【百四十二 准胝観音の望み】
准胝観音が告げた地名に、孫悟空と玉龍は顔を見合わせた。
「流沙河?あそこで起きた問題はもう解決したぞ?」
孫悟空の言葉に玉龍も頷く。
問題の元凶は玉龍だったのだから。
「いや、玉龍が原因だった問題とはべつのものだ」
「リューサカって言ったらカハクさんがいるところだよねぇ?」
「ああ、そうだな……まさか河伯に何か?」
二人して准胝観音をみると、彼女は首を振った。
「詳しいことは知らん。私が感じられるのは瘴気と魔の気配。瘴気の影響で周囲の村に何か影響が出ているかもしれん。情報収集をしつつ向かうといいだろう」
「まあ、河の近くってことは、もしかしたら河伯の住処の近くかもな」
「あっ、そうだね!探してみるのもいいかもね」
次の行き先が決まり、話に花を咲かせている孫悟空と玉龍を微笑ましく見て、准胝観音はまだぶつぶつ言っている猪八戒に向き直った。
「わかっているとは思うが、雲桟堂は燃やせよ。残すな。良いな。お前もこやつらと旅に出るのだろう?」
「それはもちろん。山賊どもの根城にされたら困るからな」
わかっているよ、と猪八戒は頷く。
「……では、約束通りそろそろ体を金ちゃんにかえそう。孫悟空、玉龍、猪八戒。金ちゃんを……玄奘を必ず天竺まで連れてくるのだぞ。微力ながら、旅の平安を願っているからな」
准胝観音はそう言って、今までの横暴さからは考えられないくらい、まるで天女のような微笑みを浮かべて去っていった。
「──金ちゃん……金ちゃん……」
まどろみのなか、玄奘は自分の名ではない、別の名で呼ばれていることに気付いた。
うっすらと目を開くと、そこは蓮の花が咲き乱れる池の前だった。
池の背後に広がる空の色は薄い黄色のような、水色のような、桃色のような……。
とりどりの色がまるで錦のように輝く不思議な空だった。
「金ちゃん」
再び呼びかけられて、目の前に一面三目十八臂という姿の女尊の姿を見つけ、驚きに息を呑んだ。
「あなたは……」
どこか観音菩薩に似ていて、少し懐かしさを感じるものの、その方が誰だか玄奘にはわからなかった。
玄奘の様子を見た女尊は親しげに、そして少し寂しそうに微笑み口を開いた。
「覚えていないか、妾は准胝観音。観音菩薩の姉だ。お前が金蟬子であったころはよく共に釈迦如来様の説法を聞いたものよ」
准胝観音の名を聞いた途端反射的にその場に五体投地をしていた。
そんな玄奘に、准胝観音はゆっくりと近づいて手を取り立ち上がらせた。
そんな畏れ多い、と手を引くこともできず、玄奘はなすがままにされるしかない。
「金ちゃん……いや、玄奘。突然体を借りてしまってすまなかった。どうしても、あの地を清めるために一時的に肉体が必要だったのだ」
「は、はい……」
「ところで、玄奘におりいって頼みがあるのだが」
「なんでございましょう……?」
少しの間、准胝観音は言おうか迷っているように目を泳がせてから、咳払いを一つして三つの目で真っ直ぐに玄奘を見つめた。
「どうか新たに供となる猪八戒をどうか大切にしてやって欲しい。あれは出自が複雑なせいで少し繊細すぎるところがあるのだ。表には出さぬがな。とにかくあれは妾の特別大切な仔豚なのだ。くれぐれもよろしく頼む」
「はい!」
玄奘の勢いのいい返事に、准胝観音は笑った。
「まあ、言うまでもなく玄奘は弟子を大事にする師だろうから心配はしておらぬがな。そなたの旅の平安を、妾も天竺より見守っておるからな」
「ありがとうございます……!」
准胝観音にお礼を言っている途中から、玄奘の意識が再び途切れた。
最後に見たのは、蓮の花のように美しい准胝観音の笑顔だった。




