32・不器用な誘い
ルイスが帰ったあと、私はとりあえず机に向かい、中断していた報告書の続きを始めた。
しかし、当然ながらルイスの意味深な発言が気になって、どうにも進みが悪い。
(はぁ……。ルイスは何を知っているんだろう)
彼は、三年前の事件について気にかけている。
あの日の報告書を、疑ってくれている。
その事実は、私の集中力を奪うのに十分だった。
(今日はもう、無理だわ。進まない)
私はため息を一つつくと、ペンを机に転がした。
今日はもう休むことに決め、席を立つ。
その時、部屋の扉を控えめにノックする音が聞こえてきた。
私は壁にかけられた時計をちらりと目を向ける。時計の針は夜深くを指していた。
こんな時刻だ。教会への訪問者という線は薄いだろう。
(もしかして、クラウス様?)
可能性として最も高いのは、クラウス様だ。一応この教会で同居しているのだから。
だが、あのクラウス様が、私の部屋を訪問してきたりするだろうか。
あれこれ考えながら扉を開ける。扉の外に立っていたのは、やはりクラウス様だった。
気のせいだろうか。いつもよりも表情が固く、強ばっているように見える。
「っクラウス様? どうかされたのですか?」
(……というか、初めてじゃない? クラウス様が私の部屋を訪ねてくるのって)
部屋の前で鉢合わせたことは何度かある。だが、彼が私の部屋の扉をノックしたことは一度もない。
もしやと思いはしても、いざ目の前にクラウス様が現れると息が詰まるほど驚いてしまった。
私は信じられないものを見るような目でクラウス様を見つめてしまう。
「いや……。夜分遅くにすまない」
「い、いえ、かまいませんけど……」
一体なんの用事だろうか。
ほんの少しだけ逸る心臓を、私はどうにか押さえつける。
クラウス様のことだ。この訪問には、きっと何か理由があるのだろう。
しかし、クラウス様はなかなか口を開こうとはしない。気まずそうな様子で、視線を泳がせている。
(な、何……。こちらまで気まずくなるんだけど!?)
あまりの居心地の悪さに私も視線をさまよわせ、どうにか話題をひねり出す。
「ええと……。きょ、教会の戸、すぐに直していただいてありがとうございました」
「あ、ああ」
短い返答の後、私たちの間には沈黙だけが残る。
(……会話が続かないんですけど!? これ、私が悪いの!? クラウス様は何しに来たの!?)
気まずいながらも見上げれば、クラウス様は何かを言おうと言葉を探しているようだった。
しばらく逡巡するように口を開きかけ……、やがて意を決したようでクラウス様は私の方へ視線を向けた。
「……その、昼間のことだが、気にしないでもらいたい」
「昼間?」
「ルイスが、その……。嫉妬だの、むっつりだの、好き勝手言っていたことだ。間違ってはいないんだが……その」
「ああ、大丈夫ですよ。気にしていません」
もしかして、それを気にしてわざわざ弁明しに来たのだろうか。
クラウス様は背も高く、細身ではあるものの騎士団長を務めるだけあって鍛え上げられている体つきだ。
おまけに、「血も涙もない冷血な悪魔」などという妙な噂を流されても納得してしまうほどの、静かな威圧感と鋭い目元。
そんな強面気味な男性が、友人の発言を気にしていたことがなんだか微笑ましい。
(可愛いところもあるのね)
思わず口元が緩み、くすりと笑いをこぼしてしまう。
そんな私の様子を見てか、クラウス様の表情がわずかに緩んだ。強ばりが薄れたことに、私もほっとする。
「それで、だ。……あなたの予定を確認したいのだが、いいだろうか」
「予定、ですか? 仕事の?」
おもむろに告げられたクラウス様の言葉に、私は思わず目を瞬かせた。
聖女としての仕事のスケジュールならば、警備等の都合があるためクラウス様には共有しているはずだ。
(あ、でも、もしかしたら何か変更があって、確認にこられたのかも)
さすがはクラウス様。以前にも思ったが、仕事熱心な方だ。
「……いや、仕事ではなく、その……」
クラウス様が何かを言いかけていたが、よく聞き取れない。気になりつつも、私はスケジュールを確認するために手帳を取りに机へ向かった。
クラウス様に尋ねられるままに、しばらく先のスケジュールを伝える。
聞き終えたあと、クラウス様は口元に手を当ててじっと何やら思案しているようだった。
「……そうか。やはり三日後の予定は無いのだな」
「え? ええ」
クラウス様の声には、どこか確かめるような響きがあった。その言葉の裏にただの予定の確認ではないものがあるような気がして、戸惑ってしまう。
(な、なに? 三日後に何かあったかしら……)
違和感を覚えながらも、私は再度手帳に視線を落とす。
明日明後日は、近隣の町への訪問を予定していた。と言っても、どちらも日帰りができる距離だ。
その次の日――三日後は、休養日としてもともと開けていたのだ。
聖女にも、聖女補佐官にも、休みの日は必要である。
(……教会へ訪問者があれば、対応はするけどね)
「聖女殿」
ふとクラウス様から呼ばれて、手帳から顔を上げる。
見上げれば、クラウス様は真剣な瞳でこちらを見つめていた。
真っ直ぐなその視線から、目が離せなくなってしまう。
「……っクラウス、様?」
クラウス様から伝わる緊張が、私にまでうつってしまったみたいだ。
名前を呼び返したはずなのに、声が上手く出てこなかった。
「……だったらその日……。俺と、出かけてくれないか」
「…………え?」
「あなたと、デートがしたい。……駄目だろうか」
デート、などという甘やかな単語が、まさかクラウス様の口から発されるなんて思ってもみなかった。
というか、予想すらしていなかった言葉に、思考が追いつかない。
(デート……? 私と、クラウス様が……?)
「……っ!?」
頭の中で言葉を繰り返して、ようやく事態を把握した途端、一気に体が熱くなった。
顔も指先も、すべてが燃えるように熱い。
ぱくぱくと口を動かすばかりで言葉にならない私に、クラウス様はどこか気まずげな様子で視線を逸らしていた。クラウス様の横顔も、ほんの少し、赤いような気がする。
(クラウス様は、結局、私のことどう思っているの?)
私は立場上は、クラウス様の妻だ。
その立場から考えれば、デートに誘われることは何ら不思議な事じゃない。
しかし、「俺はあなたに触れるつもりはない」と言い放たれている上、クラウス様はミレシアと私を勘違いしているかも知れない状況だ。
(……ええい、考えても仕方ないわ! この人が何を考えているのかなんて、私には分からない。それでも私はやっぱり、クラウス様のことが好きなんだわ)
だって、心臓が痛いくらいに跳ねている。
身体中の体温が、急激に上昇している。
デートに誘われるだけで反応してしまうくらいには、クラウス様に惹かれてしまっている。
「はい……。三日後、よろしくお願いします……」
なんだか視線が合わせられなくて、俯きながら告げた声は我ながら消え入りそうなものだった。
それでも、クラウス様には届いたらしい。
クラウス様の「ああ」といういつもと同じ短い返答には、いつもとは違う熱が滲んでいた気がした。




