影も無く、炎のようだと褒められていた赤い髪は整えられることなくボサボサに乱れている。
まるで枯れた箒草のように。
そして、そのガリガリの体を瘴気が鎧のように覆っている。
「河伯サン?」
「……」
恵岸行者の問いかけには全く答えず、河伯は俯いたまま足を引き摺るようにして向かってくる。
ガシャ、と河伯が動くたびに、首から下げた九連の髑髏が擦れて音を立て真っ黒な瘴気の霧が吹き上がった。
それはこの流沙河に立ち込める瘴気と同じものだ。
「それが原因か!河伯サン、その髑髏を今すぐ捨てるんだ!」
恵岸行者がいうと、それまで俯いていた河伯はゆっくりと顔を上げた。
その顔を見た恵岸行者は言葉を失った。
落ち窪んだ目は虚で、不気味だ。
いつから河伯はこのような状態だったのだろう。
遠隔で打ち合う時になぜ気づかなかったのだろうと恵岸行者の胸は痛んだ。
「コレヲ……捨てろ、ダト……?捨テロ……だと……?!」
(しまった!)
彼のもつ髑髏は、玄奘が人の世の転生を繰り返してきた時の骸たちだ。
かつて河伯が捲簾大将として天界で勤めていた時、降りた下界で玄奘の前世の人間と出会い交流を深めていたという。
だがある時、自分がいない時にその人間が命を落としてしまった。
それ以来、何度か転生を繰り返したその人間を救おうとしてもいつも間に合わず、その骸だけが河伯の元に集まって行ったのだ。
そんな河伯の並々ならぬ髑髏への執着を失念していたと、恵岸行者は心の中で舌打ちをした。
河伯の感情に呼応するように、髑髏から出る瘴気の量は増していく。
「手放さないというなら、力ずくで取り上げるまで……!」
恵岸行者は素早く青龍刀を抜き、河伯へ飛びかかった。
「ふん……っ!」
だが河伯は武器も持たずに素手でそれを受け止めた。
「なに?!」
河伯の腕は瘴気に覆われていて、それが防具のように彼を守っているのだ。
河伯はその痩せ細った体に似合わず、凄まじい力で青龍刀の刃を掴んで離さない。
「く……っ!」
焦る恵岸行者を見て、何がおかしいのかニタリ、と河伯が口角を上げた。
河伯を覆う黒い瘴気が、ゆっくりと恵岸行者に伸びてくる。
その不気味な様子に恵岸行者の肌が粟立った。
「我が呼び声に応じ、来い!宝剣よ我が手に!」
恵岸行者の呼び声に、河伯の住処から宝剣が飛び出してきた。
「やはりここにあったか!」
恵岸行者を目掛けて飛んでくる宝剣に河伯の気が逸れた。
恵岸行者は河伯から逃れ、飛んできた宝剣を掴むと、一飛びで流沙河に転がる岩の上に移動した。
「……」
そんな恵岸行者を目で追い、河伯は無言でゆっくりと降妖宝杖を構えた。




