42・踏み込む夜
気づけば私は、クラウス様の腕の中に抱きとめられていた。
一瞬の出来事で、何が起きたのか理解が追いつかない。
クラウス様は、ベッドに半ば乗りあげる形の私を優しく抱き締めてくる。
「……クラ、ウス様……?」
信じられない思いで瞬きを繰り返していると、上からクラウス様の声が降ってきた。
「俺は、あなた以外と結婚するつもりは無い」
「……っ」
「俺はそもそも、あなたが聖女だと思っていたからこの婚姻を受け入れた。あなたが本物の聖女でなかったとしても、何も変わらない。俺にとっての聖女はあなただけだ」
響きこそ穏やかだが、その声には確かな意思が宿っていた。
まっすぐに告げられて、思わず顔が熱くなる。……顔だけではない。胸の奥にまでじんわりと熱が広がっていく。
「引き離されれば取り戻しに行く。俺は何があっても、あなたを離したりしない」
クラウス様の言葉は、まるで私の中の不安を溶かしていくようだった。
守られている安心感が、ただ私を包む。
「俺はあなたの騎士であり、あなたの夫だ。もっと頼ってくれ。して欲しいことがあればなんでも言ってほしい」
言いながら、大きな手のひらが私の背中を往復するように撫でてきた。
不思議な感覚だ。クラウス様に撫でられるたびに、胸のざわめきが静まっていく。
(……して欲しいこと)
クラウス様の言葉に、ふとどうしてもお願いしたいことが私の胸に湧いた。
「クラウス、様……。名前を……呼んでいただけませんか」
「…………っ」
「……なんでもって言ってくださいましたよね。だったら、名前を呼んでほしいです」
いつもクラウス様は私のことを「聖女殿」か「あなた」と呼ぶ。だが、好きな人には名前で呼ばれたいのが乙女心というものだ。
私のお願いに、クラウス様は一瞬言葉を失ってしまったようだった。沈黙の中、おそらく言葉を探しているのだろう。
ちらりと視線を向ければ、クラウス様の耳がほんのり赤く染まっていた。
「…………レティ、ノア」
「……!」
たった一言。名前を呼ばれるだけで、心の奥が締め付けられるように震えた。
「レティノア……」
一度呼べば照れは引いたようで、クラウス様は私の名前を大切そうに繰り返してくれる。
優しく私の名を呼ぶ声が、緩やかに頭を撫でてくれる大きな手が、すべてが心地よい。
(……どうしよう。もう一つわがままを言ってもいいかしら)
わがままを言って甘えても、この人なら許してくれるだろうか。
「……出来たら、このままここで、眠ってもいいでしょうか……?」
「――ッ!?」
おそるおそる私が口にした瞬間、それまで穏やかに頭を撫でてくれていたクラウス様の手がびくりと跳ね上がった。
「……クラウス様の腕の中なら、安心して眠れる気がして……」
言葉を付け加えたものの、クラウス様は困惑してしまっているようだ。
少し体を離して見上げれば、クラウス様は額にうっすらと汗を浮かべ、どこか焦ったような表情をしていた。
「そ、れは……」
「ダメでしょうか……?」
言いながら、私自身無茶なことをお願いしているという自覚はあった。
(……それでも……。今夜だけでいい。もう少しだけ、クラウス様のそばにいたい)
クラウス様はしばしの間逡巡した後、やがて片手で前髪を乱すようにかきあげた。
「構わないが……。俺が、あなたに手を出してしまうかもという可能性は考えないのか……?」
低く呻くように言うと、クラウス様は私の首の裏に手を回した。
「え――」
そのまま強く引き寄せられ、私の唇がクラウス様のものと重なる。
「……っん……」
優しく触れ合わされ、至近距離で琥珀の瞳と目が合った。
(……どうしよう、目がそらせない)
いつもは凛とした涼し気な琥珀の瞳が、熱をたたえて私を見ている。
その瞳を見ていると、私の胸の奥から熱いものが流れでて、呼吸さえままならなくなるような気がした。
「俺がどれだけあなたを求めているか……。どれだけ今、抑えているか……。理解していないんだろう?」
クラウス様は、私の耳元で低く苦しげな声で囁いた。
だが言葉とは裏腹に、そのまま腰を引き寄せられ、距離がさらに縮まる。
突然すぎて心が追いつかない。
「……レティノア。俺はあなたを愛している」
それでも、真っ直ぐなクラウス様の言葉は、確かに私の心へ届いたのだ。
(……私もです。クラウス様)
クラウス様となら、不安を乗り越えられるかもしれない。
けれど、あの両親やミレシアがどう出てくるのか分からない今、「愛している」と返すのが怖かった。
伝えられない代わりに、私はそっと目を伏せて、もう一度近づいてくるクラウス様の唇を受け入れた。




