52・聖女は飛び立つ
朝が来た。
窓の空は私の心とは裏腹に、憎らしいほど晴れ渡っている。
私はというと、朝からメイドたちによって身支度を整えられていた。
(メイドたちに支度を整えてもらうのなんて、いつぶりかしらね)
そんな皮肉めいた考えが私の頭をよぎる。
髪を整えられ、ドレスで飾られる。まるで贈り物のようだ。
ルーヴェン公爵はというと、既に屋敷へ来ているようで、下の応接室で父と待機しているらしい。
(……もう、時間がない)
それでも私は、まだ窓の外を眺めていた。
ギリギリまで、クラウス様が来てくれることを待つ。
(……クラウス様は絶対に来る。来てくれる)
妙な確信めいたものが、私の胸にはあった。
もしかしたら、現実逃避なのかもしれない。
それでも、私にはそれに縋るほかなかった。
「あらやだ。着飾ればお姉様でも少しはマシに見えるものね」
昨日は結局、ミレシアは教会へは帰らず屋敷に泊まったらしい。
私の不幸がそんなに嬉しいのだろうか。ミレシアはベッドに座り、足をぶらぶらと揺らしながら楽しげにこちらを眺めていた。
「教会にいてもつまらないし、ここでお姉様の様子を見てる方がよっぽど有意義だわ」
ミレシアの発言に、もう怒りは湧かなかった。
彼女が聖女でないのなら、ある種納得ではあるし、もはや諦めの境地だ。
(……だけど、そうなったら教会は、この国は、どうなるの?)
昨日から、ずっと考えていた。
ミレシアが聖女の力を持っていないなら、私はどうするべきなのかを。
この国において、聖女は救いの象徴だ。
国内中から、聖女の癒しの力を求めて依頼が舞い込んでくる。
聖女信仰は意外にも根強いものだ。
……この二人が思っているよりも。
(……私は、聖女だわ。力を持って生まれたのだから、私はその務めを果たす義務がある)
胸の内で私が考えていると、支度が終わってしまったようだった。
メイドたちが静かに下がっていく。
代わりに継母がヒールを響かせながら近づいてきて、私の姿を上から下までじろじろと見回した。
そして継母の視線が、ふと私の首元に止まった。
「なあに、この安っぽいネックレスは。今日の場にはふさわしくないわ。みっともない」
継母の派手に飾られた爪の先が、ネックレスのチェーンに触れる。
瞬間、ぞわりとした鳥肌に似た感覚が私の体に走った。
私は継母の手から守るように、ネックレスの宝石を握りしめる。
「……クラウス様からいただいたものです。触らないでください」
静かに睨みつける私の視線に、継母はふふ、と鼻で笑っていた。何がおかしいのだろう。
「クラウス? ふふ、あの騎士も見る目がないわよねぇ、何が王国一の騎士よ。こんな地味な子の何がいいんだか」
継母は笑いながら、わざとらしく肩を竦めて見せる。
(……クラウス様が、見る目がないですって? クラウス様は誰よりも強くて、誠実な方だわ。知りもしないくせにどうしてそんなことを言えるの?)
爪の先から頭のてっぺんまでが、信じられないほど熱くなっていた。
継母の言葉が重なれば重なるほど、私の中で信じられないほどの怒りが膨らんでいく。
「何回も何回も屋敷へやってきて、ほんと馬鹿な男。ま、そのうちわかるでしょ、ミレシアの方がいいって――」
その瞬間、私の中で何かが弾けるのがわかった。
今まで堪えていたものが、堰を切ったように言葉となって溢れ出す。
「私はいくらバカにされてもいい。でもクラウス様をバカにすることは許さないわ……!」
普段私が大声を出すことはないからだろうか。継母とミレシアがそろって目を見開いた。
「何よその口の利き方!」
だが、すぐに我に返ったのか、継母が私へ掴みかかろうと腕を上げる。
ちょうどその時、窓の向こうに馬に乗ってこちらへ駆けてくる騎士の一団が見えた。
(クラウス様!)
先頭にいる黒髪の騎士は、絶対にクラウス様だ。
私は継母の腕を強く振り払うと、窓へ駆け寄った。
そのまま窓を開け放って、窓枠へ足をかける。
「何をしているの! レティノア! 降りなさい!」
風が頬を撫でた。
慌てた様子で継母やミレシア、使用人たちが私へと駆け寄ってくる。
「私は聖女です。教会へ戻ります! 祈りを捧げることも、好きな人とともにいることも私は諦めない!」
私は制止を振り切るように、振り返ることなく窓から飛び降りた。
空気を割くように足元から落下していく。
「……っう…………!」
そのまま低木の植え込みへと落ち、私の体は枝や葉に強く打ち付けられた。
短く刈られた枝が脇腹を打ち、葉の尖った部分が腕や足に刺さって、顔を歪めてしまう。
それでも、どうにか体を起こして立ち上がった。
クラウス様がこちらへ向かってきてくれている。
屋敷の人間に捕まる前に、合流しないといけない。
体を引きずりながらどうにか門の方へ視線を向けたその時、
「いやいや……。ずいぶんと活きのいい娘ですな」
「レティノア! 何をしているんだ!」
玄関の方からばたばたとした足音と、男性の声が聞こえてきた。
嫌な予感がして、私は首だけをぎこちなく動かして振り返る。
父と――ルーヴェン公爵だ。
自分の顔から血の気が引いていくのが、はっきりとわかった。
足から力が抜け、その場にへたり込んでしまう。
こちらへ向かってきているのは、二人だけではない。門の方からは、私が落ちた音を聞き付けてか門番も走ってきている。
「ええ、ええ! もう、お転婆な子で! 申し訳ありません!」
さらに最悪なことに、継母とミレシアまでが慌てた様子で玄関から姿を現していた。
「いやぁ、なかなかに面白いご令嬢ですなぁ、是非連れ帰りたい」
ルーヴェン公爵はカエルのようにぎょろりとした目で私を見ると、膨れ上がった体を揺らしながらこちらへと近づいてくる。
(終わった――)
もう逃げられない。
私が諦めるように目を瞑ったその時だ。
門の向こうから、地面を震わせる蹄の音が近づいてきた。
馬に乗った騎士たちが、屋敷の前庭へなだれ込むように現れる。
先頭にいるのは、やはりクラウス様だ。
「なっ、なんだ! 何事だ!」
慌てふためく父たちをよそに、私を見つけたクラウス様は馬から飛び降りる。
「俺の妻を返してもらおう」
クラウス様はそのまま一直線に駆けてくると、へたりこんだままだった私を掬いあげるようにして抱えあげた。




