【百二十 高家の力】
「たしかマル……マル……えーとバツじゃなかった気がする。うん、ねえゴクウ、八戒オジサンなんて言ってたっけ?」
玉龍は呑気に思い出そうとしているが、孫悟空にとって化け物の名前なんてどうでもよかった。
とにかくあんな危険なものを、作戦とはいえ玄奘が待機している雲桟堂に近づかせるわけにはいかない、と孫悟空は頭を働かせた。
蠍の尾は言わずもがな、絶対猛毒が出る部分だろうから早めに切り落としたい。
だがあの器さえ溶かす濃い紫色の呼吸も、できればくらいたくない。
シャフリアルだった化け物は鼻をヒクヒクさせて高翠蘭の匂いを探っている。
すぐに孫悟空たちに襲いかからないのは、ルハードの言う通り孫悟空たちを食べる気はないと言う事と、圧倒的な体格差から敵にならないとたかを括っているからだろう。
「蠍獅……!」
その時、高太公が声を震わせてつぶやいた。
「蠍獅?」
聞いたことのない名前に、孫悟空と玉龍は揃って高太公を見た。
「おジイちゃん、しってるの?八戒オジサンとルハードさんはマルなんとかって言ってたけど」
「はい、異国での呼び名はマルティヤ・クヴァーラといいます。でも我々は蠍の尾を持つ獅子として蠍獅とよんでおります」
「そうなんだ」
「数年前、卯仙女がその身を挺して追い払ってくださったはずなのですが、まさか舞い戻ってきているとは……そしてそれを連れてきたのが……」
高太公は青い顔をして汗だくになりながら、怒り肩で酔い潰れている高紅樹のところへ移動した。
「お前はまた、とんでもないものを連れ込んでくれたものだ……!」
息子の胸ぐらを掴んで乱暴に揺すり起こすと怒りに震える声で怒鳴った。
「なぜ翠蘭を邪険にする!翠蘭をあんな化け物の妻になど!お前の娘だろう!」
「父上がいけないのです!私ではなく翠蘭を後継者にするなどと言うから……!それに翠蘭を遠くの国に嫁げがせれば取引先もさらに拡大するし一石二鳥ではないですか!」
高太公の剣幕に酔いが一気に覚めたのか、それとも酔いのせいでタガが外れたのか、高紅樹は怒鳴り返した。
高太公は呆れて一瞬言葉を失った。
だが次の瞬間、高紅樹は壁にその身を叩きつけられていた。
温厚そうな高齢の高太公にそんな力があるようには見えなかったので、孫悟空と玉龍はとても驚いた。
「この、大バカ者が!わたしがなぜ翠蘭を後継にしたかわからぬか!翠蘭は高家の力を引き継いでいるからだ」
「力、ですって?」
「高家は商売をする家だ。取引する品には曰くのあるものもあるだろう。それを見抜く目を、感覚を、あの子は持っているのだ!」
「でも私は長男ですよ?!私が店を継ぐのにふさわしいはずです!」
尚も食い下がる高紅樹に、高太公はゆっくりと首を振る。
「残念ながら、高家のしきたりでは跡を継ぐのは“高家の目”を持つものと決まってる。お前ではない」
きっぱり言い切る高太公に、高紅樹は呆然と天を仰いだ。
「……!スイランの匂い……そうか、アッチだな!」
その間にもヒクヒクと鼻を動かし、高翠蘭の匂いを察知したシャフリアルは、その巨体に似合わず軽やかに飛び、雲桟堂の方角へと消えていった。
「は?」
孫悟空は自分自身が情けなかった。
マルティヤ・クヴァーラに全く相手にされず、存在を無視され飛び去られた。
見たこともない禍々しい怪物に怖気付いた事も、腹立たしい。
だが感情に流されている場合ではない。
分身からの連絡はないが、追わなくては。
正直あの禍々しい姿を考えただけでも足が震えるが、孫悟空は気持ちを奮い立たせて觔斗雲を呼び出し、玉龍に声をかけた。
「行くぞ、乗れ玉龍」
そしてその時、ちょうど分身たちから準備が整ったと連絡が入った。
「分身たちからも連絡が来た。急ぐぞ」
「りょーかいっ!」
玉龍は、急かす孫悟空の觔斗雲に飛び乗り、高太公に手を振った。
「スイランさんはボクたちが必ず無事に守りますから、ご心配なく!」
「一説によると蠍獅は口から毒を吐くだけでなく尾から毒針を飛ばすそうです。どうかお気をつけて。孫をよろしくお願いします。皆様もどうかご無事で……!」
高太公に見送られ、孫悟空と玉龍もまた、雲桟堂へ向かったのだった。




