【百四十九 仙女・太白金星】
玉龍のそばにいる女性は、長い黒髪に桜の髪飾りを挿している。
そして夕日か朝焼けかのような鮮やかな朱の衣に薄い黄色の羽衣を羽織った彼女はゆっくりと口を開いた。
「そんなに身構えずとも良いですよ。わたくしは太白金星。あなた方を助けに来ました」
「太白金星だって!?」
女性の名に猪八戒が驚いている間に、太白金星はスススと音もなく近寄り、孫悟空の目に触れた。
玉龍も孫悟空と猪八戒の元にかけてくると、孫悟空の白く濁った目の様子に驚き悲鳴を上げた。
「えっ、ゴクウってば、その目どうしちゃったの?!」
「これは……ひどいですわね。あなたにもいまお薬を……さあ、そこの大きな貴方、この辺りににこの方を横たえて……」
猪八戒は、太白金星の指示に従い、自分の外套を外して敷き、その上に孫悟空を寝かせた。
太白金星は腰に下げていた巾着から雫型の器を取り出すと、孫悟空の下瞼を下げてそれぞれ両目に数滴垂らした。
さて、流沙河下流で孫悟空たちが太白金星の手当てを受けていたその頃、流沙河の上流。
ここは下流に比べてもっと寂しく寒い場所なのだが、最近ではそれに加えてあたりに黒いモヤが立ち込め、視界も悪い。
「これは、いかん、いかんぞ……!」
そこを訪れていたのは一人の道士。
彼は青ざめた顔をして河原脇にある洞窟前に佇んでいた。
彼はこのモヤを消し去ってみようと豪語してここまで来た、人々の間ではそこそこ名の知れた道士である。
「なぜこんなことに……」
黒いモヤはその洞窟から混々と水のように湧き出している。
それを見た道士の額には脂汗が浮き、自らを守るための印を組みながらその場に立つのがやっとだった。
じゃらり、と洞窟前の蔦が風に揺れ、その度に中からモヤが溢れてくる。
そのあまりの量に道士は言葉を失う。
それと同時に、その奥から得体の知れない圧と、「何か」が出てこようとしているのを感じた。
その「何か」に自分がここにいることを気づかれてはいけないと、本能で道士はそれを悟った。
(……これは私の手には負えない……っ!)
力の差を感じた道士は、ジリジリと砂利の音を踏み締めゆっくりと後退った。
そして時間をかけて安全だと思える距離を取ると、洞窟に背を向けて一目散にその場を去っていった。
そして流沙河のこの異変は、遠い普陀山に住む観音菩薩にも届いていた。
そこで、河伯の刀剣罰のため遠隔操作で使っていた宝剣がもどらず、河伯の元へ行く支度をしていた恵岸行者は、ちょうどよかったと観音菩薩から流沙河の調査を命じられた。
「これはひどいな……ここで一体何がおきているんだ……?」
恵岸行者は黒いモヤの立ち込める流沙河上流におりたち、思わずうめいた。
「河伯サンの家はこの辺だったよなあ……」
恵岸行者は、戸惑いながらも手拭いを口に巻いて辺りを見回した。
周囲の雰囲気が変わりすぎて、目的の場所の位置すらあやふやになってくる。
恵岸行者は首を傾げながら辺りを注意深く探りながら、とりあえず流沙河の上流に向かって歩き始めた。
「う……ぅう、誰か……」
ふと、どこからか男のうめき声が聞こえてきた。
「誰だ!誰かいるのか?!」
恵岸行者は声を張り上げ弱々しい声の主を探す。
この瘴気のせいで不気味さを増した河原に来る物好きは誰だ、と恵岸行者は不思議に思いながら夜の河原を歩く。
「こ、ここだ……!」
恵岸行者が声のほうを向くと、闇に映える白い手が草むらから覗き、ぱたりと倒れた。




