第八章 十三湊、檀林寺、福島城(二)
月玉と月命が、ゆっくりと前に出た。月玉も月命も動きやすいように襷で服を縛っていた。動き辛い僧衣の月浄には、不利だった。
月浄は提灯を投げつけた。草履を脱ぎ捨てた。全力で走って逃げた。
喧嘩になれば勝てないが、脚力なら自信があった。
(寺の中に逃げるのはまずい。月崔が御屋形様を裏切ろうとしていると騒いで、刑部のお墨付きでも所持していれば、味方は少ないかもしれない)
逃げるとしたら、潮兵庫様のお屋敷だ。潮兵庫様のお屋敷まで逃げ込めば、潮兵庫様の麾下の武士がいるはず。
月玉が昔は武士だったのが本当の話だとしても、現役で鍛錬を積んだ若い武士に敵うはずはない。
月玉と月命はすぐに追いかけてきた、予想外に月浄は走りづらかった。逆に月玉と月命の足は思いの他、速かった。徐々に足音が近付いて来るのがわかった。
三門のところまで逃げるのがやっとだった。月玉に後ろから飛びかかられた。月浄は引き倒され、地面に押さえ込まれた。
さらに上から、月命がのしかかると、ほとんど身動きが取れなくなった。
三門の前を通りかかった人の足音が聞こえたので、顔を地面に押し付けられた状態で、大きな声で助けを求めた。
「どうか、お助けください。後ろの二人は僧ではないのです。悪人なのです」
どう見ても、寺から逃げ出した僧侶を他の二人の僧侶が押さえ込んでいるようにしか見えない状況だが、ダメ元で頼んでみた。
激しく地面を人が転がる音がして、体が軽くなった。
顔を横に向けると、月命が転がって動かなくなっていた。おそらく、通りかかった男に脇腹を思いっきり蹴り上げられたのだろう。
月玉も、男が襲ってくると知るや、月浄から転がり離れて起き上がろうとした。
月浄は急いで月玉の服を掴んだ。月玉は半立ちの状態になった。
月玉の中途半端に上がった顔を目掛けて、助けてくれた男が拳を振り抜いた。
骨の砕ける音がして。月玉も仰向けに倒れて動かなくなった。
助けてくれた人物から聞き覚えのある男の声がした。
「この坊主ども、他人に見つかると面倒だ。潮兵庫殿の館で預かってもらえ」
月浄が顔を上げると、背後の人間から提灯を受け取る清兵衛の顔が見えた。
清兵衛の後ろにいた男たち二人が一人ずつ、月命と月玉を肩に担いで、小走りに進んで行った。
清兵衛の後ろには、まだ四人の男たちがいた。
南部家が思っていたより早く動いた。南部が六人もの武士を手配したとなると、南部は今日の月光送の時に、なんとしても月への扉を封印させるつもりなのだろう。
潮兵庫の口元を皮肉っぽく歪めて笑っていた顔を思い出した。潮兵庫の笑いは、今宵の南部の武士の到来を知っていたからだったのだ。
清兵衛が手を差し伸べて、笑顔で声を掛けた。
「月浄殿、月光送の刻限には、まだ少し刻が早かったのではござりませぬか。某、今宵はお供するつもりでしたのに」
「いいえ、愚僧は刻限通りに出ました。伯父上が遅かったのでございます。敵はまだ一人、残っております。ぐずぐずしてはおられません」
武士が五人もいれば、月崔なぞ怖れるに足りない。すぐに月浄は清兵衛の麾下より提灯を受け取ると、塔頭の前に急いで戻った。
塔頭の前では月崔の提灯の明かりが見えた。月崔は少しの間、動かなかった。だが、四つもの提灯の灯りが駆け寄って来るので、慌てて別堂へと逃げようとした。
清兵衛が提灯を投げ捨て、放たれた矢のように月浄を追い越した。月崔に肉薄すると、何かを短い物を清兵衛が振り上げて、月崔の首を打った。月崔が、どさりと倒れた。
月浄は一瞬、脇差で、月崔の首を斬ったのかと思って、怖ろしくなった。
清兵衛に近寄ると、月浄の顔を見て、表情を少しだけ緩めて教えた。
「おいおい、勘違いするなよ、月浄。手刀で首筋を打って気絶させただけじゃ。某は約束は護る。申したではないか。南部家の兵が檀林寺に現れた際、もし月への扉が封印されていなければ、檀林寺の月読会の僧七名を斬る、と。まだ、南部の兵は檀林寺に到達してはおらぬ」
なぜ、あの場で月命、月玉を殺さず、月崔も手刀で打って気絶させるだけで済ませたかを、理解した。月浄を十三湊の人間として、土壇場で意を翻さないように、脅しているのだと感じた。
清兵衛は伯父であるが、南部家の武士なのだ。南部家の兵が来るまでに月光送の封印に失敗すれば御住職、月雲、月念はもちろん、甥の月浄すら、本当に斬りかねないと思った。
別堂へ続く道の途中にも、安東家の武士はいなかった。
月崔は月念と潮兵庫の親密な関係を知っていたはず。でも、潮兵庫の裏に南部家の影がある事態までは、予想できていなかったのだろう。
月浄にしても、今日、清兵衛が応援に来る裏事情を知らなかった。
御住職だけは清兵衛たちが今日、来るのを知っていたかもしれない。だが、秘密を知る人間は少ないほうがよいと思い、あえて、誰にも教えなかったのだろう。
別堂の入口にも、人はいなかった。一応、清兵衛の麾下が刀に手を掛け、扉を開けて中を慎重に改めた。
別堂一階に人はいなかった。二階への階段を上がっても、人影は見えなかった。
月浄は二階の階段を上がったところで、清兵衛に頼んだ。
「護衛はもう結構です。これより、月へ続く扉に封印を施します。月光送に関する儀式は、月読の守人が一人で行う掟になっていますので、これより先はお見せすることができません。伯父上は別堂入口で邪魔が入らないよう、見張りをお願いします」
清兵衛は興味津々の表情で頼んだ。
「某も月への扉というものが本当に実在するのなら、冥土の土産に一度はこの目で見物したいものだ。伯父でも、見せられぬか?」
月浄は清兵衛を強く見据えて答えた。
「今宵は、檀林寺に務めし月読の守人、三百年の悲願の日。伯父上が南部家の武士として譲れぬけじめがありますように、愚僧にも月読の守人として、譲れぬけじめがございます。どうか、儀式の見物はご遠慮願います」
けじめがどうのは、単なる理屈だった。万一にも月への扉を封印が失敗したとき、清兵衛に見られては困るというのが本音だった。月浄は、まだ伯父を完全に信用していなかった。
儀式を一部始終ずっと見られて、失敗したとき。次回の封印のために、今夜の騒動を知った月崔、月玉、月命が殺されるかもしれないと心配したのだ。
清兵衛は月浄の本音を感づいていたかもしれないが、素直に従った。
「相わかった。某は、別堂の外で誰も邪魔にならぬように控えておるゆえ、落ち着いて儀式を執り行え。絶対に失敗はするなよ」
月浄は別堂四隅の蝋燭に火を灯すと、鎧戸の扉を開けた。
空には綺麗な中秋の満月が出ており、封印には持ってこいの晩だと思った。
月浄は、初めて月明と別堂の窓から満月を眺めた日を思い出した。
(お師匠様、残念ながら月光菩薩様は、おられませんでした。あったのは、ただ呪いによる、忌まわしい儀式だけでした。でも、それも、今晩で終ります)
月の扉を開く行為が可能な事態を示す、窓にある印の傷の場所まで、満月が上った。
月浄は、さっそく月の標から距離を取って、月読菩薩経を唱えた。
月への扉と呼ばれてきた、忌まわしい生贄を送る光る扉が現れた。光る扉が辺りを明るく照らした。
月浄は緊張しながら、封印するために、月読上申経を唱え始めた。
百文字も唱えない内に、月浄は後ろから突き飛ばされ、倒された。
何が起こったのか、最初はわからなかった。だが、振り返ると、血で濡れた刃物を両手で持った小菊がいた。
月浄は衣桁に掛っている敷物が揺れているのに気が付いた。
小菊は、敷物の裏に隠れていたのだ。本来の月光送なら、対象となる人物がいるので敷物を敷く。
今回は月光送となる人物がいないので、敷物に近付かなかった。小菊が後ろに隠れている状況に気がつかなかった。
刃物を持つ小菊の手の甲には、三日月型の痣が出ていた。
小菊が泣き顔で、怒ったように叫んだ。
「なんでだよ。なんで、迎えに来てくれなかったんだよ。ずっと、おっとうと、おっかあのいる月に行けると思って、待っていたのに! しかも、封印って、なんだよ!」
月浄は理解した。先月、別堂に侵入したのは小菊だったのだ。小菊は月の標の前で月読心経を読んだのだ。
月崔は小菊に、誰が月光送になるかを調べさせていた。
確かに、泳ぎの達者な海女の小菊なら、檀林寺の南にある土塁伝いに続く、小道の先にある潟湖を提灯を持ったまま、泳いで遡れる。
小菊と月崔との間でいつ、どういう遣り取りがあったのか知りようもないが、月の標の存在を教えたのは月崔だと思って、間違いないだろう。
小菊が次の月光送の対象者だと知ると、月浄が月への扉が封印しようとしていると知らせた。月崔にとって小菊は、月玉と月命が失敗した時のための最後の切札だったのだ。
小菊の叫びが聞こえたのか、階段を人が駆け上がってくる数人の足音が聞こえた。
小菊は刃物を捨てると、懐かしげな表情を浮かべて歓喜の声を上げた。
「おっとう、おっかあ、今、行くよ」
月浄は立ち上がって止めようとした。しかし、脇腹に痛みを感じて立ち上がれなかった。
「待って! 行ってはいけない」
階段に清兵衛の顔が見えた時には、遅かった。小菊は月浄の言葉を聞かず、月の扉に飛び込んだ。
救える命を、一つ犠牲にした。
光る扉を前に、血を流している月浄を見つけた清兵衛は、状況を理解して月浄を抱えた。
「大丈夫か、月浄。すぐ、傷の手当を」
「いえ、それより先に、扉の封印を」
小菊は救えなかったが、ここで扉を閉じないと、おそらく今度からは警備の武士が付けられる。目を盗んで封印するにしても、しばらく封印の機会が来ないかもしれない。
月浄が声を振り絞って、最初から月読上心経を唱えた。されど、三分の二を唱え終わったところで、扉が閉じた。
月への扉を封印するのに失敗した結果もそうだが、小菊を犠牲にした事態を、激しく悔やんだ。
後悔していると、閉じた扉に、人の姿が浮かび上がった。
人は宝冠を被っていた。親指と人差指で輪を作った左手を挙げて、右腕を垂らしている。
「月光菩薩様!」
月浄は思わず叫んだ。だが、清兵衛は「光る扉しか見えんぞ」と怪訝そうにするばかり。清兵衛には見えていない様子だった。
月浄は悟った。最初は生贄を捧げる儀式でなかった呪いが、月光菩薩を信じ、救いを求める経となって唱えられるうちに、いつしか生贄になった人間に御仏が救いの手を差し伸べてくださるようになっていたのだ。
(お師匠様! 御仏はいらっしゃったのです。生贄となった方にも、救いの手は差し伸べられていたのです)
月浄は月明の最後の顔を思い出した。
なにか、怖ろしい物を見たような月明の顔。あれは恐れではなく、月光菩薩を目にしての畏怖の顔だったのかもしれない。




