【百四十五 黄風大王と瑠璃の皿】
小須弥山にある禅院の廊下に、小柄な影があった。
「キラキラ青いッチ……ふわぁぁあ」
その影の主は得度したばかりの貂の妖怪だ。
ただし人化の術は未熟で、未だ人の姿を取ることができず、クリクリとした目が可愛らしい貂のままだ。
彼の名は黄風怪。
彼は禅院の廊下に置かれた瑠璃の灯明をうっとりと眺め、小さな手を伸ばしてそれを取った。
その途端、瑠璃の灯明の火が消え、それまで煌々としていた禅院の廊下は真っ暗闇に包まれた。
「ぴえっ?!」
夜目の利く貂の精であっても突然の暗闇は驚く。
慌てて瑠璃の皿を戻すがうっかり皿の上の油を落としてしまった。
幸いなことに瑠璃の皿は割れずに済み、黄風怪はホッと胸を撫で下ろした。
だがそれも束の間のことだった。
──ガシャン、ガシャン……。
甲冑の擦れる音が近づいてきた。
その音にビクリと身を強張らせ、黄風怪は息を潜めてあたりを見回す。
「ここは……逃げるが勝ちッチ!」
黄風怪は、瑠璃の皿を袂にしまうと外に飛び出したのだった。
その数年ののちのこと。
須弥山の周りのどこかにある、とある山。
その山の名は、八百里黄風嶺という。
所々に緑がある、切り立った崖の中には小さな洞穴があり、そこに看板がかけられている。
黄色い看板には、黒い文字で“黄風嶺黄風洞”と書かれている。
そこはかつて黄風怪と名乗っていた貂の妖怪が黄風大王と名を改めて開いた場所である。
入り口の両脇には灯籠が明々と照らされていて、岩壁を削られて作られた通路を奥に進むと会話が聞こえてきた。
「黒風ッチ、お久しぶりッチ!すっかり見違えたッチ!」
この洞の主人、黄風大王は卓の正面に座る黒風怪に向かい親しげに言う。
黒風怪は黒熊の妖怪で、今は観音菩薩の弟子となっている。
今日は久々の休日で、旧い友人である黄風大王のもとへ観音菩薩の弟子になった報告のため訪れていた。
「チッス、お茶ッス」
そこへ、黄風大王の部下である虎の妖怪の虎先鋒がお茶を運んできた。
お茶請けは乾燥させた棗だ。
黒風怪はそれを受け取り、美味しそうに啜り乾燥棗と共に楽しんだ。
「いえいえ、黄風殿こそお変わりなく、相変わらずお元気そうで何より」
「な、なんかお上品に話すようになったッチね……どうしたッチ?」
黒風怪を昔から知っている黄風大王は目を白黒させて尋ねた。
「実はですね……」
そこで黒風怪は観音菩薩の弟子となった経緯を話した。
「そんなことがあったッチね……観音菩薩の弟子になったからそんなに変わったッチか……」
「兄弟子の恵岸行者が特に厳しくご教示くださったのです。黄風殿こそついに得度したと聞いていましたが……」
「そ、そうッチよ!今はこうして洞を立てて部下もいるッチ。ここにいる、茶を運んできたのが部下の虎先鋒ッチ!」
黄風大王に紹介された虎先鋒は頭を下げた。
「シャス!自分は大王様よりご紹介に預かりました虎先鋒っス!よっしくオナシャス!」
威勢のいい挨拶に、黒風怪は一瞬驚いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて黄風大王を見た。
「虎の妖怪を部下にするとは、なかなかですね」
黒風怪に感心され、黄風大王は得意げに笑った。
「名前も黄風怪から黄風大王にしたんだッチよ」
「それはそれは……おや、あれは?」
黒風怪の視線の先にあったのは、祭壇に飾られた瑠璃の皿だ。
「あ、あれは得度した記念にもらったッチ!美しい皿でしょ?」
本当は戻すに戻せず勝手に持ってきてしまったのだが、小さな嘘を気取られぬように、黄風大王は話題を変えることにした。
「それにしても、錦襴の袈裟ッチか……」
「おや、興味がおありで?ですがおやめなさい。あれは玄奘殿と我が師、観音菩薩にとってとても大切なものなのです」
「そうッチか……」
黒風怪に嗜められ、黄風大王は頷きながらもムクムクと欲が湧いてくるのを止められない。
一度盗みを働けば、その悪事に対する抵抗感も無くなってしまう。
(その袈裟、アチシがいただくッチ!)
黄風大王は密かにそう決意をして、それを悟られないように幼馴染の妖怪との時間に集中することにした。




