第五章 月読会の決まりごと(一)
鍛之介が月への扉を潜ってから十四日後。茶礼の時間になると、円月が、にやにやしながら月浄に近付いてきた。
円月は悪戯っこが浮かべるような笑顔で月浄に耳打ちした。
「月浄様、若い女性が、三門の外でお呼びですよ」
円月は明らかに、なにかよろしくない事態が起きるのを期待しているようだった。だが、月浄には全く覚えがなかった。
一瞬、胡蝶が今後の身の振り方で相談しに来たのかとも思ったが、思い直した。相手が胡蝶なら〝若い〟に当てはまらない。
月浄は「はて」と思ったが、三門まで行った。
三門には小奇麗な小袖を着た女性が後ろ姿で立っていたが、思い当たる人物がいなかった。最初は小菊かと思ったが、小菊にしては、身なりが良さ過ぎる気がした。
今まで周った武家の檀家の娘が、法要を頼みにお使いに来たのだろうか。でも、それなら、月浄を呼び出さずとも良いはずなのだが。
月浄は三門の外に出て、女性に声を掛けた。
「拙僧が月浄でござるが、なんの御用でしょうか」
女性が振り向いてわかった。やはり、小菊だった。ただ、今日は以前に見たのと違う立派な小袖を着ており、改まった雰囲気があったので、まるで別人に見えた。
小菊は前回とは打って変わって、殊勝な態度で用件を切り出した。
「写経文が欲しいんです。一筆、書いてくれませんか」
それなら、お安い御用だ。月浄は、すぐに承諾した。
「よろしいですよ。少し待っていただけたら、既に書いたものがあるので、すぐにでも一部お持ちしましょう。それで、なんの経文ですか? 法華経ですか、般若心経ですか」
小菊が、何を言っているんだとばかりに、いつもの口調で口を尖らせた。
「月読菩薩様に上げるお経に決まっているだろう」
話が危険な方向に転がり出す予感がした。
月浄は三門の中を覗いた。すると、円月を中心に数人の小坊主たちが遠くから、月浄と小菊の様子を眺めている。小坊主たちは明らかに、よからぬ勘繰りをしているようだった。
月浄は、まずいと思い、小声で小菊に話しかけた。
「ちょっと、その話はできません」
月浄はすぐに寺に帰ろうとした。ところが、すぐに小菊が月浄を寺の中に入れまいと、袖を強く掴んで「頼むよ」と縋る。
寺の中に戻れずにいると、遠めに見ている小坊主たちが身を乗り出す光景が見えた。
月浄は困り「こっちへ」と、いったん寺の外に小菊を連れ出し、誰にも見つからないように雑木林の中に入った。
月浄は小菊に抗議した。
「困りますよ。寺に押しかけてこられたうえ、袖まで引かれては」
小菊も口を尖らせて言い返した。
「それは、あんたが勝手に寺に戻ろうとするからでしょう。寺に戻してしまったら、もう二度と会ってはくれないし、女は寺の中に入れないだろう」
図星だった。月光菩薩様のために上げる経とは、おそらく、月読心経と月読菩薩経を指す。どちらも、公には絶対できない経だ。
月浄は、きっぱり断った。
「ダメです。月光菩薩様に上げる経は特別な物で、たとえ檀家の方といえど、写経文をお渡しすることは、できないんです」
小菊はそこで何を勘違いしたのか、懐に手を入れた。
「そうか、気が付かなくて、悪かったな。お布施が必要なんだな。大丈夫。ここに、ちゃんと持ってきた」
小菊は懐から小さな布袋を差し出すと、月浄の手に握らせた。
皮袋は意外と重かった。
月浄は俗物根性が出て、いったい何文くらい入っているのかと、小袋を開けた。中には宋銭ではなく、粒銀がぎっしり入っていた。よく見ると、砂金も混じっている。
思っていた以上の金額に、月浄は目を見張った。
小菊が真剣な顔で、両手を合わせて懇願した。
「鮑は金になるんだ。今まで貯めた金だ。これで写経文を売ってくれ。頼むよ」
十三湊でも干し鮑は重要な交易品の一つだ。干し鮑は、熨斗として使われる縁起物で、高価な品であり、産地でも高値で取引されていた。
「できません」と断ろうしたが、金を見て、胡蝶の顔が浮かんだ。
女が子供を産む時は、働きに出られない。
気前の良い鍛之介の性格からして、月光送が決まるまで、あまり銭を貯めているとは思えなかった。
(この金があれば、胡蝶さんは、どれほど助かるだろう)
金を見て固まる月浄を見て、縋り付くように小菊は頼んだ。
「頼むよ。月にいる両親に、私が無事に暮らしているのを、月光菩薩様を通じて教えてもらいたいんだよ。月に向って私が経を唱えれば、きっと月光菩薩様が伝えてくれる。お願いだよ」
親と離れ離れになっている月浄には小菊の気持ちが理解できた。
月浄だって、二戸口の実家に戻った母親の話を風の噂で聞くだけでも、安心すると同時に、寂しくも思う。
鍛之介の胡蝶を心配する顔も頭から離れなかった。鍛之介からは「胡蝶に何かあったら、少しでもいいから力になってやって欲しい」と頼まれた。
(拙僧には何の力もない)
胡蝶の心の支えとなってやれたとしても、経済的には、ほんの少しばかりの手も差し伸べてもやれない。けれども、目の前にある金があれば、胡蝶に心配させずに、無事にお産をさせてやれるのではないだろうか。
月浄は迷った。迷って、自分自身に問いかけた。
(いいのか、月浄。もし経を渡した事態が露見すれば、御住職から破門にされるかもしれないぞ)
寺を追い出されれば、月浄にはもう行き場所がない。いざ決断となると、月浄は我身大事さに、一度は小菊に金を返して断ろうと思った。
断ろうとした矢先に、頭の中に、黄金の炎に包まれた月明と、我が子のためにと月への扉を潜った鍛之介の最後の姿が浮かんできた。
月浄は月浄自身を奮い立たせ、言い聞かせた。
(破門が、なんだ! 師は炎に焼かれ、鍛之介さんは身を捨てたではないか。破門といったって、命まで取られるわけではない。ここで、胡蝶さんを助けられなくて、御仏の教えばかりを、もっともらしく口で説くようなら、拙僧に月明様を師と呼ぶ資格すらない。単なる袈裟を着てクソをするだけの存在だ)
写経文を渡して、金を手にしよう。あの世で、経を売って胡蝶を助けるのが罪だとお釈迦様が言うなら、拙僧は仏弟子でなくていい。
月浄は覚悟を決めると、少し冷静になった。
(とはいえ、月への扉を開く月読菩薩経は、さすがにまずいだろう。もし、小菊が月読菩薩経を唱えて、違う場所に月の扉が開くような事態があれば、お役目に差し支える。でも、月読心経なら、いいのではないか。どうせ、名前は月の標にしか浮かび上がらないのだ。万が一、小菊が毎日のように月に向って、月読心経を唱えても、次からは月の標の前に拙僧が早めにいれば、問題はない)
月浄は手に握らされた布の小袋を、懐にしまった。
「わかりました。写経文を一部お渡ししましょう。また、明日のこの時刻、この場所で」
月浄は念を押した。
「ただ、誓ってください。お渡しするお経は、絶対に人前では読まないでください。お渡しするお経は、本来は、門外不出のお経なのです。写経文を渡した事実が露見すれば、拙僧は寺にいられなくなります」
小菊は破顔して「ありがとうございます」と合掌して頭を下げた。
月浄は先に小菊を返した。
小菊を返した後に、他人目のない状況を確認してから、雑木林を出て悠然と檀林寺に歩いて帰って行った。




