【百二十五 線香の煙が誘う先】
猪八戒に向かって大きな土の塊が迫って来る。
「うら!」
だがそれは難なく釘鈀で打ち砕くことができた。
それをみたマルティヤ・クヴァーラはニタリと笑んだ。
「?!」
猪八戒がそれを怪しむ間もなく、マルティヤ・クヴァーラは再び前足を地面に叩きつけた。
猪八戒の持つ武器、釘鈀は重く、軽々と何度も振り回せるものではない。
先程は無理をして走り回り、さらに釘鈀を振り回したせいで疲労がピークになり、猪八戒の体力も力もかなり落ちている。
「くそ!」
反応しきれなかったそれは全方位へ飛び散り、一つは玄奘へ。
そしてもう一つは雲桟堂へと向かっていく。
「っ、しまった、お師匠さん!!逃げて!!」
釘鈀を構えながら力を振り絞り全力疾走する猪八戒が叫ぶ。
それに気づいた玄奘は詠唱をやめ、小さく頷くと走り出した。
『ルハード、お嬢さんを!!』
そしてアルシャーク語で猪八戒が叫ぶと同時にがさりと一本の木の先端が揺れ、影が雲桟堂へ向かう土塊を追う。
「マテ、ヨソミ感心シナイ!」
「ぐ、あっ!」
猪八戒は背後からマルティヤ・クヴァーラの前足に叩き落とされ地面に顔面を強打した。
そのまま地面に押さえつけられ、身体中の骨がミシミシと軋んだ。
「八戒!」
思わず出してしまった猪八戒の悲鳴に玄奘は足を止めてしまった。
(クソ……ッ!)
耐えようと思っていたのに、できないほどの痛みだった。
猪八戒は悔しさに地面を殴った。
土塊は玄奘へ向かっている。
玄奘は九重の錫杖を構えたが、戦闘向きではない彼に捌ききれる威力のものではない。
だが、それを止められるものはもういない。
「ブタめ、切り裂いてやる!!」
勝利を確信してか、嬉々として叫ぶマルティヤ・クヴァーラは、空いている方の前足を振り上げた。
雲桟堂の外からは激しい戦闘の音が聞こえる。
猪八戒に閉じ込められた高翠蘭は、扉を叩くのをやめ、途方に暮れて膝を抱え床に座っていた。
ただ待つしかない時間はとても長く感じて苦痛だった。
「痛……っ!」
突然、高翠蘭の指輪が熱を持った。
その熱さに、猪八戒の危機を察知した高翠蘭は蒼白になった。
高翠蘭が知る限り、誰よりも強い猪八戒が負けるのか、と恐ろしくなった。
「八戒さん……!」
信じられなくて、信じたくなくて。
高翠蘭は指輪を嵌めている左手を握りしめた。
その時、この翡翠の指輪を猪八戒の前の妻から譲り受けた時のことを思い出した。
「この指輪は雌雄一対の指輪。互いの危機を知らせることができるものじゃ。まあ、仔豚は強いから、そんなことにはならぬと思うが」
マルティヤ・クヴァーラとの戦いののち、病床についていた卯ニ姐は、細く白い指から翡翠の指輪を外し、高翠蘭に渡してそう言ったのだ。
高翠蘭もそう思っていたのだが……。
「そんなことなかった!八戒さんは今……!」
高翠蘭は卯ニ姐の祭壇へ行き、すがりつくようにその香炉に線香を立てた。
「卯仙女!どうか助けてください!お願いです!!」
白い煙がゆらゆらと、ゆっくり立ち昇っていく。
今の自分にできるのは祈ることだけだと、高翠蘭は必死で祈った。
魔を見抜く目を持っていても、戦う力のない自分には何もできない。
何の役にも立たない。
ただ守られるだけの状況が、高翠蘭は悔しかった。
線香の煙は、外の騒ぎを知らないように、緩やかに流れていく。
そして、まるで高翠蘭を慰めるようにまとわりつき、そらから祭壇の端、壁との隙間に流れていった。
風も何もない、普通ならまっすぐ上へと伸びるはずの煙が、だ。
まるで何かを教えるかのように流れていくその煙の先が気になり、高翠蘭はその場所に近寄ってみた。




