第二章
第二章
1
山が泣いている。そう思った。まるでこの世の悲しみのすべてを歌うような蜩の声を聴いていた。きっといまの咽び泣く心中と同じだ。だが、実際に涙を流していたわけではない。でも、許されるのならきっと泣いていただろう。そっと、掌に触れる感触がそれを許さなかった。長い闘病生活の末にやせ細った少女の手は痛々しいほどに骨ばっていて、温度も低かった。それが、少女の未来がもうすぐ途絶えるだろうことを、残酷すぎるほどに表していた。
「……お兄ちゃん」
か細い声。もう少しひぐらしがうるさければきっと、その声に埋もれて聞こえなかっただろう。しかしそれが彼女が精一杯に搾り出した声だった。胸が軋んだ。
「どうした?」
震えそうになる声を必死に抑えて、手を握り返した。
「……あのね…………」
かすれた声に必死に耳を傾ける。いまの彼女にとって、こうして喋ることは命を削ることに等しい。だから、大切に、一字一句聞き逃さぬように。
「……ありがとう」
綺麗な笑顔だった。こけた頬に、がさがさの肌。かつての愛らしい容貌はどこにもない。見ているだけで痛々しいその相貌。だが、その瞬間の微笑みだけは、これまでの彼女の人生で見せた一番綺麗な笑顔だった。
――少女の名を呼ぼうとした。
その瞬間、握っていた手は砂となって、さらさらと崩れ落ちていく。
喉が凍りついた。
握りしめた手には粒の小さなさらさらとした砂だけが残って、呆然として見詰める目の前で、少女の体は砂塵となって消えうせた――。
※※※
「あ」
眼を開けると、雪乃の顔があった。どういうことだ? と思いながら上半身を起こして彼女を見た。
「なんだよ」がしがしと頭をかく。嫌な夢を見たせいですこぶる機嫌が悪い。喉が少し痛い。
「朝ごはんが出来たから起こしに来たんだけど……」
もうそんな時間か、と時計を探したが、そんなものはこの部屋にないことに思い至って、探すのを諦めた。「判った」とベッドからもそもそと這い出す。
「…………」なにかいいたげな視線を残し、雪乃は部屋を出て行った。
あくびを一つしてから、恭也は洗面所へ向かった。
冷たい水を顔面に浴びせると、幾らか気分は晴れたが、雨天が曇天に変わった程度で鬱屈としていることに変わりはなかった。
リビングに行くと昨日と同じラインナップがテーブルの上に並んでいた。
席に着くと黙って一口コーヒーを飲んだ。熱い液体が喉にしみた。
「…………」
向かいの席からえもいわれぬ視線を感じて、「俺の顔に何かついてるか?」と言葉を投げかけてみた。
「そういうわけじゃないんだけど……」歯切れの悪い返事だった。「なんていうか、その、魘されてたみたいだったから」
「…………」
なるほど、ととりあえず納得したが、どうして彼女がそんな哀しそうな表情をしているのかが判らなかった。あの夢を見たのは自分であって、彼女ではない。
だが、こちらを気遣うように彼女は、「よかったら話してくれない?」といった。「そういうのって、誰かに話したら楽になるって、昔お母さんがいってた」
どうしようかと考えながらもう一口コーヒーを啜る。
不安げに揺れる二つの瞳がこちらをじっと見詰めている。それは「よかったら」なんて生ぬるいものではなくて、いますぐに話せと強要しているようにも感じられた。ここで断るとさらに悲しげな表情になるのだろうな、と考えると逆にこっちが悲しくなってきた。まだ彼女に出会ってからあまり時間は経っていないが、ひとつだけ判ることがあった。それは、彼女が途轍もないお人よしだということだ。そうでなければ、出会ってばかりの自分を助手にするといって家に泊めてくれたりなんてしない。きっと、心がとても綺麗なんだろう。そんな幻想に浸りながら、「判った」と呟いて、いましがた見たばかりの、鮮烈な夢の記憶を話した。
「その夢ってどこまで本当なの?」
「手を握ったところまで。流石に人間が砂になって消えたら怖いだろ」
「じゃあ、妹いたんだ」
「ああ」恭也は頷いた。「二卵性の双子だったんだ。俺の方が生まれてくるのが十五分早かったから『お兄ちゃん』として育てられたわけ。あいつ意外にもまだ兄弟はいたんだけど、佐奈――それがあいつの名前なんだ――だけは特別だったな。たぶん双子だったってこともあるんだろうけど、小さい頃は何をするにも一緒だったし、多分このまま一生一緒なんじゃないかって小さい頃は思ってた」
でも現実はそうならなかった。二人が十二の誕生日を迎えた朝、突然佐奈が倒れた。運び込まれた病院で告げられた病名は原因不明の魔力侵食。体内にキャパシティを超える巨大な魔力を持っているが故に、その力に内側から浸食されて様々な臓器が機能不全を起こして絶命するという、当時もいまも治療不可能な魔導師特有の難病。
次第にやせ細弱っていく佐奈のそばを片時も離れることなく、恭也は看病した。それでも、学校には行かなければならないから、そのときだけは「ごめん」と断ってそばを離れ、授業が終わると友達の誘いも断り病院へと向かった。そして消灯時間、彼女が眠りにつくまでベッドの側にいて、また翌日の早朝には顔を出す。そんな生活が三年も続いた。その三年間の、医師懸命の治療も、甲斐甲斐しい看病も虚しく、極限までやせ細っていた彼女の命の蝋燭は、不意にその炎を消した。中学三年の、夏の終わりのことだった。
「そのあと、中学を卒業してすぐにじいちゃんに弟子入りして本格的に死霊魔導術の修行をしたんだ。佐奈がさ、死んだあとはネクロマンサーのアンデッドとして俺に使って欲しいっていう遺言を残してて。それで、ちゃんとあいつの主人になれるように、高校にも行かずにずっと修行した。それで、やっと去年じいちゃんにも認めてもらえるネクロマンサーになれたんだ」
家業まで継がされたことは予想外の出来事だったが。
「そっか。じゃあ、いまでも一緒なんだ」
優しく微笑みながらいった、雪乃の声は、涙声だった。
「……おどろいた」
「なにがよ?」声が震えている。
「もう少し気持ち悪がられるかと思った」
普通の人間の感覚からすれば、たとえ双子であろうとも死者とずっと一緒なんて気持ち悪いと思うのが普通だ。そう思っていたのだが、目の前で涙を堪えている少女はそうではないようだった。
「お前ってさ、変わってるよな。ネクロマンサーを見ても気持ち悪がらないし、すっげーお人よしだし」
「捻くれてるよりはマシでしょ?」拗ねた顔で雪乃はいった。「それに、お父さんの友達がネクロマンサーだったから、そういうのはあんまり気にならないの」
「ネクロマンサーと知り合いって、どんな仕事してたんだ? お前の父親って」
「連盟の封印観測チームのメンバー。結構うちのお父さんって凄かったのよ」
「だから金もある、と」
「お母さんは元外交官だったし」
「エリートだな、絵に描いたような」
「でも、別にそういうところを自慢するでもなく、振舞っていて、仕事以外の時にはあたしにも優しかったから、大好きだった……」
言葉尻に違和感を覚えて、すぐに昨夜エレベータで聞いた話を思い出した。
気まずい沈黙が訪れた。
「あのさ、雪乃」とにかく何か話さねば。そう思って口を開いた。「お前が探偵始めたのって二年前っていったよな。で、両親がいなくなったのも二年前。もしかしてお前、両親を探すために学校辞めて探偵になったのか?」
しばらく驚いたようにこちらを見詰めた雪乃は、「うん」と頷いた。
「あんたって、あたし以上に探偵っぽい感じがする」
少し感心しているようだった。こちらとしては、ただのあてずっぽうだったので、当たったことにびっくりしている。
「そう。あたしが探偵始めたのはお父さんとお母さんを探すため。きっと、なにか絶対理由があるはずなの。だって、そうでなきゃあたしをおいて勝手に姿を消したりしないもん」
まるでサンタがいるのだと言い張る子供のように、いまの彼女がそう見えた。僅かな希望に縋って幻想を追いかけている。ふと、捨てられたんじゃ? という可能性が思い浮かんだが、すぐに自分で否定した。一般的にエリートと呼ばれる、高い地位にいる人間は、人間性の善悪に関わらずスキャンダルを嫌う。まさか一人娘を捨てて二人一緒に姿を消したりなどしないだろう。それに、彼女が愛されていたと感じているのなら――その通り両親も彼女を愛していたなら――まだ自立していない少女をおいて家を出て行くなど非常識極まりない。
それならば――。
殺された?
そんな予感がふと脳裏を過ぎった
だがそれなら彼女が知らないわけがない。それに、そんな事件が報道されていた記憶がない。海外で日本人が殺されたのだ。規模はどうあれ、何らかのメディアで報道されていないとおかしい。
深入りしている。
考えすぎだ。
けれど。
なにか、深い事情がありそうな気がした。
だが、いまのところそれは自分の追いかけているものとは関係がない。今後は関係してくるのだろうか? 判らない。ややこしくなるので、出来ればごめん被りたい。
なにか話題を変えようと思ったが、何を話せばいいのか思いつかなかった。
思い沈黙。
目の前でコーヒーカップから立ち上る湯気が、茫洋と揺れていた。コーヒーカップ? これは、昨日は確かマグカップだったはずだ。間違えたのかと思って雪乃手元を見たが、そこにマグカップはなく、昨日と同じコーヒーカップがソーサーの上におかれていた。
これだ。と思った。
「そういえばさ――」
バタン。
唐突に、扉の閉まる音が聞こえてきた。恭也は吐き出しかけた言葉を飲み込んで、雪乃と顔を見合わせた。
「いまの……なに?」雪乃がいった。音が聞こえた方を見ている。ちょうど、廊下の方向だ。扉は閉まっている。
どこかの部屋の扉が勢いよく閉じられたということだろうか。しかし、恭也と雪乃以外の人間がここにいるはずはない。
「泥棒とか?」恭也がいった。
「まさか。だって、ちゃんとセキュリティもかけてるし、一応結界も張ってあるし……じゃあなに?」
「幽霊?」
「まった、ストップ。それはない。絶対ない」
「なんでさ。実際、ネクロマンサーの術のなかで死体に魂を宿らせるのとかってあるぞ」
「じゃあ、あんたのせい。それで決定あたしは知らないから」雪乃が早口でまくし立てる。
これはもしかして、と恭也は雪乃を見た。
「なによ、その笑いは」
「お前、お化け嫌いだろ」
「だったらなによ」
そう開き直った雪乃はすでに涙目になっていた。
トントントンと足音が聞こえた。
雪乃は眼を瞑ってテーブルに付している。
足音はだんだん近づいてくる。
「に、にんにくだっけ?」唐突に雪乃がいった。声が少し上ずっている。
「それは吸血鬼だ」
足音が止まった。
がちゃ、とドアノブが動いた。一瞬遅れて雪乃が短い悲鳴を上げた。
ギィと音を立て、ゆっくりと扉が開く。
そこに、
少女が立っていた。
白いワンピース姿で、肌は透けるように白く、長く床に付くほどに伸びた髪もゆらゆらと揺れながら、窓から差し込む日差しに、白銀に光っていた。全体的に真っ白な少女。まるで御伽噺の妖精のような美しい彼女であったが、目だけが半開きでとても眠たそうだった。ふらふらとした足取りでこちらまでやってくると、おもむろに恭也の隣の椅子を引いて、そこに座った。
「恭也、もう行った?」顔を伏せたままだったのでいまの状況が判っていないらしい。よく見ると耳もふさいでいる。
隣の少女を見た。彼女もぼーっとこちらを見ている。
「ああ、もう行ったぞ」少し大きめの声でいった。
「はぁ、もう一時はどうなることか……と…………」
少女と雪乃が見詰め合った。
ギギギ、と油の切れたブリキ人形のような動きでこちらを見た。
「誰?」
口が戦慄いていて、いまにも泣きそうな表情だった。
「ああ、こいつか」恭也はいった。「妹の佐奈だ」
「…………え?」信じられないという表情を浮かべた。「でも死んだって」
「ああ、死んだよ」
「えっと、じゃあ、あれ? そこの子は?」
「佐奈」
「だから、死んだんだよね?」
「午後六時二十八分十七秒」
「いや、死亡時刻じゃなくて。あ、あははは?」
ふぁ、とあくびをしてぐしぐしと目をこすった少女――佐奈は、雪乃を指差して、「この女だれ?」と詰問口調で訊いていた。
面倒なことになったな、と思いつつ「ちょっと待ってろ」と佐奈にいった。不機嫌そうな表情のまま彼女は頷いた。
「とりあえず、まずは落ち着け、雪乃」
「うん。判った落ち着くから。落ち着くからとりあえず。うん、落ち着く」顔を両手で覆いながら答えた。
「佐奈が死んだのは魔力侵食が原因だっていったことはちゃんと覚えてるな?」
「うん。覚えてる」
「で、こうやって死体を使役するには、死体に直接、専用の術式を書き込む必要があるんだ」
「そういうの聞いたことがある」
「そう。で、死体を使役するってことは、つまりその術式に魔力を流しこんで魔法を発動させるってこと」
「そういう基礎知識はいいから、さっさと説明して」
「で、こいつの場合死んでからも、ちょっと特殊な術を施した所為で、生前の魔力と魂がそのまま残ったんだ。魂は肉体と精神の設計図であり、実際に体を形作る諸々の物質を形として固定させるための重要なファクタで、魂がなくなればその死体に意思はないし、肉体は固定化できなくなって腐り始めるわけ。でもこいつには魂があるから、意思もあるし、肉体も腐らない。で、ときどき自分の魔力で術式を発動させてこうやって勝手に出てくるというわけ」
「うん。なんだかわかんないけど判った」
絶対まだ判ってないな、と思いつつも一応その言葉を信じて、今度は隣を見た。柔らかそうな頬をぱんぱんに膨らませていた。
「勝手に出てきたって。いっつもわたしが出て行ったら嬉しそうにする癖に」
どうやら不機嫌の元はそれらしい(それ以外にもなにかありそうだが)。
「いつのまに彼女なんて作っちゃったの。わたし聞いてないよ。しかも同棲まで」
「それは誤解だ。彼女、雪乃は協力者であって、宿を提供してくれているだけだから、なんでもない」
なあ? と視線を向けると、今度は雪乃が不機嫌になっていた。ジトーっとした視線で睨みつけてくる。あれ、墓穴を掘ったか? と思ったがなんでそれが墓穴になったのかが判らない。理不尽だ。
「あんたさ」雪乃がいった。ものすごく低い声だった。威圧感が黒々としたオーラとともに押し寄せてくる。「もしかして、すごいシスコン?」
「なんでそうなる。むしろこいつがブラコンなだけで――って、いてっ、耳に噛み付くな馬鹿!」
耳を押さえながら佐奈を睨みつける。が、それ以上の剣幕で睨み返された。
「永遠を誓い合った、あの約束も嘘だったの」
「誤解を招く表現は止めろ!」
ちら、と雪乃を見た。視線の威圧感が四倍くらいになっている。この圧力なら深海魚でも押しつぶされてしまうだろう。すぐに目をそらした。
「なによ、いつもだったら、ぎゅーってしてくれるのに。そんなにこの女のことが大事なんだ」
「お前久しぶりに起きて来て、脳みそ腐ったか?」
「ひどーい。それはいいすぎだろ、この馬鹿兄貴」
そういって佐奈はがぶりと恭也の耳に噛み付いた。
「だから、耳を噛むな、耳を」
「わたし知ってるもん。お兄ちゃんがどこをどんな風にしたら喜ぶかって」
「本当に、お前ちょっと――」
派手な物音ともにテーブルが揺れて、はっとして雪乃の方を振り向いた。
両手をテーブルについて、雪乃が立っていた。表情は俯いていて判らない。
「気分悪いから部屋に戻る」
さっきより低い声でそういうとずんずんと歩いて廊下の方へと姿を消した。止めるような猶予はどこにもなかった。あとからものすごい勢いで扉を閉める音が聞こえた。
「えっと……」気まずそうに佐奈は目をそらした。「だって、久しぶりに出てこれたから嬉しかったんだもん」そういってから、唇を尖らせた。
恭也は佐奈の顔に手を伸ばすと、ほっぺたをつねった。そのまま左右に引っ張る。
「いはひひょー」
「反省しろ、馬鹿」
そういいながらも、どうして雪乃が怒ったのかは、判らなかった。
溜息をついて、ほっぺたから手を離した。テーブルの上を見た。殆ど手付かずの朝食。だが、食欲はない。
「佐奈、これ食うか?」
「むぅ、意地悪。わたしは死んでるんだからそういうの食べられないって知ってるくせに」
「そうだったな」
つねったほっぺたも冷たかったし、体も十五のときから成長していない。
「お前って死んでるんだよな」
こうして喋ったりじゃれ合ったり出来るから、時々忘れてしまう。
現実は、理不尽で残酷だ。
2
雨降りにはあまり良い思い出がない。フロントガラスを往復するワイパーを眺めながらそんなことを思った。信号が変わって走り出す。
ちょうど三十分ほど前にジェームス・マッケンリーの隠れ家を発見したとタイラーから携帯電話に連絡があったのだ。ジェームス・マッケンリーの過去の犯罪についてのデータを探っていた最中だったが、それを一端切り上げて車に飛び乗った。
車は住宅街を抜け、山道へ入っていった。しばらくみちなりに走らせると、警察車両が数台、前方の道から逸れたところにある広場のような草叢に止められているのが見えてきた。その向こうに、ボロボロの遊園地のお化け屋敷のような建物が見えた。もともとは別荘か何かだったのかもしれない。車を止めて外に出ると、「警部!」とタイラーが走り寄ってきた。
「このボロ屋敷がジェームス・マッケンリーの隠れ家なのか?」ちかくで見るとますますお化け屋敷染みていた。どこかにミイラ男が隠れていそうだ。
「ええ、指紋も出ていますし、間違いありません」
隠れ家だったボロ屋敷へ向かって歩き出した。ぼうぼうに伸びた草に付着した雨の雫が、膝の辺りまで濡らす。だから雨は嫌いなんだと、表情を硬くしながら早足で進んだ。なかに入ると普段は見かけない顔があった。セミロングの赤毛に、暗色のパンツスーツ姿の女性。モデルのように身長が高く、スタイルもよかった。
「何分待たせるつもり?」女性は振り返らずにいった。
「奇遇だな……といいたいところだが」ボーナムは女をにらみつけた。「どうしてお前がここにいる? エミリー・グリーナウェイ特別捜査官」
棘のあるボーナムの声に、女は振り返った。
「ジェームス・マッケンリー殺害事件の捜査は、FBIとホールシティ市警の合同で行うことに決定したのよ。それと、どうも連盟の猟犬部隊が動いてるって話もあるわ」
「どういうことだ?」そういいながら辺りを見渡す。
「そのままの意味。この事件には国際テロ組織『ロンギヌス』が絡んでいる可能性があるっていう、上の判断。それに、彼は実際日本でテロを起こしてからここにやってきた。理由はそれで充分じゃない? ああそれと、連中の幹部が一人この街に紛れ込んでるっていう情報もあったし」
睨み合う。
「あの、警部。彼女とは……」遠慮がちにタイラーが入ってきた。
「HRTにいた頃に知り合った。FBIをやめてすっかり縁が切れたと思ったんだがな」エミリーを睨みつけたままボーナムは応えた。「それで、どうすればいい? 指揮権はそちらにあるのだろう?」
「そうね、少し昔話でもしましょう」
「そういう気分じゃない」
「相変わらず冗談の通じない人ね」
「俺は冗談が嫌いだ」
「偏屈な人。相変わらずね、あなた」
「そういうお前こそな」
「そこは、綺麗になったな、とかいうところじゃない? 昔の女だからって、ちょっと冷たすぎない?」挑発的な笑みを浮かべている。
「そうなんですか? 警部」タイラーがいった。
「過去の話だ」溜息をつきながらいった。「いまは関係ない」
ほんとうに雨の日は碌なことが起こらない。このままここにいたら面倒が増えるばかりだ、そう思って歩き出そうとしたとき、「グリーナウェイ捜査官!」と屋敷の奥から声が聞こえてきて、足を止めた。廊下の奥の部屋から顔だけだした丸顔の男がこちらを見ていた。制服からすると、彼もFBIの捜査官のようだった。
「ついてくる?」エミリーがいった。どこか勝ち誇ったような表情。一緒に来なさいといっているようにも見える。
「ああ」不承不承ボーナムは頷いた。
男のいた部屋に入ると、すぐ目の前に背の高い本棚があるのが目に入った。左手にはすすけたマホガニィのデスクがある。どうやら書斎だったようだ。
「これです」と丸顔の捜査官は一冊のノートをエミリーに手渡した。
無言で受け取ったエミリーは、ページをぱらぱらと捲った。隣から覗き込んでみると、ノートにはなにかが細かい文字でびっしりと書かれていた。
「なにが書いてある?」
「さあね。今日は鶏肉を食ったとか、朝から熱があるとか、昨日抱いた女はサイコーだったとか、今年のレイズは強いとか。単なる日記ね」
「なにか事件に関係あることは?」
「さあ? ……ん?」
ページを捲る手が止まった。
「どうした?」
「これ」
差し出されたノートを受け取って、開かれたページを見る。
先ほどまでのページとは対照的に空白の目立つページ。ただ中央に、殴り書きのような乱暴な文字で、『ノーライフキング』と書かれていた。
「死せる者達の王」
ポツリとエミリーが呟いた。
「知っているのか?」ボーナムはいった。
「名前だけ」エミリーはいった。「魔法学校時代に、ネクロマンサーだった知り合いが趣味で古代魔法の研究をやってたのを手伝って、そのときに辞典のなかにこの名前を見つけたってだけ。詳しいことは何にも知らない」
「妙な人間もいるものだな。古代魔法なんて、いまではもう使えないだろうに」
「まあね、あの封印が世界中のマナを激減させて、根本的に魔力が足りなくなったからね。でも使えなくても正解かもしれない。この世界の存在そのものを揺るがすほどの魔法が存在するっていうし。そんなの危険すぎるわ」
「いまのままでも充分世界を揺るがしかねない。たとえ魔法がこの世界の構造ごと破壊しなくても、核がこの星を大多数の生物が生息できない惑星に変えてしまったら、それは世界が壊れるのと同義だろう? 少なくとも俺たち人間にとっては。世界っていうのは個人個人の認識のなかか、あるいは集団の共通認識のなかに存在する幻想だ」
「あんまり魔導師らしくない考え方ね。でも、それが一番現実味のある正論。それに、第二次大戦の頃から、科学と魔法学の双方の理論を取り入れた兵器も開発されているしね」
「いまも俺それを俺たちは持っている」そういってボーナムは肩から吊り下げたホルスターから拳銃を引き抜いた。「このグロッグだってそうだ。弾丸に、術式が刻まれていて、持ち主が魔力を送り込むことで発射された弾丸に魔法効果が付与される。それに耐えうるように、銃身も改造されている。単純な構造だが、これだって立派な魔導兵器だ」
それに、最近では高濃度に圧縮された魔力を発射することが出来る兵器が開発されたと聞いたこともある。おまけにそれは、大気中のマナを集めて砲撃を可能とするから、なにもそれを使用する人間が魔術師でなくとも、トリガーを引く指さえあれば誰にでも扱える代物だという。平和を謳いながら世界はどんどん物騒になっている。
「あぁ、そういえばどこいった? あいつ」
ふと、タイラーの姿がどこにも見えないことに気がついた。一緒に部屋に入ってきたと思っていたのだが、先ほどから見かけない。「まさかな……」
妙な気を利かして自分はついてこなかったんじゃないだろうか。よく見ればあの丸顔の捜査官も姿を消している。無性に溜息がつきたくなった。
「どうかした?」
「いや、雨が降ると碌なことがないと思ってな」と何気なく口にしたが、エミリーが神妙な表情で「そうね」と呟くので、余計なことを口走ってしまったと後悔した。
「……雨の日、か」神妙な面持ちでエミリーが呟いた。「そういえば、ちょうど今頃ね。あの事件が起こったのって」
「いまは関係ないだろ」ボーナムは、彼女をにらみつけた。
「でも、あなたがFBIを辞めたのってそれが理由なんでしょ」
「だったらなんだ?」語気が強まる。どんな人間にだって、あまり触れられたくないことはある。
「そう怖い顔をしないで」エミリーはいった。「いまさら戻って来いなんていわないわよ。けど、いつまで過去に縛られる気? 知ってるのよ? あの事件のこと、まだ調べてるって。それがあの子に対する償いのつもりなの? 真実を偽ったままで? そんなのただの偽善よ」
「偽善でかまわない。ただの自己満足でも。だがな、それでも俺は、あいつの墓前に花を添える為に犯人を捕まえなくちゃならない」
「捕まえてどうするの? あの子に真実を偽ったままにしておくわけ?」
「それは、時が来たら話すつもりだ」
「そして姿を消すつもりね?」
こちらの思考を読み取った言葉だった。不愉快だが、頷かざるを得ない。伊達に付き合いが長くないということだろう。
「俺の勝手だ」
「ええ、そうね。あなたは勝手よ。いつも勝手にいなくなる」エミリーは興奮気味に声を荒げた。
「落ち着け。いまは仕事中だ」
「ええそうね。悪かった。そう、いまは仕事中」エミリーはいった。どこか自分にいい聞かせているようだった。
溜息をついて、ボーナムは視線を足元に落とした。
「ノーライフキングのことについて、調べるように捜査本部に連絡してくる」そういって彼女は部屋を出て行った。
誰もいなくなった部屋で、ボーナムは携帯電話を取り出した。
ここでの発見を、彼に知らせてやる必要があると思った。彼ならあるいは『ノーライフキング』についてもなにか知っているかもしれない。このことが、盗み出された魔法遺産に直接関係している可能性もある。
ユキノの部屋の番号をプッシュしてから携帯電話を耳に当てた。呼び出し音がしばらく続く。少し長い。
『もしもし』
予想外の声が聞こえてきた。
「ユキノはどうした?」
『ああ、なんていうかその……』
沈黙。
「どうかしたのか?」
『いや、少し臍を曲げて、部屋に篭ってます。あの、呼んできましょうか?』
「いい。用があるのは君だ」
『はあ』
「少し話したいことがある。魔女の泉の正面にある喫茶店へ行ってくれないか」
『魔女の泉?』
「白い魔女の像がある噴水だ」
『ああ、はい。判りました』
「店主に、俺の紹介だといえ」
足音が近づいてくる。
「それじゃあ、切るぞ」
ボーナムが携帯電話をしまうのと、鑑識班を引き連れたエミリーが戻ってきたのはほぼ同時だった。だが、電話には気付かれていなかったようで、彼女は鑑識官と一緒に血痕の側にしゃがみ込んで専門的な会話を始めていた。
「少し用ができた」
「え?」エミリーは顔を上げ、こちらを見た。
「何かあったらジャック――タイラー刑事にいってくれ」そういい残すと返事も聞かず部屋をでた。屋敷を出ようとしたところで、入り口のところで先ほどとは別の顔捜査官と話しこんでいるタイラーの姿を見つけた。
「警部、どうしたんですか?」タイラーはいった。
「少し用事ができた。何かあったら携帯電話に連絡をくれ」
「あ、はい。判りました」タイラーは頷いた。
「頼んだぞ」
「任せてください」
タイラーの肩を、一度軽く叩いてから外に出た。雨脚は先ほどより強まっている。
「警部!」背後で声がした。「路面が濡れているので、安全運転でお願いします」
振り返らずに、片手を挙げて応えた。
3
柄を持つ手にまで振動が伝わってきそうなほど強い雨のなかを歩いていた。靴の爪先からしみこんできた水分がつま先全体を濡らしていて、寒さと相俟ってかじかみ感覚が薄れていた。どういうわけか濡れてしまった手も、かじかんでいる。けれど、恭也は冬の雨がそれほど嫌いではなかった。たぶん、空気が乾燥しているからだろう。夏の雨は湿気が多くて、まるで水の中を歩いているような気分になる。それにカエルもでる。アメリカでも雨になるとカエルが沢山出てくるのだろうか? だがいまは冬なので確かめようがない。
雪乃の部屋を出てから三十分ほど歩いたころ、ようやく雨でかすむ視界の先に噴水が見えてきた。あれが魔女の泉だと知ったのはつい先刻だ。噴水の池の真ん中には、ローブを翻し、杖を天に突きたてて大地を見下ろす髪の長い女性の像がある。かつてこの世界を崩壊より救った、『白い魔女』と呼ばれている魔導師らしい。歴史系の教科はあまり得意ではなかったし、義務教育しか受けていないので彼女についての詳しい逸話は知らないが(どこかで聞いたことはあるかもしれない)、彼女が世界中で七つの封印を施して、世界の危機を救ったということだけは覚えている。どうして世界を救うことと封印が繋がるのか、相互関係が判らなかったが、おそらくそれは自分が覚えていないだけなのだろう。
泉の前で足を止めた。こんな豪雨にもかかわらず噴水は今日も吹き上がり続けている。なんとなく、虚しい光景だ。まるで喧騒のなかで誰かを探して大声を上げている気分だ。
周囲を見渡してボーナムのいっていた喫茶店を探す。だが、見つからない。店の名前を聞いていなかったので、聞いておけばよかったと後悔しながら、反対側に回った。同じように見渡すと、それらしい店が見えた。『ブリッジズ・トゥ・バビロン』と看板に書かれていた。ストーンズのアルバムでそんなのがあったな、と思いながら店に近づく。軒下で傘をたたんで扉を開いた。芳ばしいコーヒーの香りと、ボブ・ディランの歌声が聞こえてきた。カウンタの向こう側から、胡散臭そうに褐色の肌の少女がこちらを見ていた。
「いらっしゃい」少女はいった。すこぶる愛想が悪い。よくこれで商売が出来ているな、と思って店内を見渡すとそれなりに客がいた。たぶん、みんな雨宿りをしているのだろう、と勝手に解釈する。
「あの、ホールシティ市警の、キース・ボーナム警部からの紹介なんだけど……」
「…………」少女は値踏みをするように、こちらをじっと見てから、「ちょっと待ってて」と厨房の奥に姿を消した。カウンタにもたれながら、ぼーっと出入り口の方を眺めた。窓越しに魔女の背中が見えた。なるほど、確かに裏側だ、と感心していると「やあ、またせたね」と男の声が聞こえて振り向いた。嫌に肌につやのある、禿げた白人の老人だった。老人はカウンタから出てくると、握手を求めてきた。
「わたしのことはチャールズって呼んでくれて構わないよ」
「はあ」恭也は頷いた。「俺は――」
「あぁあぁ、いいいい。君のことは彼から聞いているから。そんなことよりも、早くこっちへ、そろそろ待ちくたびれて灰皿がいっぱいになっている頃だ」
肩をゆすって笑うと「付いてきなさい」といってチャールズは店の奥へ向かって歩き出した。しばらく歩くと突き当りがあったが、彼が扉を二回ノックすると、突然壁が動いた。なかから黒いスーツに身を包んだボディーガードのような男が顔を出した。どうやら、隠し扉になっていたようだ。ふと背後を振り返ると、先ほど曲がった角によって店内が見えない。向こうからも、こちらが見えないだろう。死角を作って隠しているようだった。
扉の向こうには階段があった。降りていくと、真っ直ぐな廊下が壁に突き当たるまで、二十メートルほど続いていて、両側の壁に幾つか扉があった。チャールズに案内された部屋にはいると、むっとするようなタバコの臭いがした。小さなスペースにテーブルと、それをはさむように四人掛けのソファが置いてあった。
「それでは」といってチャールズは扉を閉めて出て行った。
じっと立っていると「座ってくれ」といってボーナムが灰皿にタバコを押し付けた。すでに山のように吸殻が積み上げられている。
いわれたとおり反対側に座った。「それで、話ってなんですか?」
「ノーライフキング、という言葉を聞いたことがあるか?」
「ノーライフキング?」どこかで聞いたことのある言葉だった。どこで聞いたのだろうと過去の記憶を手繰り寄せて、そのなかから検索していく。しばらく黙考して、一年ほど前に祖父にその話を聞いたことがあったことを思い出して、「ええ」と頷いた。
「どんなものか判るか?」
「えっとですね」再び考え込む。「確か、冥府の王につけられた名前だと思います」
「冥府の王?」
「ええ。一応平行世界のひとつといわれている、あの冥府です」
「平行世界か。やれやれ、SFみたいな話だな」
「けれど、昨年存在が実証されました」
「ロシアの物理学者だったな。話を進めてくれ」
「あ、はい」あやふやな記憶から正確なピースを拾い上げていく。「伝承では――大昔に、冥府で起きた叛乱で殺されたといわれています。しかし、その魂までは殺しきれずに、冥府の底にある煉獄の檻に閉じ込められたと――。そんな話です。それがどうしたんですか?」
「ジェームス・マッケンリーの隠れ家で、その言葉の書かれた、日記が見つかった」
「本当ですか?」
「ああ。そこでだ、これは安直な推理なのだが。お前が探している魔法遺産とノーライフキングがなにか関連しているんじゃないのか?」
「…………」
恭也は黙り込んだ。頭のなかではノーライフキングと結びつく魔法遺産がなかったか、と大掛かりな作業が行われていた。そんなものがあると聞いたこともあるようで、ないような気もする。一気にもやもやが増大して、苛々してきたのを抑えようと溜息をついた。
「もし、そいつがこの世界に現れたらどうなる?」不意に、ボーナムが口を開いた。
「え?」思考を中断して、彼を見詰める。それからすぐにその可能性を考えた。ノーライフキングがどれほどの者かは判らないが、それでもこの世界の人間よりは遥に魔導師として優れていることは確かだ。人間が体内に持つオド(魔力)はその魂に宿るといわれている。そしてその量は魂の持つ生命力に比例する。肉体を殺してもなお、死なず輪廻の環に戻らないほどの強さを持っているとするなら、あるいは封印が施されたこの世界であっても、古代魔法を行使することが可能かもしれない。
だから。
「誰かが操作をすることができれば、封印を壊すことも可能かもしれません」
あの封印も古代魔法のひとつだといわれている。恭也自身はこの街に来ながら、まだそれを実際に見てはないないが、地面に空いた巨大な穴をふさぐようにドーム上の封印がなされているという。そして、その穴からは大量のマナ(魔力)が噴出している。そのうちの幾らかは封印を浸透して外に出ているのだが、殆どは封印の保持のために結界に収されていっているらしい。
だからこそ、マナが乏しい現代で、それを破壊することは不可能だといわれている。だが、マナを必要とせずとも古代魔法が行使できるものにとってはどうだろう。更に、マナを吸収して作り上げられた魔法が行使されれば、封印を壊してしまうことはいとも簡単だ。ああいう封印などの魔法は、そこに込められている魔力を超える魔力を、一瞬でもぶつけることが出来ればほころびが生じて壊れてしまう仕組みになっている。
「でもそんなことをして誰が得をするんでしょうか?」恭也はいった。そんなことをすれば、世界のバランスが崩れ、すべてが混乱してしまう可能性がある。マナは自然との調和の元に大地から吐き出されるものだというのが魔法学での常識だ。実際環境汚染が進むにつれてマナが減少するという実例も報告されている。つまり、マナの存在は地球環境と表裏一体ともいえる。それが、急激に変動すると、この星がなんらかの変調を起こしてしまうのではないか。
「だが、世界は元々封印がない状態が普通だったんだ。だから、恐らくなにも起こらないだろう。せいぜい、最初のうちは魔導師が自分の魔法を制御できなくなるだけだ。その所為で、数人死者がでるかもしれないが、じきに馴染んでいくだろう」
いわれてみればそうだ。あの封印が出来たのはほんの数千年前。地球の四十億年以上の歴史から考えればあくびをしている時間にも満たない。
「しかし、古代魔法が行使できるようになります。いまも当時の術式や魔法陣、呪文などが魔導書として残っています。悪意のある何者かが手にすれば、それで世界を思いのままに操ろうとするかもしれませんす」
「そう。実際そんな馬鹿げたことを企んでいる連中がいる」
「ロンギヌスですか?」
大昔から封印の破壊を目指して世界各地であの手この手を尽くしてきた国際テロリスト手段。数年前に、アメリカでもこのホールシティとニューヨークでテロが同時に起こったばかりだ。
「この事件に、連中が絡んでいる、と聞いたらお前はどうする?」
「まさか。そもそも、ジェームス・マッケンリーを殺害することと、封印を破壊することが繋がりません」
「だが、さっきお前はノーライフキングなら封印を破壊することも可能だといった。もしかして、ジェームス・マッケンリーが盗み出した魔法遺産っていうのは、ノーライフキングを召還するための何かだったんじゃないのか?」
口元に手を当てて考える。そんなものがあっただろうか。先ほどから話していて、どこか引っかかる場所があった。だが、もう少しのところで手が届かない。もどかしさが、また苛々を呼び出してくる。
「たとえば、そうだな。魔導書とかはどうだ?」
恐らくあてずっぽうだったであろう、その言葉。だが、頭のなかでかちりと歯車がかみ合う音がした。
「……あります」
そうだ、昔祖父がノーライフキングについて語ったときに、その話が確かにあった。
「確か名前は『死霊の書』と呼ばれるものだったと思います。ノーライフキングの呼び出し方の他にも、死者を完全に生き返らせる方法や、生者を冥府に送る魔法の術式が記されているって聞いたことがあります本物は、大英博物館に地下にある魔導書書庫に収められていて、面倒な手続きを踏めば誰でも読めるもののはずです」
「つまり、それも古代魔法だというわけか」
現代で使用できる、そんな危険な魔法を公開するはずがない。確かに、それは古代魔法だと祖父はいっていた。
恭也は頷いた。「それに、過去に――博物館に蔵書される以前に――幾つかの写本が作られたとも聞きました」
「いくつか、か。具体的な数字は?」
「判りません。様々な時代に、様々な人間が写本を作ったであろうといわれています。中世のヨーロッパで、魔導師弾圧が行われたときには、魔法文化を絶やすまいと狂ったように魔導書の写本が作られた時期もありましたから」
この話も祖父から聞かされたことだ。学校の授業では教わっていない。恐らくそのときは机に突っ伏して寝ていたはずだ。
「つまり、日本にそれがあったとしてもおかしくないわけだ。魔導師弾圧の最盛期は十六世紀から十七世紀までの間だと一般的にいわれている。そして、ヨーロッパと日本が繋がりを持ったのもちょうどその頃からだ。魔導師だということを隠して密航してきた人間が、その写本を持ち込んだ。あくまで仮説だが、可能性は否定できまい」
「ええ、確かに。そうですね。そして、それがどこかで見つかって、陰陽寮が保存していた――充分に考えられる話です」
そして現代になって、それを聞きつけたロンギヌスの差し金が、日本が平和ボケしたことをいいことに襲撃をしかけ、まんまと盗み出した。
「ですが、それがあったところで書かれているすべてが古代魔法ですから、結局はただの古い紙切れでしかないはずじゃあ」
「ああ。だが、学生時代にこんな論文を読んだことがある。『閉所において、封印以前の世界を再現することが出来れば、古代魔法の行使も可能になる』っていう。平たくいえば、小さな箱のなかをマナで満たして、そこで古代魔法を使えば実際に発動するかもしれないってことだ」
確かにそれには一理あるが。「どうやってそんな場所を? ましてやここは封印のある街ですよ」
「随時街中を見張っている魔力探査のセンサに引っかかって豚箱に放り込まれるだろうな」どこか投げやりないいかただった。「普通に考えりゃ、そんな完璧な密閉空間を作りだすことは不可能だ。仮に結界で閉じ込めたとしても、許可もなくそんなことをやれば、それだけで捕まる。許可をとっても、国連軍と連盟から監督官が四人ほど派遣される規則になっているからな、どちらにせよ無理だ」
「その監督官が協力者だったら?」
「それはない」きっぱりといいきった。「監察官に選ばれる人間は、まるで洗脳されたみたいに『白い魔女』を信奉する連中だ。間違ってもその偉大な魔女様が作り上げたものを壊そうだなんて思わないさ」
これで話はどんづまりだ。完璧に、法にも触れず密閉空間を作り出す方法がないのならば、どうして魔導書を盗み出したのかが判らない。そしてジェームス・マッケンリーが殺された理由も。尤も、本当に盗み出されたのが『死霊の書』であったかどうかも疑わしいが。だがそんなことをいいだせばきりがない。ある程度の当たりをつけて仮定を正当化していかなければ、前には進めない。だが、魔法遺産が盗み出されたことを公表していないあたり、本当かもしれない。写本だとはいえ、魔導書そのものはかなり貴重な文化財だ。それをテロリストに盗まれてしまったとなれば、国際的な非難の矢面に立たされかねない。ましてや、日本最高の魔導師機関と唄っている陰陽寮がそんなへまをやらかしてしまったのだ。封印のある国としてそれりに誇りを持っている日本政府としては、面子のためになんとしても隠し通さなければならない。陰陽寮がわざわざ呼びつけた制裁人にすらその詳細な情報を教えなかったのも、下手に真相が露呈するのを嫌ったからなのか、それとも必要以上に世間体を気にする官僚気質が災いしたのか。そう考えると、無性にやるせなくなった。
「ところで、だ」気がつくとボーナムはタバコをくわえていた。先ほどまでとは違った意味で、険しい眼をしていた。確か、初めてあったときと同じ眼だ。とても帰りたくなったが、無理だろうな、とすぐに諦めた。
「雪乃のことですね?」
「ああ」そういって重々しく頷いた。
昔ドラマで見た娘の彼氏を前にした父親が、ちょうどこんな感じだった。
こういうのを親ばかっていうんだろうな、と思いながら深い溜息を心のなかでついた。
「話せないようなことなのか?」
「いえ、話します。話しますから、睨まないでください」
面倒くさいが仕方ない、と今朝起こった出来事をすべてボーナムに話した。話の途中でなにも質問がなく、表情が一切変わらないのがかえって怖かった。
「なるほど」それとなく非難がましい眼だった。「複雑な事情が個人的にあるようだが、その辺りはスルーしていいな」
「ええもう、説明が面倒なんで」
「で、お前はどうしてユキノが怒ったのか判るか?」
「それが判れば苦労しませんよ」そう応えながらも、たいしたことではないと心のなかでは思っていた。朝っぱらから目の前であんなものを見せ付けられれば、誰だってイラっと来るだろう。
「多分あいつは、嫉妬したんだろうな」
「嫉妬……ですか?」
理解しがたいことだった。そもそも彼女と出会ってからまだ三日目だ。嫉妬されるほどの関係に発展してもいなければ、彼女が自分に対してそれほど好意を抱いているとも思えない。
「ずっとあいつは孤独だった。特にこの二年間。両親を探すと高等部には行かず、実質学校を辞めて、それからたった一人で走り続けてきた。そんなときにお前が現れた。そろそろあいつのなかでも限界が来ていたのかもしれない。助手という名目でお前と一緒に住むようになった。それがたとえ短い時間であろうと、手放しがたい平穏な時間だったんだろう。その間に、なんらかの感情が生まれたと考えてもおかしくはない。孤独の揺り返しに見た幻想かもしれんがな」
できればそれが幻想であって欲しいと思った。いまの時点ですでに帰国することに腰が引けているというのに、もしそうであるならますます帰り難くなる。だが、ふとあの痛々しい笑顔が脳裏をよぎった。儚げで、ガラス細工のように繊細で脆く感じた。自分も、もしかしたらそれなりに彼女に惹かれてしまっているのかもしれない。
「そういえば、雪乃の両親って二年前にいなくなったって聞いたんですけど」
「ああ、そういっているな」
「詳しいことは知らないんですか?」
「いや、真実を知っている」
「真実? どういうことですか?」
「覚悟はあるのか?」
「…………覚悟?」
「これはそういう話だ」
僅かな沈黙。
視線が交錯する。
恭也は、ゆっくりと頷いた。
「どうせ、あなたは話すんでしょう?」
「まあな」ボーナムはいった。「お前にはあいつを狂わせた責任を取ってもらう。尤も、引き返したいなら、まだ間に合うが」
「いえ、聞かせてください」
僅かな後悔もあったが、それ以上に知りたいという気持ちがあった。思えば、自分は彼女のことを何も知らない。
一度深呼吸をすると、ボーナムは語り始めた。
「二年前の、ちょうど今日みたいに寒い、雨の降る夜だった。この街で二人の日本人が殺された。名前はシンヤ・クサナギとエミ・クサナギ。ユキノの、両親だ。シンヤは背中を散弾銃で撃たれて、玄関に足を向けて倒れていた。そしてエミは、リビングで正面から銃弾を食らって、顔がつぶれて誰か判らなくなっていた。そして、ユキノは寝室のベッドの上で横腹を打たれて意識不明の状態で発見された。なんとか一命は取り留めたが、長時間、大量に出血したままだったから脳がダメージを受けて意識が戻らないかもしれないといわれた。だが、三ヵ月後、奇跡的に意識を取り戻した彼女は、すっかりその夜のことを忘れていた。解離性健忘症というやつだな。自分の心を守るために、大きな衝撃を与えた出来事を忘れてしまう。俺は、医者や周りの人間と相談して、両親が殺されたことを伏せることにした。いずれ時が来れば話すから、と」
「…………それは、本当のことなんですか?」
「ああ、いまでもあいつの体にはその時の傷が残っている」
信じられないことだった。あの雪乃がそんな目に遭っていたなんて。それと同時に胸が締め付けれらる思いがした。彼女は、両親を探すために探偵をしているというのに、その両親はすでに殺されている。やるせなさと怒りがこみ上げてきて、睨みつけるようにボーナムを見た。
「間違っても、このことをユキノに話すな」硬く、無機質な声。
「どうして」
「いまのあいつが生きているのは、両親を見つけ出すという目的だけだ。それがなくなれば生きる目的をなくす」
「けれど、いつまでも隠し通せるものじゃありません」
「判っている。時が来れば話すつもりだ」
「それはいったいいつなんですか」我知らず語気が強まっていく。
「犯人を捕まえたときだ」
「まだ、捕まっていないんですか?」
「情けないことにも。最終的な容疑者を割り出すまでには至ったんだが、そいつには揺るぎないアリバイがあった。それが崩せなかった」
「それは一体――?」
「アンドリュー・ピチェニック。この街の魔導師学校の教師、お前と同じネクロマンサーだ」
それは、恭也にも聞き覚えのある名前だった。「魔導師学校に建設する訓練場のことでやつはシンヤと揉めていた。シンヤは結界を構築する術式のなかに欠陥を発見して、一から計画をやり直そうと提唱した。だが、どういうわけかアンドリューはそれに断固反対して、一刻も早く完成されることを望み、彼らは対立した。尤も、学校側はシンヤの意見に同意していたがな。そんなときにクサナギ夫妻は殺された。ただ一人早急に建設を推し進めることを意見して、シンヤとも対立の深かったアンドリューに疑いの目が向けられた。実際、犯行のあった日に目撃証言もいくつか出ている。だが、どういうわけか奴にはアリバイがあった。同時間のまったく別の場所で何人もの人間に目撃されていた。そこで捜査は行き詰った。迷宮入りだ」
短い沈黙。
語り終えたボーナムは新しいタバコに火をつけて、煙を吐き出した。
「……昨日、その人に会いました」恭也はいった。鈴香と学校を訪れたときに確かにその名前の人物とであった。「でも、とても人殺しになんて見えませんでした」
「そういう犯罪者も大勢いる。あからさまに犯罪者だと見て判るような連中ばかりなら、俺たちの仕事はもっと楽になるはずだ」そういうとボーナムは立ち上がった。「話はこれまでだ。家まで送ろう」
「いえ、死体消失事件が一番最近起こった現場に連れて行ってください。なんていうか、なにか小さなことでもいいから成果を挙げて、それで仲直りの材料というか、話をする糸口にしたいんです」
「判った」しかたがないという風にボーナムは頷いた。「いくぞ」
部屋をでて、階段を上がっていくと一番上にボディーガードのような男が立っていた。先ほどとは違う男だった。もしかしたら時間制で交代しているのかもしれない。短い挨拶を交わして店内に戻った。カウンタを横切るときに、あの少女と目が会った。「また来て」また無愛想にいうと手元の作業に没頭し始めて、それからこちらを見ようとはしなかった。店の外に出ると、雨脚は少し弱まっていたが、それでもまだ雨音が耳の周辺に纏わり付くほどの強さで降っていた。ほとんど大差ないといっていい。店の隣にある駐車スペースに車が止めてあって、そこまで走っていき、車に乗り込んだ。
移動中、まったく会話がなかった。あの話を聞かされたあとでは、むしろその方がありがたかった。いろんなことが頭のなかをぐるぐる回っていて、何を話すべきかよく判らなくなっていたからだ。
そうしてじっと窓の外を眺めていると、墓地の前に着いた。
「ジェームス・マッケンリーもここで殺されていた」
「え?」
「それと、猟犬部隊が動いているらしい」
「猟犬部隊が?」
猟犬部隊といえば、連盟が世界中の制裁人から選りすぐった人材によって組織された対ロンギヌス用の特殊部隊だ。
ノーライフキングの件はほぼ机上の空論だとして、それならば一体どういう理由で彼らが動いているのだろうか?
「連中の幹部がいるらしい。気をつけろ。もしさっき話した説が正しいのなら、お前は明らかな邪魔者だ。くれぐれも用心しろ」
「判りました」と答えてから車を降りた。傘を開くまでの僅かな時間で、かなりの量の雨に打たれてしまった。シトロエンが遠ざかっていくのを途中まで見てから墓地へと向かった。
土がむき出しの舗装されていない地面はぐちゃぐちゃにぬかるんでいた。どこまでが水溜りでどこまでがそうでないのかがまったく見分けが付かなかった。歩き始めてすぐに靴のなかまでぐっしょりと濡れてしまった。しばらくすればなれるだろうと、無視して墓地を見渡した。死体が抜け出した墓はまだ穴が開いたままだった。
「…………?」
その穴の配置が少しだけひっかかった。ほとんどすべての墓には死体が抜け出したあと――掘り返されたような穴――があるのだが、そのうちの幾つかの墓石は倒れていた。近寄って倒れた墓石を見てみると、なにか小さな文字が書き込まれていた。他の倒れた墓石にも同様になにかが書かれていたが、立ったままの墓石にはなにもなかった。
これはなにかある、と思った。それから周囲を見渡した。墓地の奥のほうに、小高い丘が見えた。その頂上には屋根のある――東屋のような建物もあった。高いところから見れば何か発見があるかもしれない。希望的観測に過ぎないが、それでも可能性があるならやってみなければならない。正直、こうも日にちが経ってしまったのでは、もはや魔力探査は何の役にも立たない。
十分ほど歩いて丘の前に到着した。ありがたいことに、昇りやすいように斜面を削って階段が作られていた。そこを昇っていき、頂上付近まで来た頃、屋根の下に一人の少女がいることに気がついた。少女は、紅いドレス姿で、頭からつま先までずぶ濡れでベンチに俯いて座っていた。金色の綺麗な髪からぽたぽたと雫が垂れて、コンクリートの地面に染みを広げていた。
「あの……」近寄っていった恭也は、思わず声を掛けていた。
だが少女はなんの反応を示さなかった。
少し不気味に思ったが、少女を無視することにした。
背を向けて眼下を見渡す。
少し霧が出ていたが、しっかりと墓地を一望できた。
じっと見ていると、なにか図形が描かれているのが見えてきた。
「――なるほど」
墓石が倒れている部分。それを繋ぎ合わせると、魔法陣の一部にあるような五芒星になったのだ。
先ほどの疑問に合点がいった。
思わぬ成果に飛び跳ねたい気持ちを抑えて、ゆっくり深呼吸をするとすぐに知らせようと歩き出そうとした。が、その前に少女のことが気になって振り返った。
刹那。
どん、と正面から少女がぶつかって来た。
突然のことで、バランスを崩して尻餅をついてしまった。
「なにすんだよ!」そう叫ぼうとして、口から溢れたのは鮮血だった。
少女を見た。
血のような真赤なドレス。濡れている所為か、その色はどす黒く見えた。
真赤なルージュを引いた口元。口角が裂けるように吊り上がって不気味な笑みを浮かべていた。
そして手には血塗れたナイフ。かなり刃渡りの大きい、両刃のナイフ。恐らく、ダガーナイフかなにかだ。
少女はゆらり、と近づいてくると、何の前触れもなくナイフを振り上げ、そして再び刺した。こんどは激痛が走った。内蔵を抉られる痛み。
「―――――っ」
さらにもう一回。意識が遠のく。
もう一回。覚醒。
もう一回。痛みが鈍くなってきた。
もう一回。すべてが他人事のように思えて、どうでもよくなってくる。
もう一回。雪乃の顔が思い浮かんだ。
気がつくと、少女がこちらを見下ろしていた。どこかで見たことのある顔だな、と思った。まるで水中で目を開けているようなぼやけた視界のなかで、少女は笑っていた。徐々に辺りが暗くなってくる。靴音が響いて、それがだんだん遠ざかっていく。それが、突然途切れた。雨の音も聞こえない。急に眠たくなってきて、ただ眠ってはいけないという本能のささやかな抵抗もむなしく、ゆっくりと瞼は閉じられた。
4
不意に腹部に激痛が走った。思わず佐奈は、よろめいて床に座り込んだ。歪み暗転しそうになる視界に、沢山墓石が並んでいるのが見えた。
「これ……は……?」
脂汗が額に滲む。(お兄ちゃん)と生前に覚えた念話で呼びかけた。元々双子だったことに加え、自使役される死体として精神も繋がったいまの状態では、恭也とどれだけ離れていても念話が通じる、はずなのだが。その返事がない。途端に血の気が引いた。
(お願い! 返事して!)
だが、いくら呼びかけても返事は返ってこない。
深く息を吸って吐き出すと、痛みが直に和らいできた。別に自分が痛いわけではない。契約がなされる際に精神が繋がってしまったから、痛みまで共有してしまったのだ。一方的にシャットアウトできるのでそれに関しては問題ない。
雪乃の部屋の前まで来ると、迷わず扉を開けようとした。だが開かない。
「大変です!」がんがんと扉を叩いた。「お兄ちゃんが! お兄ちゃんが死にそうなんです!」
すぐになかで物音がして、扉が開いた。
「本当なの?」と雪乃が詰め寄ってきた。
「はい。そういうの、判るんです」
「場所は?」
「判らない。けど、お墓のある場所……かな」
「お墓……」そう呟くとしばらく考え込んで、「多分、あそこだ」といって部屋のなかに戻って刀を持って出てきた。「行くわよ」
「はい」
傘も差さずに外に飛び出した。土砂降りの雨のなか、人がいつもより少ないメインストリートを走りぬけた。途中でタクシーを見つけるとそれに飛び乗った。
「四番墓地までお願い」雪乃がいった。「速度オーバーしてもいいから、とにかく早く!」
気おされたように運転手は頷いて、タクシーを発車させた。
「ねえ、恭也がどんな状況か判る?」
「はっきりとは判んないですけれど、たぶん、ナイフか何かでおなかを刺されたんだと思います。それも、意識を失うほど」
「まずいわね。あたしあんまり治癒魔法得意じゃないのに。あんたは?」
「わたしもあんまりです。でも、半人前でも二人揃えば一人前です!」
「そういう問題?」
「いまは、そんな風にでも考えないと、やっていられません」
不安に胸が押しつぶされそうになりながら呟いた。自分の死体としての契約は、恭也が死ぬまで。だから、彼が死ぬときには自分も本当の意味で死ねる。だから、ふたり死ぬまで一緒。だけど、こんな死に方は絶対に嫌だ。最後は、すっかり年を取って皺くちゃになった兄の枕元で、ふたり一緒に天に昇る。そういう幸せな最後を遂げたいのに。
だから、絶対にここで死なせてはならない。
目的地に到着して、雪乃がタクシー代を運転手に投げつけている間に佐奈は車外に飛び出していた。墓地のなかを走りながら兄がみた風景を探す。確か少し高い場所から墓地全体を見下ろしていたような。泣きそうになりながら周囲を見渡して、丘を見つけた。
あそこだ!
足元が濡れるのも気にせずはじけるように走り出した。
息が切れない死体の体に感謝をしながら、一気に丘を駆け上がった。そして、血の海に沈んだ恭也の姿を見つけた。
「お兄ちゃん!」
駆け寄って、側にしゃがみ込んだ。大声で名前を呼んでみたが、反応はない。耳を口元に近づけると、僅かに呼吸をしていることが確認できた。自分がこうして行動しているので、まだ生きているということは判っていたが、しっかりと形ある証明が欲しかった。
少し遅れて雪乃もやってきた。息を切らしながら佐奈の正面にしゃがんだ。
目が合った。
「やるわよ」
「はい」
気持ちを落ち着けて掌を傷口に向ける。計六箇所の切り裂かれた傷口からはいまも鮮血があふれ出していた。治癒魔法を発動するための魔法陣を展開する。掌から仄かな灯りが溢れて、傷口を照らす。反対側からも同じ光が発せられて、更に暖かな光は強さを増す。
なれない魔法で、いつも以上の魔力を消費していることを自覚した。それでも止めることは出来なかった。むしろより多くの魔力を注ぎ込んで、必死に治療に当たった。徐々に出血量が減ってきているような気がしたが、それが果たして魔法のおかげかなのか、もう出て行く血液がなくなっていきているのかは判らない。とにかくやるしかなかった。ふと視線を上げると、雪乃も辛そうな表情で唇を噛んでいた。
そのときだった。
すぐ近くでサイレンのような音が聞こえた。それが犬の遠吠えだと気がついた瞬間、東屋のなかに巨大な黒い塊が踊り込んできた。喉を唸らせ睨みつける二対の瞳には狂気的な獰猛さが燃え滾っていた。体長優に一メートル五十センチは超える巨大な黒犬。
稲光が世界を白く染め上げたとたん、鋼のような筋肉をしならせて、こちらに向かって飛び掛ってきた。異様に長く尖った牙が、大きく開いた口のなかで光っていた。
とっさに飛びのこうとして、血塗れで横たわる兄の姿が目に入った。
一瞬の迷い。体が硬直して動かない。
駄目だ、と思った。
とっさに目を瞑る。
だがいつまで経っても痛みは訪れない。
目を開けると、抜き身の刀を片手に、こちらに背を向けて立つ雪乃の姿があった。頭から鮮血を浴びて、髪の先から紅い雫が滴り落ちている。先ほどの犬は、胴体と首を切り離されて絶命していた。
「あの……」佐奈はなにかいおうとした。
「まだよ。誰かいる」そういって、雪乃は眼下の墓地を睨みつけるように見下ろす。佐奈はその視線の先を追った。
数メートル先の視界も聞かないほどの豪雨なのなか、こちらに近づいてくる人影が見えた。そしてその隣には巨大な黒い影。たぶん、さっきの犬と同じものだろう。あれはいったいなんなのだ、と雪乃が切り殺した死体を見た。首と切り離された胴体が、びくびく痙攣している。グロテスクな光景で、背中を嫌な汗が伝った。
「えっと、佐奈……だっけ?」雪乃がいった。いつの間にかこちらを向いていた。「あたしがあれの相手してくるから、あんたは治療をお願い」
そういって遠ざかろうとする背中を、佐奈は「あのっ」と呼び止めた。
「どうしてなんですか?」
「そいつのこと?」振り返らずに答えた雪乃は、「なんでだろうなぁ」と少し照れくさそうだった。
「じゃあさ。どうしてあんたは、そいつのことが好きなの?」
「え?」
どうしてだろう、と考えた。けれど、本当に大好きなはずなのに明確な理由が思い浮かばない。考えれば考えるほど、雲を掴むようで答えにはたどり着けない。
「そういうこと」
こちらの心境を見透かしたかのような言葉に、佐奈ははっとした。
「あたしもね、理由は判んない。特に、一目惚れとかそういう部類のものは」
「ひ、一目惚れ」それは聞き捨てならない言葉だ。
「だから、そいつ死なせたら、あんたの死体は魚の餌にするわよ」
振り向いて、歯を見せて笑うと血塗れの刀を一度振ってから、納刀。雪乃は雨のなかへ歩き出した。
が、不意に立ち止まると「そうだ」といって振り返った。
「いいかげん堅苦しいからその喋り方やめなさい。あたしとあんた、同い年なんだから」
「じゃあ、そうさせてもらいます」佐奈はいった。「なんだかわたしも、あなたに敬語を使うのが凄い癪だっから、ちょうどいい提案だと思うわ」
「あたしもなんだか馬鹿にされている気分だったから、ぴったりね」
火花が散りそうなほど熾烈な視線が交錯する。
「こんなところで死なないでよ」佐奈がいった。
「もちろん。あんたとは後々殴り合ってでも決着をつけなきゃなさそうだし」雪乃が不敵な笑みを浮かべ、「それじゃ」と背を向けて歩き出した。
「せいぜい死なないように」
手向けの言葉を送ると佐奈は治療に戻った。
※※※
ちょうど雨が返り血を流してくれるので都合がいいと思った。正直、血の匂いは生臭すぎて嫌いだ。丘を下っていくと徐々に人影が鮮明に見えてきた。
紅いドレスを着た少女。
「あんたは……!」
その顔に、雪乃は見覚えがあった。先日ここで拾った学生証。そこに映されていた顔写真と目の前の少女がそっくりだった。いや、恐らく同一人物だ。
「ごきげんよう」
そういってマリア・サザーランドは妖艶な笑みを浮かべた。何かに陶然と酔いしれたような目をしている。まるでトリップ中のジャンキーか何かだ。
「あなたはユキノ・クサナギ。ホールシティ魔導師学校の元生徒で、成績は優秀。苦手方面の治療系や補助系を除けば間違いなく学園始まって以来の天才といわれた魔導師。けれど二年前、突然高等部には行かず学校を辞めた」
「――どうして」
「知ってるのかしらねぇ、ふふ」愉快気にマリアは唇を歪めた。「探偵さんなら、自分で考えましょう? 先輩」
「なにが目的?」
「目的? それは誰が誰に対する?」
「言葉遊びは嫌いなの。さっさと答えないと、長年連れ添った相方(胴体)と泣き別れする羽目になるわよ」
「あの子みたいに?」
「あれは、あんたの犬ね」
「ええ、でもありがとう。あの子はまだ生きていたから。殺す手間が省けたわ」
「…………」
「そんなに恐い顔で睨まないでよ。もうすぐあなたもアンデッドの仲間入りできるんですから。素敵なことですよ、死ぬって。生きるものはみな時間に食われて老いさらばえて、朽ちてゆく。でも死は時間という概念の外側で、常に超越したままの存在としてそこにあり続けることができる。ね、とっても素敵でしょ?」
「わけ判んないわよ」
「じきに判るわ」
ずん、と足音を響かせて彼女の傍らにいた黒犬が前に歩み出た。怒り狂った瞳でこちらを睨みつけている。
「グレイズ。遊んできなさい」
主の命に答えるように、小さく唸った黒犬は次の瞬間、強靭な筋肉をしならせ地面を蹴りつけ、弾丸のように飛び出した。
だがそれを前にして雪乃は冷静だった。刹那の間にすっと腰を落とすと、しっかりと敵を見据え、交錯する一瞬に刀を抜き放った。
一閃。
手ごたえは充分。
ひゅんひゅんときり飛ばされた頭部がねずみ花火みたいに鮮血を撒き散らしながら宙を舞って、落下する。少し遅れて立ち尽くしていた胴体が倒れた。
「さて、あんたの手札はこれでなくなったわよ。観念しなさい」
「そうかしら?」
本来窮地であるはずのマリア、だがその顔には余裕の笑みが浮かんでいる。何か策があるのか、と警戒しつつ視線で牽制していると、彼女に背後になにか蠢くものが現れた。山側から降りてきた霧がそのシルエットをぼかしているが、それは、優に百を超えるのではあろうかという、死体――アンデッドの大群だった。
「どう? 楽しいパーティになりそうでしょう?」
「ええ、とっても。愉快ね」
ぎり、と奥歯をかみ締める。予定が狂った。さっさとこいつを片付けて治療に向かうはずだったのに。
だが、この程度の有象無象――あたしの敵じゃない!
いつしかアンデッドの波がマリアを飲み込んでその姿を隠していた。どのアンデッドも生前の姿にまで修復されていて、ぱっとみただけならば死んでいると判らない。その所為か、完全に彼女を見失ってしまった。
――それならば、すべてを倒してしまえばいいだけのことだ。
正眼に構えると、瞼を閉じて一度浅く深呼吸をした。そして目を開くと同時に魔力を刀に流し込んだ。刀身に刻み込まれた術式がそれに反応、光を放って、刀全体を淡い光が包み込む。魔力によってコーティングされた刃は、その切れ味を損なうことなく、幾らでも敵を切り刻むことが出来る。
「さあ、かかって来なさい。しっかり殺してあげるわ!」
そう叫んで、死体の群れに突っ込んだ。格好の餌食を見つけたとばかりに殺到するアンデッドたち。
「はあぁ!」
雪乃の振るう刀で、体を切り刻まれ、アンデッドたちは地に臥していく。
機械的に、向かってくるアンデッドを倒していく。それぞれはただの死体なので、たいして強くはない。だが、幾ら切っても彼らはすぐに肉体を修復し、また襲い掛かってくる。このままではいずれスタミナが尽きてしまう。焦りが彼女の胸に宿った。
大きくバックステップ。アンデッドの群れから脱すると、巨大な魔法陣を展開。鞘に刀を納め、腰を低くして構える。鞘に刻まれた術式が、魔力に反応して蒼白い光を放っている。
「――吹き飛べっ!」
刀を抜き払った。何もない、空を切った刀。だが、その刀身に纏っていた魔力が実体化した三日月形の刃となって地面すれすれに奔り、次々とアンデッドの足をなぎ払っていく。一時的にとはいえ、支えを失った彼らはばたばたとその場に倒れていく。
これはいける、ともう一度刀を鞘に納めたときだった。
「――――っ」
横合いから突如現れた黒い塊が肩にぶつかり、その勢いで倒れ、それでも止まらず地面を転がり、墓石に背中を打ち付けて止まった。押し出された空気を求めるように息を吸った瞬間、肩に激痛が走った。見れば、先ほど倒したはずの黒犬の頭が左肩に牙を食い込ませ、荒い息を吐いていた。
そうだ。あのアンデッドたちが幾ら切っても動くなら、こいつも同じなのに。そのことを失念していた。
「チェックメイト」
とっさに振り向いた。少し離れた墓石に腰掛けて、マリアは微笑んでいた。
「く――――っ」
まだだ。
刀から手を離すと、犬の口に指をかけて無理やりこじ開けようとする。激痛が常に襲っていたが歯を食いしばって耐えた。そしてやっとの重いで引き剥がすと、痛々しい傷跡が肩に残っており、流れ出た血液がセーラー服を赤黒く染めていく。刀を拾い、杖にして立ち上がって、マリアを睨み付けたときには、すでに周囲をアンデッドたちに囲まれていた。
「このまま殺してもいいんだけど」そういうとマリアはパチンと指を鳴らした。「――特別ゲストに来ていただいているので先にそちらを紹介しちゃいます」
ざっと、死体の群れが左右に割れて一本の道が出来上がる。
その先を雪乃は睨みつける。ゲストとはいったいなんだ?
「驚くわよぉ」
耳障りな声を聞き流しながら、近づいてくる人影を見詰めた。
その姿が鮮明になってくると、
「……うそ」
と雪乃は本当に驚愕の声を漏らした。
ありえない、と目の前の光景を否定する。
歩調をあわせてこちらへ向かってくる男女。二人とも東洋人の顔をしていて、どちらともに見覚えがあった。
少し怖い顔だけど、普段はいつも優しい父。
たまに厳しいことをいうけれど、やっぱり優しくて、いつも綺麗で大きくなったらこんな女性になりたいといつも思っていた母。
「……どうし…………て?」
二人は雪乃の目の前で立ち止まった。
他人の空似であって欲しいと思うのに、頭の奥で目の前の人物は間違いなく自分の両親だと訴えかける何かがいる。その声はやがて鐘を叩き鳴らすように響きだし、頭痛となって雪乃を襲った。
頭を抱えてしゃがみ込む。
「いやだ嘘だこんなの嘘だ絶対嘘だ」
うわごとのように呟きながら、これが夢であって欲しいと願った。
「あはははは!。本当に、知らなかったんだ。ふふ、なにかとってもいいものを見た気分」
嗜虐的なささやき。
「あなたの両親はね――」
「いや! やめて!」
嫌な現実から逃げるように両耳を手でふさぐ。だが、現実は指の間からするりと入り込んでくる。
「――殺されたのよ」
かりかりと頭のなかで何かが巻き戻されていく。銃声、悲鳴、真赤に染まった床、顔のない母、逃げ込んだ寝室、わき腹を抉る灼熱。
自ら閉ざしていた凄惨な記憶が堰を切ったようにあふれ出した。
「いやあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
※※※
雷鳴をも引き裂き響き渡った悲鳴が、佐奈の耳朶を打った。
「――――雪乃」
呟いて、舌打ちをすると、一端治療を中断して立ち上がった。
「なに……あれ」
墓地を埋め尽くさんばかりの人――いや、あれはアンデッドか――の群れ。そのなかにぽつんと小さな円形の空白遅滞が出来ていた。そのなかにうずくまるセーラー服姿の少女の姿を見つけた途端、彼女が負けたのだということだけは理解した。いまの叫び声もそのことに起因しているのだろう。
ふと、視線を感じて左の方向へ視線をずらしていくと、真赤なドレスに身を包んだ少女と目が合った。凍るような微笑を浮かべた彼女の姿に、佐奈は戦慄を覚えた。状況からして、彼女もネクロマンサーなのだろう。あれだけの数のアンデッドをいっせいに操っているとなると、かなりの実力者なのかもしれない。もう一度死体たちに目を向けた。彼らは何も語らない。とうの昔に意思というものが死んでしまっているから。
――けれど。
爪が食い込むほど拳を握り締めた。
――彼らは悲しんでいる。
同じ死体だから判ることだった。死してなお、残るものは確かにある。それが明確な意思ではなかったとしても、なんらかの思念として確実に伝わってくるのだ。
それが、泣いていた。
苦しいと、嘆いていた。
いますぐにでもあの女を殴りに行きたい気持ちを抑えるように、一度深呼吸をして、それから恭也に目を向けた。傷口はまだ完全にふさがってはいないが、出血はほぼ止まっていた。このまま安静にしていれば少なくともこれ以上酷くなることはなさそうだった。だが、あの少女を見る限り、このまま逃がしてはくれそうにない。背後を振り返る。丘を下って少し離れたところに古びた教会があって、その裏手にはそれほど高くはない山があった。遠目では背の高い針葉樹が林立しているのが見える。なんとか逃げようか、とも考えた。だが、仮にそこに逃げ込んだとして、無事に下山する自信はない。兄を背負って逃げている間に、傷口が開いてしまう可能性もある。そうなれば、最悪だ。同じ場所で折り重なって臨終するのは本望だが、如何せん場所が悪すぎる。それに、雪乃を放っておくわけにも行かない。
「万事休す……っていうんだっけ? こういうの」
何も細工はされていないただのアンデッドだろうから、個々の力は微々たるものだ。せいぜい壊した部分を再生する程度で、それくらいならなんの問題にもならない。
だがあれだけの数が集えば、ちりも積もればなんとやらというように、かなり厄介になってくる。それに、なれない治癒魔法を長時間使った所為で、かなり魔力を消耗している。契約者である、恭也の術の行使による補助がない以上、単独で戦うには辛い状況だ。魔力が切れると、自分はただの死体に戻ってしまう。
「……うぅ……」
小さなうめき声。はっとして振り向くと激痛に顔をゆがめながら恭也が起き上がろうとしているところだった。
「お兄ちゃん!」あわてて駆け寄る。肩を掴んで寝ている押し戻そうとしたが、「いいから……肩かせ」と鬼気迫る形相でいわれたので、いわれるままにして、立ち上がるのを助けた。佐奈の肩をかりて、立ち上がった恭也は、途端に咳き込むと血の塊を吐き出した。
「無理だよ!」と佐奈は訴えかけるが「大丈夫だ」と目一杯の作り笑いで返されてそれから先の言葉を飲み込んだ。
「胃に溜まってた分を吐き出しただけだ。むしろ――すっきりした」そういって不適に口の端を吊り上げると佐奈の肩から離れてふらりと、ひとりで立った。
「いまはどんな状況だ?」
「沢山のアンデッドに囲まれてて、雪乃もやられたみたい」
「あいつもいたのか」苦虫を噛み潰したような表情で呟く。「余計なことに巻き込んだな。佐奈、あいつまだ生きてるよな」
「ここからじゃ確認できないけど、たぶん……大丈夫だと、思う」
「なら、助けに行くぞ」
「でもその怪我じゃ」一応手当てをしたとはいえ応急処置に毛が生えた程度のものでしかない。激しい運動をすればすぐに傷口が開いてしまう。そんなこちらの心配を察したのか、ぽんと佐奈の頭に手を置くと「俺はあの女を殴るだけだ」といって笑った。
「術を使う」恭也はいった。「対ネクロマンサー用に生み出された俺たちの技――鹿羽流死霊魔導術の戦い方を見せてやろうじゃねえか」
「……うん」佐奈は頷いた。「あの人は、死体の扱いが全然なってない。きっちりと教育してあげないと」
「ああ。俺たちネクロマンサーは、儚い生涯を全うした死体様を恐れ多くも使役させていただいているんだ」そういって佐奈を抱き寄せる。「それを忘れた糞ッタレ野郎には、それ相応の罰が必要だ。そのために、俺たちがいる」
「うん」小さく頷く。暖かい何かが、流れ込んでくる。その瞬間、佐奈は生れ落ちる以前の夢を見る。まだ暗い、けれど確かな暖かさと安心感が包み込んでくれる母の胎内。それに似ているといつも思う。
「死者のために手向けの花を、生けるものに祝福を――」
歌うように読み上げられる呪文。巨大な魔法陣が展開され、放たれる光が周囲を紫色に染めていく。まるで彼岸の空のような色だ。
「死してなお、無間の業に囚われて――」
佐奈の胸に刻まれた刻印が、光を放ち始める。胸に鼓動が蘇り、そこから暖かい血液が体中に流れ出す。この一瞬だけは、いつも深い水の底から太陽を見上げているような不安が襲う。
「――悪を裁く剣となる!」
魔法陣から放たれる光は爆発的にその強さを増すと、屋根を、分厚い雨雲をも貫く一筋の閃光となって大空で弾け、そして次の瞬間にはマナの霧となって消えうせた。
もうもうと立ち込めるマナの霧のなかに佇むのは、満身創痍の少年と、彼に抱かれた黒いワンピースを纏い漆黒の長髪を風に靡かせる少女。
「そんじゃ、始めるぞ」
恭也の言葉に、名残惜しげに体を離すと佐奈はアンデッドの群れを見据えた。掌が淡い紫光を放つ。縁切りの手と呼ばれるそれは、触れるだけで死体とネクロマンサーの契約を無効にし、アンデッドを死体に戻すことの出来る、対アンデッド戦においては絶対無敵であり、そしてそれ以外ではまったく使いどころのない能力。ネクロマンサーを倒すことだけを目的としてきた一族が生み出した最高傑作の神秘。
「あんまり無茶しちゃ駄目だよ」佐奈はいった。
「お前も、ほどほどに」
そういって恭也は拳を向けてくる。
「うん」
それに、自分の拳をぶつける。
それが合図。
次の瞬間には、二人はそれぞれの向かうべき戦場へ駆け出していた。
※※※
火葬されたアンデッドは灰に、土葬されたアンデッドは腐肉の付着した骸骨に。少女の手に触れたアンデッドたちは次々とあるべき姿へ戻っていく。彼女が通った後にはひたすら骨の山が積み上げられていく。
「――こんなの聞いてないわよ」
忌々しげにそう呟くと、マリアはすでに再生が完了した黒犬を睨んだ。
「グレイズ。行きなさい!」
だが主の声に飼い犬はこたえない。ただ怯えたように尾を丸め、鼻に掛かった弱弱しい声を出している。それでも、主の命に背くわけにはいかないと思ったのか、グレイズは一度ぶるると体を震わせると地面を蹴り、屍を屠る少女へ向けて疾走した。
爪を噛みながら、走り去る愛犬の後姿を見送ると、マリアはどうやってこの状況を切り抜けるか考え始めた。だが、どう考えても突破口が見つからない。そもそもあの少女が規格外すぎるのだ。強制的に使役している死体とはいえ、それを更に強制的に契約解除をしていくなんて馬鹿げているにもほどがある。死体を操ることしか出来ないネクロマンサーが、勝てるはずがない。
いっそこのまま逃げ出そうかと考えた。自分はただ命じられただけだ。計画の邪魔になる人間を消せと命じられただけ。本来、彼を屠る役割は自分ではなかった。だがあまりにもあの人が行動を起こすのを渋ったがために、自分が出てきたのだ。こうして対峙して初めて、どうしてあの人が渋っていたのかが判った気がした。
だが、それならば、ここで自分があいつを倒してしまえばきっと、きっとあの人はわたしを褒めてくれる。ただ誰かに認められたい。その気持ちが彼女を衝き動かしてきた。幼少の頃に自分よりも魔導師としての才がある弟を亡くし、それ以来ずっと彼の代替として育てられてきた。だが、彼女自身に、魔導師としての才はそれほどなかった。ネクロマンサーとしての才能しかなかった。誰も、そんなものは望まなかった。だから、いつも「あの子が生きていたら」と家族を失望させ続けてきた。褒められたことなんて一度もなかった。けれど、あの人はこんな自分を必要としてくれた。
人の気配を背後に感じ取った。
振り返ると、あの男がいた。しぶといヤツだと思いながら「なんのごようかしら?」と内なる焦りを隠して挑発的な笑みを浮かべる。
「お返しに来た」
「あなたって意外とハンサムだから、別の機会に別の方法でお願いしたいんだけど」軽口で返して、なんとか心に余裕を取り戻そうとする。
「殺そうとしたヤツがなにいってんだ」そういって男はこちらを睨みつける。男の纏う、怒りというには生ぬるすぎるその威圧感に思わずたじろぎ、二の句が告げなくなる。
「誰の指示だ」
「なんのこと?」
「惚けるな。ネクロマンサーがこの街で俺を殺そうとする理由なんて限られてる」
「さっきの探偵さんより、よっぽど頭が切れるのね」くすくすと笑って見せるが、頭のなかはひたすらに冷え切っていた。もはやこの状況で逃げることも出来ない。鉄火場の中心では、あの少女がちょうどグレイズを倒したところだった。幼い頃からずっと使役してきた愛犬だったから、少しだけ心が痛んだ。その感情をすぐに押し殺し、マリアは墓石の上から降りた。ドレスを、半ばまで捲り上げ、太もものホルスターからナイフを抜く。赤黒く変色した血液が付着したそれは、一度目の前の男を刺したナイフだった。ヒールを脱いで、裸足で地面に立つ。
「今度はちゃんと殺してあげる」
砂利が足裏に食い込むことなど気にしない。そうだ、あの少女が彼と契約している死体なら、その大元を断ってしまえばすべてが終わるのだ。そうすれば、勝てる。地面を蹴って男の懐に潜り込む。そして、喉笛目掛けナイフの切っ先を向け、腕を伸ばす。やはり怪我の所為なのだろう、男はうまく反応できずに、立ち尽くしている。やった、そう思ったときだった。何かが腕にぶつかり、その勢いでバランスを崩して地面に倒れ、その拍子にナイフを取り落としてしまった。見れば、浅黒い骨だった。右手を貫き、半ばほどで骨は止まっていた。ぎょっとして骨が飛んできた方向を見た。あの少女がいた。
「チェックメイトだ」
男がいった。
警察車両のサイレンの音が近づいてくるのが聞こえて来た。そうか、さっきの魔力の爆発を感知してやってきたのか。激痛で集中力が途切れ、使役していたアンデッドたちが元に戻っていく。砂が掌から零れ落ちていくような無力感が押し寄せてきて、「……だめ、だった」と呟いた彼女は虚空を見つめながら空っぽの笑顔を浮かべた。




