第八章 十三湊、檀林寺、福島城(六)
やがて、日が暮れて夜になった。福島城と唐川城の包囲する篝火と浜の半分を占拠する南部軍の篝火が見えるだけで、消えた南部軍の兵は、どこにいるかわからなかった。
月浄は屋根から下りて別堂二階で寝ていた。すると、騒がしい物音で眼が覚めた。
すぐに屋根に上った。だが、水戸口方面に船は見えなかった。騒ぎは遠くの福島城に続く船着場から聞こえてきた。
(夜襲だ。安東軍が夜襲に討って出た)
安東軍が夜中に橋頭堡をこっそり抜け出した。抜け出した安東軍は海を伝って、潟湖の中を静かに潜水して進んだ。
安東軍は潟湖を抜け十三湖を泳いで渡るという、水軍にしかできない遠泳を敢行して、福島城を包囲している南部軍に夜襲を懸けたのだ。
船を待ち伏せる南部軍を出し抜き、夜襲を成功させた安東軍が勝利したと思った。
福島城に入れば、上陸部隊は兵糧の心配をしなくてよくなる。
残っている船団は上陸作戦で人が減った分、兵糧の減りが少なくて済む。
再び船団が揃ったところで、上陸作戦を行えばいいだけだった。今度は福島城側からも攻撃が可能なので、浜にいる南部軍を撃退するのはわけはなかった。
月浄は安東軍勝利により、月光送の封印は不可能になったと思って肩を落とした。
福島城を座って眺めていると、様子がおかしいと気が付いた。福島城側の篝火が昨晩よりも増えており、一向に消える気配がなかった。
すぐに、逆の展開が頭に浮かんだ。安東軍の夜襲は読まれていて、逆に奇襲を受けたのだ。
南部軍は潟湖沿いに兵を隠し、船が入るのを待っていたのではなかった。
夕方まで潟湖の近くの茂みに隠れて、暗くなり福島城より外が見えなくなるのを待つた。
暗くなってから、安東軍より先に十三湖を渡ったのだ。十三湖を渡り終えた南部軍は、安東軍が夜中に十三湖を渡って福島城を包囲する南部軍に夜襲を懸けるのを待っており、寸前のところで弓矢で逆に奇襲を仕掛けた。
おそらく、元安東軍にいた潮兵庫は夜、安東軍が潟湖を遡り十三湖から夜襲をするのを見抜いていたのだろう。
しばらくすると、福島城から南部軍の法螺貝が響くのが聞こえてきた。安東軍の上陸部隊が敗北したと感じた。
月浄は眠れずに屋根の上で朝を迎えた。
朝になると南部軍により取り壊される橋頭堡が見えた。
橋頭堡からの反撃はなかった。昨夜の夜襲失敗によって、生き残った安東軍は船まで泳いで帰ったのだろう。
昼前に福島城が炎上するのが見えた。上陸作戦失敗で多数の犠牲者を出した安東軍には、もう助けに来る力はないと見て、城に火を放ってから、刑部が自害したと思った。
あれだけ呪いがあれば福島城は落ちないと言っていた刑部が、こうも簡単に自害に走った理由はわからない。
本当に小心者だったのか。誰かが月への扉が封印されたと偽情報を流し、信じたのか。
それとも実は刑部もそれほど呪いを信じていなかったが、御屋形様が熱心に信じていたから臣として従っていたのか。真実はもうわからなかった。
ただ、福島城は結局、内部の人間の手により焼き払われた。
火を放った後、安東軍の武士は門を開いて決死の逃亡を図るはずだが、足の悪い主水は敵に討たれた気がした。
昼過ぎには、唐川城からも火の手が上がる光景が見えた。
唐川城から火の手が上がるのが沖にある御屋形様の目にも見えたのか、半刻もせずに船団は北の蝦夷地に向った。
それから十四日あまり、五十隻ずつになり帰ってくる船団が見えた。
船団から浜を占拠する南部の兵と焼け落ちた、福島城と唐川城が見えるせいか、帰ってくる船団は全てそのまま北を目指して進んでいった。
城はそもそも燃えやすいので、城には燃えないような地下倉があった。南部の狙いは武家町と御屋形様の館にある宝や銭より、福島城と唐川城の地下倉が主だった。
船が帰って来なくなると、南部は焼け落ちた福島城と唐川城の地下倉を掘り起こし、安東家が溜め込んだ財物、武具、兵糧等を手に大部分は引き上げて行った。
ただ、月読式目と題された古い本は檀林寺に返された。
福島城の炎上により土塁の中に作られた内閣の建物は焼けたが、土塁の外までは延焼しなかった。南部家は新たに福島城の内郭の内に館を作らせ、十三湊を支配した。
十月十五日【陽暦十一月十六日】。
月浄は今度こそ誰にも邪魔される事態に遭わず、開いている月への扉の前で月読上申経を唱えられた。
月への扉は一度、激しく光を放ってから閉まり、内側から鍵の掛かる音がした。音を立てた月への扉は、月明が灰になった時と同じく、黄金の炎を吹き上げて消え去った。
月浄の手の甲に鍵の掛かった錠前の青い痣が現れた。
檀林寺に戻ってきた本物の月読式目に書かれていた、封印を示す印が手の甲に現れたので、月への扉の封印が完了したと確信した。
封印をした翌日に清兵衛が檀林寺を訪れ、月浄と御住職に面会を申し出た。
三人は御住職の部屋で会った。
清兵衛は真剣な表情で、月浄に尋ねた。
「月浄。月への扉は封印できたのか」
月浄は先人たちの苦しみに敬意を表しながら答えた。
「つつがなく、終りました。これで愚僧が生きている間、封印が解かれる事態は起き得ません。月光送のお役目は一旦ここで途切れました。でも、伯父上、よろしかったのですか、扉を封印して。福島城を手に入れた南部家は、てっきり月光送りを続けるようにと仰るものと思うておりました」
清兵衛は武士の顔になり、月浄に状況を説明した。
「将来的に南部家が福島城を捨てざるを得ない状況が出てきたのじゃ。十三湊に安東家が帰ってくるやもしれん。籤引将軍(足利義教)が南部家に迫って安東家に十三湊を返し、安東家と和睦するように迫ってきておる。安東家が戻ってくれば、月光送を再開しようとするかもしれぬ。そうなれば、月浄、お主は殺されるぞ」
清兵衛は一度、そこで言葉を切り、優しい眼差しで月浄に問うた。
「もう一度、はっきり聞く。一緒に南部に来ぬか。悪いようにはせぬ」
月浄は御住職を見ると、御住職は神妙な顔持ちで頷いた。
「行きなさい、月浄。安東家が戻ってくれば、御城代の意向も無視して月光送を中止したお前はタダでは住むまい。月雲、月念と共に、南部に行くがいい」
「でも、御住職様は」
御住職は笑って答えた。
「何、愚僧一人ならなんとかなる。それに愚僧はもう歳じゃ。長くはない。生きているうちに、月光送が中止できただけで満足じゃ」
清兵衛が月浄の意思を確認するために、じっと月浄に視線を送った。
月浄は合掌して、御住職に正直に心の内を告げ頼んだ。
「御住職には色々とお世話になりましたが、なんの御恩返しもできておりません。また、師のとの想い出深き檀林寺を離れたくもありませんでした。ですが、ここで愚僧が命を落せば、月読の守人三百年の悲願を無駄にしてしまいます。どうか、月浄を、南部に行かせください」
こうして、月浄は雪が降る前に実家がある二戸口に向って旅立ち、母親との再会を果たした。
その後、南部家は足利将軍家の仲介による安東家との和睦を再三に亘って無視していたが、ついに義教が同年十一月十五日付で御内書を発行した。
それでも南部が和睦に応じないと知るや、義教は、畠山、赤松、山名の三菅領に命じ、南部家討伐の幕府征伐軍の編成を命じた。
幕府の征伐軍の編成を知った南部義政は一転、安東康季と和睦。十三湊を安東家に返し、南部義政は和睦の証として康季の妹と結婚した。
二戸口の寺で安東家と南部家の和睦を知ると、月浄はもはや檀林寺には戻れまいと思い独り涙を流した。
ところが、十三湊陥落後の九年後。
嘉吉元年六月【一四四一年六月】に三菅領の一人、赤松満祐により足利義教が暗殺され幕府は混乱に陥った。
幕府の混乱に乗じた南部義政は嘉吉三年五月【一四四三年五月】に再び、福島城を攻略、唐川城も落として、十三湊を手中に収めた。
安東家も津軽最後に残した柴崎城に篭るも南部家の猛攻に遭い、結局は城を捨て蝦夷地に逃げるしかなくなった。
再び十三湊が南部領になった時、月浄は二十六歳になっていた。月浄は檀林寺を訪ねたが、御住職と月崔は高齢のために死去、月玉、月命は行方知れずとなっていた。
月浄は水戸口で月明の弔いの経を読みながら、二度の戦で亡くなった多くの人間のために、涙を流した。
だが、戦はまだ終ったわけではなかった。
嘉吉三年に敗北した安東康季だが、文安二年【一四四五年】に再び兵を起こし津軽西浜に上陸した。されど、康季は戦陣で無念の病死という結果に終った。
二十八歳になっていた月浄はかって御屋形様と呼ばれ、権勢を誇った十三湊の支配者、安東康季の死に、世の無常を感じた。
檀林寺に寄ったついでに、西浜まで足を伸ばして、月浄はこっそり御屋形様の追悼の経を上げた。
八年後の享徳二年【一四五三年】。月浄が三十六歳の時に、安東家と南部家の間でまた戦が起った。
父の無念を晴らすべく、息子の安東義季義季が南部に戦いを挑んだ。だが、これも南部に押し返され、義季は自刃して、ここに十三湊下国安東氏の嫡流の正統な血は絶えた。
享徳二年にも戦で亡くなった人間と、月光送になった人間の菩提の弔うために、檀林寺を月浄は訪れた。だが、月浄が檀林寺を訪れるのは享徳二年が最後となった。
なぜなら、嫡流の血は絶えたが、安東家の血筋自体は絶えていなかったからだ。
康正二年【一四五六年】。盛季【康季の父】の兄弟【道貞】の孫にあたる政季政季と、同じく盛李の兄弟【鹿季】の孫にあたる惟季が共に挙兵。
男鹿半島から十三湊までの日本海側を奪還して、南部氏を駆逐した。
これ以後、安東家は秋田と苗字を変えて大名家となり、明治維新まで続いた。
月浄は実家のある二戸口の寺で、文明八年四月二十三日【一四七六年五月二十三日】、五十九歳で息を引き取ったが、月浄の亡き後、十三湊で月光送が再開された、との話はない。
【了】




